閉じた堅いに、ただ、心臓がうるさい


 困ったな、とシュナイゼルは少しばかり眉を下げてしかしながら、それをさとられぬようにそっと溜息を付いた。

 ここは帝立コルチェスター学院の高等部である。帝国が定めた学校の中でも歴史と伝統を誇り、多くの皇族がここを巣立ち、第一線で活躍しているということもあり、そこに集まる学生たちの多くが貴族であり、国の中でも将来を担っていくのではないかと思われるような有望株ばかり――ではある。
 だが、時として皇族は注目の的であり、羨望の的であり、何かにつけて接触し足がかりをつけたいと思うものたちもいるものだ。皇族と知り合いになり、なおかつ目をかけてもらえれば自分の将来は確証される。――特に、今、彼らの前にいるのは第二皇子にして、学校在学中ではあるものの宰相となったばかりのシュナイゼル・エル・ブリタニアである。第一王子オデュッセウスよりも切れ者で、後の皇帝ではないかと名高い彼とお近づきになりたい……という下心ありありな様子にシュナイゼルは辟易としている。
(こんな時に限って私のアスナはどこに行ったのか)
 そうだ。わかっている。
 アスナは今、警備の関係もあって学院側と話をつけに行っているはずだ。自分に最も年の近い幼馴染であり、従兄弟であり、自分を守ってくれる騎士は今はいない。話術でなんとかここをくぐり抜けるべきだろうし、自分を敵に回そうと思うものなど居ないはずだ――監督生として彼らには自分が規範的な行動を取るところは見せている。

 彼らに笑顔を向けてそれでは、と席を立ち上がる。しかし、殿下、と呼び止められてしまってシュナイゼルが背中を向けたところで、
「殿下!」
 と自分を呼ぶ声がもう一つ聞こえてきてシュナイゼルは視線を向けた。目を見開いた、紅い髪が宙を舞うほどの勢いでやってきたと思ったら、シュナイゼルの前で停まることなく、シュナイゼルの手を取って走り出した。
「アスナ?」
「も、申し訳ありません!ちょっとだけ走ってください!!」
 なんだか、切羽詰まった表情をしているアスナは後ろを確認して顔を青ざめさせた。その視線の先にいるのはフェンシングの格好をした男女、学年問わずたくさんの生徒だった。どうやら、この間、彼女がコルチェスター学院でフェンシング部相手に大立ち回りをしてみせたことが原因にありそうだな、とシュナイゼルは冷静に分析しながらも、つながれたアスナの白い手を感じて、ふと笑った。
 ――たまにはいいだろう。今は、学生。モラトリアムを楽しむべきだ。



「はぁ……」
 逃げ込んだのはロッカーの中だった。最終的にはシュナイゼルが引っ張って入れたのはつい先程のこと。このまま逃げ回っていても埒が明かないと判断したのだ。
「殿下、その」
 すみませんでした、とアスナが少し乱れた呼吸でシュナイゼルを見上げてそういった。薄っすらと汗をかいているのを見ると、どうやらシュナイゼルと逃げ回る以前からアスナは逃げていたのかもしれない、と汗で顔に張り付いていた赤い髪をシュナイゼルはそっと取り去った。
「君も災難だね」
「……あの数になると、おちおち相手もしてられません」
 アスナががっくりと肩を落として言った。そこで、アスナははた、と気づいた。ピッタリと密着した身体に。
(し、しまった……)
 いくら幼馴染とは言え、年頃の男女。もしも、自分とこんなところに入っていた、なんて噂が立ったら……とアスナは考えて一気に青ざめて、それ以前に密着した状況が堪らなく恥ずかしくなってしまって――意識してしまったから、シュナイゼルから離れようと試みるが背中にはすぐ当たるロッカーの壁。
「も、申し訳ありません、殿下」
 す、すぐに出ましょう、と進言してみるもシュナイゼルはくつくつと笑うばかり。それどころか、狭い中で腰を抱かれ、更に密着させられた。ばくん、ばくん、と自分の心臓の音がたまらなくうるさくて、アスナはシュナイゼルの顔を見つめているのがすごく恥ずかしくなって、耳まで熱くなった気分だった。
「顔が紅いよ、アスナ」
「そ、それは」
 殿下が近いからで。
「私が近いのはどうして顔が赤くなるのかな」
「い、意地悪は、やめてください」
 皆のあこがれの的、優しい穏やかなシュナイゼル殿下の顔はここにはなかった。
「ねぇ、アスナ」
 ――教えて? と意地悪く耳元で囁いてくるシュナイゼルに腰が抜けそうになる。高等部に入って一気に大人びたシュナイゼルは時折、こうしてアスナを混乱させる。あ、えっと、とどう言葉を繋いでいいかわからず困っているアスナを見てにこり、と甘い笑みを浮かべると、アスナの手を掴んだ。
 そして、ちゅぅ、とアスナに見せつけるように左手にキスをしてみせた。
「ねぇ、どうしようか。アスナ」

 ――イケナイ事、してみようか?

 甘い、誘惑に、ただただ、心臓がうるさくて、うまく返事などできそうになかった。

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