泡になって溶ける人魚姫


 昔、アスナとよく絵本を目にした。中でもアスナのお気に入りは人魚姫で、決してハッピーエンドではないのにアスナはその本をとてもよく好んで読んでいた記憶がある。それと関係があるのだろうか、アスナは水が好きだ。海にはその体質のせいか行けないが、プールはとても喜ぶし、毎日お風呂はシャワーではなく湯船を引いて、入浴剤もこだわっている位だ。そんなアスナのもう一つの趣味が――アクアリウムだ。

「はーい、ご飯上げるからね」

 アスナはぱらぱらと水槽の中に粉末状になっている魚の餌を撒いている。牛島は風呂上がりにそんなアスナの姿を見つけて立ち止まった。水槽はいつもキレイに整えられていて、水草なども入れられ、熱帯魚が悠々と泳げるようにおよそ数は入っていない。あまり種類を混ぜると喧嘩しちゃうからね、と話していたアスナを思い出す。
「ふふ、かわいい」
「……そうか?」
「わっ、若ちゃん、お風呂上がってたの!?」
 ――今、飲み物用意するね、とアスナは餌を落とさないように持ち直して笑うとキッチンへと向かっていった。そのアスナの背中を見送った後に水槽の中を覗いてみれば魚達がアスナの撒いた餌に群がってパクパクと食べている。十分な餌と環境があれば種類を混ぜても問題はないという話を翠とアスナがしていたが、この種類が今のアスナのこだわりらしい。あまりそういった方面に詳しいわけではない牛島にはこの熱帯魚たちの種類までは分からないが。
「はい、スポーツドリンク」
「ああ、ありがとう」
 アクアリウムは対面のソファに座ると眺められるように置かれている。牛島もアスナもたいていこの時間はその対面のソファに座っている事が多いので、今日も自然にそのソファに腰掛けた。二人共特に会話があるわけではなく雑誌を読んだり、テレビをつけたりと重い思いの行動を取る。ちらりと牛島はアスナを窺い見る。ちょうどアクアリウムを――柔らかな微笑みで見つめているアスナが目に入った。


「アスナは本当は人魚なんじゃないだろうか」


 アスナはぽかん、と口を開いていた。
 しばし、その表情だったが牛島も何か言うわけでもなく沈黙が流れていたが、突然アスナがぷっと吹き出して、あはは、と笑うと笑顔になった。そのまま少し笑った後、柔らかく微笑んで牛島を見つめた。
「俺が人魚なら、声を失っちゃうのかな」
 柔らかで、それでいて切なさの混じった声。――人魚姫は恋をして、人になるために恋を失った。
「俺がいるから声を失う必要はないだろう」
 声を失って、王子は人魚姫を人魚姫だと気付けなかった。しかし、自分は違う、と牛島はアスナの目を見つめながらいい切った。その瞳にじと見つめられてアスナの真白い肌は徐々に淡桃になっていったと思ったら、一気に赤くなり、牛島の腕を掴んで顔をうつむかせた。その耳まで紅い顔は隠しきれず、牛島はアスナをじっと見つめた。
「そ、そうね、若ちゃんが、いるもんね……」
 手が震えている。照れてるのだろう。牛島はふと表情を緩めると、アスナの顎をそっと持ち上げた。紅い顔、赤い瞳、白い髪が顎を持ち上げた瞬間にさらり、と絹糸が触れ合うような音を醸し出して流れていく。顔を近づけるとアスナはきゅ、と目をつむった。そして触れ合う唇が溶けそうなくらい熱くて牛島はそっと目を開けた。
「俺はお前を絶対に間違えたりなどしない」
「〜〜っ」
 耳元で囁かれてアスナは完全に腰が抜けた。牛島の腕の中になだれ込むように顔を埋めて隠して、負け惜しみのように若ちゃんのばかぁ、とつぶやいている。そんなアスナの白い髪をなでて、牛島は満足そうに笑った。


(お前が泡になって消えるなんて、俺は嫌だ)

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