鳥はどうして行く先を知るのだろう


 幼馴染であったその少女が嫁いできたのは彼女が十六、獅子劫が十八のときであった。親同士が決めたどころか、獅子劫家の無理な要望に、双子の片割れ、妹であり、優れた魔術回路を持っているとは言え、双子の姉よりも劣っていた彼女はまるで生贄のように差し出されたようなものではないか、と獅子劫は思った。
 夫婦として改めて向かい合わせになった時、嫌ならさっさと帰れと言った獅子劫の頬を思い切りつまみ上げて、絶対にいなくなってやるもんか、といい切った彼女の笑顔は今も変わらないままだ。



「界離、朝だよ」
 聞こえてきた声に獅子劫は目を開けた。窓から入り込む光が目にはひどく眩しく感じて目を細めた。限りなく目を細めている獅子劫を見下ろしているのはあの頃と外見が何か変化したのか正直まったくわからない嫁――紅葉だった。夕日のようなオレンジ色の髪は長く伸ばされ、頭の頂点でしっかりと紐で結ばれている。
「……何時だ、」
 喉の奥がひどく乾く感覚がした。もう十一時よ、という紅葉は獅子劫が体を起き上がらせるのを待ちながら、コップに移していた氷水を差し出した。しばしぼう、とした後、獅子劫がそれを受け取って飲み干すとはぁ、と一息ついた。随分と寝てしまったらしい、体が凝り固まっている感覚がして、首に手を当てるとゆっくりと回す。ごりごりと嫌な音が鳴り、獅子劫は顔をしかめた。
「シャワー浴びてきたら? ご飯はしたくしておくから」
「……おう、そうするわ」
 タオルと着替えを一式押し付けられて獅子劫は渋々と立ち上がった。紅葉は少し上機嫌にリビングの方へ戻っていくのを眺めながら、逆方向にあるシャワールームを目指した。

 熱いシャワーを浴びれば一気に目が覚めた感覚がする。はぁ、と一息をつきながらとある魔術師から譲り受けたタバコを一本だけ口に咥えてライターで火をつけた。リビングのドアを開けると、コーヒーの香りと、すでに朝食と言うには時間が遅く、昼食と言うには幾ばくか早い食事の芳しい香りを感じて、獅子劫は表情を緩めた。
「昨日、遅く帰ってきたものね」
 はい、と差し出されたコーヒーを受け取って獅子劫は椅子についた。淹れたての暖かいコーヒーを飲んで新聞に手を付けた。サラダが取り分けられて、獅子劫の前に出される。ドレッシングはそっちにあるからね、と言われ、おう、と返事を返す。紅葉も席につくと、たっぷりとサラダを乗せたトーストを手にとっていただきまーすとかじりついた。
「界離、今日は用事ないんでしょ?」
「予定ではな。急な連絡があったらわからん」
「そう」
「……買い物行くなら付き合うか?」
 そっと妻の様子を伺い見てみれば、ぱくりと噛み付いたパンのソースを口の端にたっぷりつけながらニコリと笑う紅葉が目に入る。ああ、回答としては正解だったらしい、と安堵すると新聞をテーブルに戻してトーストにバターを塗った。
 指で口の端にソースがついていたことを教えると、紅葉はぺろり、と舌でそれを舐めた。
「結構おうち開けてたから、生活用品足りないのあるの」
「そうか」
「食べたらお出かけしましょ」
 楽しそうな声だ。昨日までその手で刀を握っていただなんて誰が想像するのだろうと思った。いつも見ているはずの獅子劫ですら時折想像できなくなることがある。
 親の取り決め同士で結婚した幼馴染。獅子劫家が行おうとしていたことに反抗した獅子劫はあっさりと実家から出た。紅葉とも離縁しよう、その旨を伝えたというのに、彼女は何も言わず獅子劫についてきた。フリーランスの賞金稼ぎになるときも、戦場を駆け抜けた時も、彼女がただ待っていることはなく共に戦ってきた。

「……馬鹿な女」

 思い返して呟いた言葉。はっ、と気づいたときにはすでに遅く、じっと自分を見つめる碧眼に獅子劫は少しばかりの居心地の悪さを感じた。しばし見つめ合いを続けた後、にぱ、と笑った彼女は自信満々な表情で貧相なその胸に手を当てていった。

「馬鹿な男にはちょうどいいでしょ」

 そういうその表情はあまりにも自信満々で獅子劫はしばしぽかん、と紅葉を見つめて、そして笑いだした。くつくつ、と喉の奥で笑うようにしながら、少しずつ面白くなって肘をついた手で目元を隠して、呟いた。
「そりゃ、そうだ」

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