しかしてくだらない日々


 紅葉が眠りの淵から意識が浮上してくる感覚とともに目覚めたのはいつもと同じ時間。カーテンの隙間から入ってくる朝日の高さからいって時刻は――午前五時頃といったところだろうか。相変わらず正確に鍛えられている体内時計のおかげで寝坊することなく紅葉は目を開いた。時計は確認するまでもない。隣で眠っていたはずの夫の姿がなく、紅葉は少しばかり目にある魔術回路――魔術師が魔術を使うため、魔力を通す疑似神経――に力を込めた。相手と視界を共有することの出来るこの"魔眼"で夫と視界を繋げば、地下にある工房に篭っているらしい。まったく、と紅葉は肩をすくめてベッドから足を下ろすと、クローゼットを開いて適当に服を取り出した。

 ――とりあえずは朝ごはんの支度である。



* * *



 コンコンと木でできている扉をノックした独特の音に獅子劫界離は振り返った。夕日のようなオレンジ色の髪に翡翠の瞳――シンプルな服装に、犬のワッペンのついた黒いエプロンをしている妻――紅葉が立っているのを見つけるとしまった、とバツが悪気に肩をすくめた。
「研究熱心で結構だけど、ちゃんと睡眠と食事は摂ってちょうだいね」
「……悪い」
 ニコニコといつも通りの笑顔なのが何分にせよ怖いものだ。幼い頃から一緒にいる所謂幼馴染である二人だが、紅葉がこうしてニコニコ笑っている時はたいてい、その表情通りの感情ではない。今回は呆れと諌めを含んでいる笑顔だと十分に理解しているためか、獅子劫は何も言わず工房の椅子から重い腰を上げた。夜中に目が覚めてから工房に閉じこもり、座りっぱなしで作業をしていたせいかひどく体が凝り固まったように感じる。背中をトントン、と叩けば紅葉からついに呆れのため息がこぼれ落ちた。
「もう、ずっと作業してたんでしょ」
「あー……」
「とりあえず、ご飯食べたらお風呂入って少し休んだら?」
「……そうするか」
 こういうときの紅葉には逆らわないのがいい。――というよりも、自分の不摂生で怒られていて、これに関しては反論しようがないため獅子劫は黙って先に歩き始めた紅葉についていくためにある程度机を片付けた。出しっぱなしにして置けるようなものではないのだ。魔術師の死体の取り扱いもあるからか、片付けに関しては紅葉は手出しはしない。そも、他人の工房に手出し口出しするようなことをしないのが紅葉の中にあるルールのようだ。獅子劫は適当に片付けを済ませると、扉のところで待っていた紅葉に近づいた。
「ん」
「……?」
 紅葉が両手を伸ばしてくる。しばし、獅子劫が何もせず紅葉を見下ろしているとむくれた顔をして、「おはようのちゅーは?」と獅子劫に強請った。夫婦らしいこと、といえばそうなのだろうが、ただの戯れで始まったようなそれが慣習化しているのが獅子劫にとってはひどく、こう、恥ずかしいのだ。紅葉は年齢こそ、獅子劫の二つ年下であるが外見の年齢は十代の後半、二十代の前半くらいの外見をしている――所謂童顔と言われる顔立ちと体型をしているのだ。
「界離……」
「わぁーった、わぁーった」
 大きな丸い瞳じっと見上げてくるのに両手を上げて降参すると、少しでも顔を近づけようと背伸びしている紅葉の肩にそっと片手を置き、もう片方の手は白い頬に添えた。ちゅ、と触れたのは頬だ。夫婦なんだから唇でもいいだろう、というツッコミを以前彼女の姉から受けたことがあるが、別にこれでも間違ってないはずだ、と獅子劫は顔を離すと、案の定面白くなさそうに顔をしかめた妻の顔が目に入った。
「……普通、頬じゃない」
「挨拶なんだから、頬でいいんだよ」
 そう言いながら頭を撫でると少し怒った体ではあるが、表情が少し和らいだ。獅子劫の大きな手を堪能するように目を細めて、そして柔らかく微笑んだ。もう、と口ばかり怒っている妻から手を離すと、紅葉が獅子劫の首に腕を回してきてぐいと引っ張られた。
「ん……」
 うっすらと開かれた口から少し吐息が漏れる。しばし、唇を触れ合わせるだけのキスを続けて紅葉が満足気な表情で離れるともう一度獅子劫の唇に一瞬触れるだけのキスをした。
「……お前なぁ」
「ふふー、おはよう、界離」
「…………おはよう」
 渋々と言った顔。でも、紅葉にはちゃんと紅く染まった耳が見えているわけで、くす、と笑うとなんだよ、と低い声が飛んできたのでなんでもないよと笑ってその手を握ってまだ冷めてないであろう朝ごはんの置いてあるリビングを目指した。

 ――幸福な
 しかしてくだらない日々の話である。

ALICE+