人形であったものと、人形であるもの


 初めて彼女を見た時、その美しさも相まって紅葉には彼女が生きているとは言い難い何かを感じた。
 時計塔の、夫の話が最終的に終わるまで、少しばかり暇になってしまった紅葉はかつて学び舎としていた校舎の中をぐるりと回ってくればいい、と恩師でもないが無関係でもないベルフェバンに言われてしまい、確かに暇だったしそれもいいか、と部屋から出ていく。周りに迷惑かけんなよ、という些か失礼なことを口にする夫――獅子劫界離に思いっきり舌を出して抵抗を見せてやれば、彼は困ったように笑っていってこい、と手を振ってくれた。

 久しぶりに歩いてみて思ったのは――代わり映えのしない場所だ、ということだ。
 魔術とは時間の重なりこそ全て。
 長い時間をかけて研鑽し、それを次代へ引き継いでいくことこそ使命。故に時計塔の建物はその歴史に見合った――長い時間をかけて作られた歴史ある建物だ。魔術協会の中心にして最新の研究機関。まあ、ここに来たから魔術が確実にレベルが上がるとは限らないわけで。紅葉は自分に奇異な目を向けてくる学生たちを通りすがりながら、ふうとため息を付いた。
 外見的な問題で、紅葉は非常に有名だ。

 夕日のようなオレンジ色の髪。若葉のような翡翠の瞳。真白い肌と、子供のような体躯。

 魔術師が紅葉に興味をもつのはその特異な魔術特性のせいだ。
 彼女の両目は魔眼――しかも、この時計塔のロードでも持っているだろうか、と噂される黄金級の魔眼を所持している。眼鏡をかけ、そのガラスの奥の翡翠の瞳が魔術師たちの中で如何程の価値を持つものか。紅葉の予想では天文学的数字で金額がつくのだろう、と知っている。自分の死体は――決して安らかな死を迎えられない。
「……やっぱ、界離のところにいればよかった」
 戻ろうかな。
 そう思ったところでその少女が目についた。
 目が合うと、彼女は紅葉をしばし見つめ、深い緑色の瞳を数度瞬かせた。彼女は紅葉の元へ歩み寄って来る仕草を見せた。一瞬身構えかけたが彼女から敵意を感じるわけでもなく、何かをしようとする意思は視えない。静かに警戒をしていない風を装いながら、しかし、いつでも足のホルスターにかけてあるナイフが取り出せるよう意識は向け続けた。
 彼女が時計塔の学生ではないとすぐに気付いた。彼女の服装は修道女のそれだったから。即ち、この魔術協会の人間ではなく聖堂教会の人間だということだ。魔術協会の本山である時計塔に聖堂教会の人間がいることに多少なりとも違和感を感じなくもないが、今回の聖杯大戦のことを考えれば致し方のないことかもしれない。
「失礼――獅子劫紅葉さんでしょうか」
 流暢な日本語だった。
 美しい金の髪は時計塔の窓にはめ込まれたステンドグラスの光を受けて、青っぽくなったり、赤っぽくなったり、白い光を受けて美しく輝くのが見えた。身体的な欠陥を抱えている紅葉よりも遥かに大きな背丈だが、女性としては平均的な身長だろうと、紅葉は納得した。外見からしてドイツ系かな、と目星をつけながら、紅葉はいつもどおり快活に笑ってみせた。
「ええ、そうよ。貴方は聖堂教会の所属かな」
 自分のほうが年上だとすぐにわかった。外見的な若さからわかるのではなく雰囲気だ。修羅場は幾度となくくぐってきているだろうが、それでもまだ若さの残る、若干の甘さ。――命のやり取りすらビジネスライクと割り切る自分や獅子劫とは違う空気だ。
「はい。――監督役に選ばれたシロウ・コトミネの妹のユキコ・コトミネです」
「そ。俺の自己紹介はいらないでしょう? どうせ、調べているのだろうし」
 彼女は頷いた。
 自分の話しかけてくる用件が一つであることくらいは紅葉にはわかっている。
「界離に用事ね。――聖杯大戦について」
 魔眼はまだ見せる必要はなかった。味方側であることは聞いているが、敢えて情報を多く提示する必要はない。界離もおそらく、自分の魔眼は最後の手段だと思っているだろうし。そろそろ、界離の話も終わるから一緒に行きましょうか、と誘えば彼女は小さく頷く。
 感情の乏しい、まるで人形のような彼女を見て同情的な考えが浮かばないわけではない。しかし、紅葉はそれに同情できるほど優しい性格ではなかったし――何より、その表情は見覚えがある。そう、かつて――獅子劫界離に嫁ぐ前の自分だということに気づくのは時間がかからなかった。

 ユキコと名乗った少女の用件はシギショアラの教会で監督役が待っています、という話だった。ルーマニアへの移動へは彼女が同行することはなく先に向かっているとのこと。仕事の準備は常に整えている二人であったから、改めて自宅に帰る必要はなさそうだ。獅子劫は紅葉をこの聖杯大戦に連れていくつもりはなかったらしいが、紅葉はついていく気しかなかった。
「今更、置いていかないでしょう?」
「……わぁったよ」
 ただし、基本的に戦いでは逃げてくれ。
 それは獅子劫なりの譲歩だったのだろう。でも、紅葉はわかっていた。――きっと、この戦いが自分の死に場所だと。
 ルーマニアへの飛行機での移動は直行便で約四時間ほどだ。紅葉の武器だけは直行便に乗せるわけには行かないので(まんま刃物だからだ)専用の運び屋にイギリスからルーマニアまでの手筈を整える。これもだいたいいつもどおりのルーティーンなので、獅子劫も空港で紅葉が運び屋に依頼している姿を見るのは特段疑問には思わなかった。
「お前はどう思った?」
 発着ロビーで獅子劫がコーヒーを飲みながら紅葉に話しかけた。コーヒーショップでコーヒーと紅茶を買ってきたのは紅葉だったが、それもたいていいつものことだ。獅子劫は外見が怖すぎて、他者に第一印象でいい印象は確実に与えないので外見的にとっつきやすい紅葉が準備するのだ。
「何が?」
 敢えてわからないふりをする。獅子劫は笑顔こそ絶やさない人ではあるし、実際に話しをすれば話しやすい人間なのだが、なにせ妻である紅葉には言葉足らずになる傾向がある。原因は長い間一緒に居てわかってくれると思っているところが半分、紅葉の魔眼の能力を知っているのが半分。
「――ユキコ・コトミネっていうシスターのことだよ」
「貴方はどう思ったの?」
 人に聞く前に自分の見解を話しなさいな、とちろりと伺ってみれば、獅子劫はたまらなく言いづらそうな顔をして頭を掻きながら紅葉から視線をそらした。うむ、では同じ見解だ、と紅葉は頷いた。
「人形みたいだった。――かつての、界離に嫁ぐ前の俺のような、といったら彼女に失礼かな」
 あの時の自分の悲惨さはおそらく死んでいたのも一緒だ。
 記憶に蓋をして考えないようにしていることを蒸し返させるのが嫌だったのか、いや、そういうつもりじゃない、と獅子劫は慌てて紅葉に言い放った。その姿があまりにも慌てていて紅葉はつい吹き出してしまった。声を出して笑い出すと獅子劫は苦虫を噛み潰したような、渋い顔をして
「俺は心配したんだが……」
「ごめん、ごめん」
 謝りながら紅葉は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。あー、と笑った後のため息を付いて、獅子劫を見ながら思考はあの人形のように美しいと思った少女を思い出した。
「マスターではないのでしょう」
「……ああ。じいさんからもらった情報にはねえな」
「なら、あまり界離が今のところ深く気にかける必要はないんじゃない?」
 とどのつまり、獅子劫が欲しかった言葉とはそれなのだ。聖杯大戦に挑むにあたって余計な思考は排除しておきたいと思いつつもあの少女のことが気にかかったのだろう。人形のような、その表情とか、彼女の外見的な年齢がどうしても獅子劫に思い出させるものがあった。だから、紅葉にそれを打ち明けてくれた。"信頼"されていることに紅葉は安堵感を感じながら、笑いかけた。
「今は、目の前の戦いに集中しなければ」
 紅葉が飲み終わった紅茶のカップを少し離れたところにあるゴミ箱に向かって投げた。多少の魔術を使って軌道を修正すれば一発でカップはゴミ箱の中に吸い込まれていった。おい、と獅子劫の咎める声が聞こえるが、紅葉は大丈夫よ、と笑って立ち上がった。
 そろそろ、搭乗時間だ。




* * *





 ブカレストでセイバーを召喚し、そのままシギショアラへ向かう。丑三つ時からすぐ移動に時間を費やしたので紅葉は眠くてたまらない。外見に違わない子供と似たような体の特性に本当に時として困らせられるが、シギショアラに入って朝日を浴びると体はいつもどおりの活動をしようと動き出してくれるからありがたかった。
 朝食は? と獅子劫に聞けば、彼はとりあえずは夜行バスで適当につまんだもので十分だという返事が返ってきた。シギショアラにやってきたのはユキコという少女が言ったとおりここに赤側のマスターの一人であり聖堂教会の監督役である神父に会いに来たからだ。一応は味方側だが、信頼するかかどうかは話は別。いつもどおりの雰囲気でありながら、獅子劫の表情が若干強張っているのを紅葉は見逃さなかった。
「じゃあ、朝食は後にしましょ。でも、何も食べないのも、良くないし……とりあえず、あ、あそこにある出店のパンでもかじったら?」
「……お前に任せる」
 獅子劫はどうやら紅葉に譲歩することを決めたらしい。淡く微笑んで、紅葉はパンを買うために店の元へ走った。店主は紅葉を見ると外見的に子供だと思ったらしい、接し方や言葉尻にそんな雰囲気を感じて紅葉は苦笑しつつも、いつもどおりパンを数個購入した。
「貴方も食べる?」
 店から少し顔を出してそこに立っていたユキコという少女に声をかけた。彼女は一瞬驚いた顔をして、しかしいつもどおりの無表情に戻っていえ、私は、と言った。そう、と決して押し付けがましくなく、紅葉は店主にお金を渡して出店から離れる。少し離れた場所で待っていた獅子劫もユキコの存在に気付いてよお、といつも通り手を上げた。
 シギショアラの山上教会の木造の階段を歩きながら紅葉はパンを頬張った。この地方のパンは柔らかい印象よりも少し硬めのしっかりとした食感がいい。ルーマニアに来るのは初めてではなく、獅子劫との仕事で何度か来たことがある。しかし、かつての雰囲気とは違って――少し緊迫したものを感じる。
「いい眺めね」
 紅葉が誰に言うでもなくそういう。獅子劫がこの手の会話に乗ってくることは稀だ。まして、これから聖杯大戦の話を死に行くというのだ、景色などきっと目に入っていないことだろうから、後でしつこく聞いてみようと思った。
「そうですね」
 恐らくは社交辞令だが、彼女から言葉が返ってくるとは思っていなくて紅葉はつい目を見開いた。そしてしばしたまらなく嬉しそうに笑って階段を二段飛ばしで軽快に、踊るように進んでいく。紅葉の履いているロングブーツのヒールが思ったよりも重たい音を発しているのに、紅葉の動き自体はとても軽やかで楽しそうなものだったのを追い抜かされたユキコはじっと見つめていた。
(……眩しい)
 それがルーマニアに降り注ぐ煌々とした太陽の光だったのか――それとも眼の前にいる彼女の雰囲気がそうだったのか。恐らくは後者だと、ユキコは後に気づく。彼女は自分と似ていたのに、限りなく自分とは離れた道を選んであるき続けていると知ってから。
「ねぇ、界離」
「ん?」
「教会ついたら、お祈りしてもいい?」
「勝手にしろ」
 獅子劫の淡白な返しにも慣れているのか、紅葉はわーいと楽しそうに笑いながら最後の階段を踏みしめた。シギショアラの山上教会はとても美しい荘厳な造りだった。ルーマニアの伝統様式である真白い壁は太陽を浴びて輝いているようにすら見えた。神のための、神に祈るための場所。
 ユキコが静かにそのドアを開き、祭壇の前で祈りを捧げている一人の青年の元へ歩み寄っていく。紅葉と獅子劫は顔を見合わせること無く、獅子劫が先に一歩踏み出し、紅葉は静かにその後をついていく。

 紅葉は眼鏡を教会に入る前に外していた。
 シロウ・コトミネと名乗った神父は神父というにはまだ年若く、監督役に選ばれたということは第八の所属だろうかと紅葉は思案する。第八秘蹟会――神秘(魔術)に関わるものの回収を主な仕事としている彼らと獅子劫の仕事内容は一部合致するところがあり、獅子劫も教会側に何人か仕事での知り合いがいる。
(……こいつ、)
 紅葉はただならぬ嫌悪感をシロウと名乗る男から感じた。魔眼がうずく、膨大な魔力の流れを感じているのかそれとも何なのか、この男は信用してはならないと体中の何かが警鐘を鳴らし、今にも武器を取りそうになる体を必死で意識で押さえ込みながらシロウを見やった。
「失礼、獅子劫さん、彼女は――」
「あー……」
 界離は言いづらそうに渋った。妹のほうが知っていたと言うのに、兄は紅葉のことは調べていなかったのか、もしくは自分が来るとは思っていなかったのか。
「嫁だ」
 シロウは数度目を瞬かせて、そして笑った。彼の隣に立っていたサーヴァントは紅葉を見やって妖艶に微笑む。この手の女は紅葉は最初から好まないタイプなので、最初から警戒心むき出しのモードレッドに賛成の言葉しか無い。紅葉は何も言わず椅子から立ち上がるとユキコの前に行き、マリア様にお祈りしても良いかと聞く。彼女は修道女でありながら信仰心には薄いのか、どうぞ、と淡白に返すばかりだ。ありがとう、と微笑んで紅葉は首から下げているロザリオを手に取った。
「熱心な教徒なのですか」
 ユキコの耳に入ってきたのは兄の言葉だ。それはユキコではなく獅子劫に向けられたものだと気づきながら、ユキコはそちらに視線を向けた。獅子劫はさあ、と短く答えながらもじと妻の姿を見ていた。
「あいつはなんでもいいから縋り付きたいって思った時期があったから、それの名残だろう」
「なるほど……神に縋ったのですね」
「まあ、叶えてもらえるはずもなかったんだが」
 それから獅子劫は共闘の話は拒んだ。それは祈りを終えた紅葉が隣に戻ってくるとその眼鏡を外した目を見やったからだ。紅葉は何も言わなかった。何も言わず、獅子劫の手をつかむ。ただ、それだけが獅子劫にとっては重要だったのだろう。ユキコに見えたのはそれだけで、実際には彼が念話でモードレッドと会話し、彼女の直感を信じたことも大きいとは知らない。
 獅子劫は彼女の手を引いたまま教会から外に出ていく。その足早に遠ざかっていく足音を聞いていると、シロウが静かにしかし、彼が発するにはひどく低い声で言った。

「やはり、あの"魔眼"は邪魔ですね」

 振り返った。
「え?」
「いえ、何でもありませんよ、ユキコ」
 にこりと、兄はいつもどおり笑った。


「お前はあいつを信用ならない、と思ったんだろう」
「……うん」
 後ろ髪をひかれるように紅葉は山上教会を見上げた。シロウ・コトミネは信用ならないと思ったが、彼女は違う。
「彼女は無垢だったよ」
「あ?」
「ううん、なんでもない」
 また会えたら、もう少し気にかけてあげよう。
 紅葉は静かにそう思うと、モードレッドの現代の服を整えに行くという獅子劫について歩き出した。

(きっと、あの子が生きていたら、もうあのくらいにはなっていたかな)

 口に出すこと無く、きっと同じことを考えているであろう獅子劫の横顔を見上げた。

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