貴方は世界で一番やさしい


 木ノ葉の里に春がくる。長く寒い冬が終わる頃には薄桃色の花がひら、ひらと落ちる。何事もない、ただの穏やかな日常が、今日も幕を開ける。
 朝ごはんはご飯とキャベツの味噌汁、卵焼きにほうれん草のおひたし。卵焼きにはたっぷりと大根おろしを添えた。食卓には二人分。料理を食べる主であるうずまきアスナは食卓について手を合わせた。――目の前には里の長、六代目火影のはたけカカシが座っている。同じように手を合わせて、声を揃えていただきます、と箸に手をかけた。かちゃ、と食器が動く音と食べる音が聞こえて来て、アスナもカカシも何も言わない。二人きりの静かな朝ごはんの光景だった。
 卵焼きを口に運んだカカシが一つ呟いた。おいしい、と。アスナはにこりと笑った。そう、よかったわ。味噌汁は出汁から取った。出汁を入れて焼いた卵焼きはふんわりとしている。ほうれん草のおひたしも美味しい。昆布の佃煮を乗せたご飯をかきこむとたまらなくいい香りだ。――何も、変わらない朝のはずなのに、とカカシは食事からアスナへ視線を向けた。
(時々、とんでもなく遠くを見るんだな)
 それは口にだすのは憚れた。この生活がいつか、終わることは知っていたがそれでも現実を受けきれない自分がいるのかと、思うと少しだけ滑稽に見えた。
(わかってた、くせにな)
 アスナはいなくなる。その日はもしかしたら近いのかもしれない、と思ったところでアスナがカカシへ告げた。
「遅刻しちゃうよ、火影様」
「え、あ、やばい」
 作ってくれたアスナには申し訳ないが慌てて食事をかきこんで、カカシは立ち上がった。アスナも食べ終わっては居なかったが立ち上がって、カカシの支度を手伝う。羽織を手渡して、忘れ物はないかと玄関先で問う。大丈夫だ、というカカシは脚絆をしっかりと止めて、玄関を開けようとして振り返った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 いつもと変わらない――朝の光景が終わった。



* * *



 暗闇は嫌いだった。――静かで、なにもないから、とても不安になる。
 誰もが寝付いた夜、アスナは静かに家を出てきた。カカシはまだ家に戻っていなかった。きっと仕事が忙しくて今日は帰ってこれないのだと思った。夕飯だけ食べて仕事へ戻った彼を見送って、テーブルには手紙を置いてきた。最後の夕食もいつもと変わらない。今日はカカシの好きなものばかり食卓に並べてみた。すると、彼は今日何かあったっけ? と首を傾げて、驚いた顔をするものだから、つい笑ってしまう。
 ――最後の、私の晩餐は、貴方の好きなものが良かった。
 それは口にだすこと無くアスナは笑った。いつも頑張っている火影様への労いよ、と言えばカカシは困った顔をしてまた仕事がんばって来なくちゃなぁ、と言っていた。そう、頑張ってね、と笑ってカカシへ食事を促して、食べた彼は仕事へと戻っていった。手を振ってそれを見送って、そのアスナの後ろには迦楼羅が現れた。
『征くのか』
「うん」
 もう、決めていたことだから。
 誰にも、そのことは告げていない。これは最後の夜。貴方と何事もない日常を最後まで過ごすことができて、たまらなく幸福だった。幸せだった。だから、笑って行こう、そう決めていたのに。目の前の視界がじわり、と滲んでいく。ほら、食器を洗わなくては、と思い返してみるがうまく体が動いてくれない。
 ――怖いよ。
「これが、最後」
 ――不安だよ。
「今日、私は――」
 ――誰か、気づいて。

「――死にに行くの」

 鍵をかけたドア。鍵はいつもどおりわかり易い場所に入れておく。カカシがいつ戻ってきてもいいように。アスナは涙の痕が残った顔で柔らかく微笑んだ。暖かな家だった。たくさんの思い出がここには詰まっていて――とても離れがたい思いになる。静かに背中を向けた。もう、二度と自分がここに戻ってくることはないのだろう。そう思うと心が冷たく、硬く、今にも立ち止まってしまいたくなる。
「弱音は吐かないって、決めたもんね、迦楼羅」
 そっと胸に手を当てた。
 小さな蒼い炎が一瞬だけ、花のようにアスナの前で瞬いて消えた。彼なりにアスナを励まそうとしているのだろう、アスナはふと笑って一歩踏み出した。目指すは木ノ葉の里の門――そこから外へ出るために。
 静まり返る夜はとても静かだ。まだ木ノ葉の里は復旧が完全には終わっておらず、飲み屋街もまだまだ不完全ではあるが活気はあった。行き交う人々を眺めながら、アスナはひたひたと進んでいく。賑やかな街もこれが最後なんだな、とたくさんの人の気配と、息づくそのすべてを感じながら歩いていると声をかけられた。
「アスナちゃんじゃねーか、どうしたんだ、こんな時間に」
「一楽のおじさん」
 ラーメン屋一楽の店主だった。もう少しで引退すると聞いていたがまだまだ店先に立っているらしい彼はアスナに優しく声をかけてくる。アスナは笑った。
「ちょっとお出かけに」
「この時間にか?」
「はい。なるべく早めに戻るから、大丈夫ですよ」
「……気をつけてな!」
「はい」
 帰ってこれない、と知っていたのに、嘘をついた。じくり、と心臓が痛む。マントのフードをかぶって、ぎゅうと引き寄せた。不安に押しつぶされそうな心が悲鳴を上げている。一歩、一歩、外へ近づく度に不安で、逃げ出したくて、泣きそうになって足を止めそうになった。

「やめるか」

 聞こえてきたその声は迦楼羅のものではなかった。
 ふと、顔を上げれば門の前に一人の男が立っていた。この時間は見張り以外には誰も居ないはずなのに――見張りの姿はどこにもなく、ただその男だけが立っている。坊主のような袈裟を身にまとい、錫杖を手に持ち、大きな笠をつけている男――カスカはアスナの姿を見て、ふと笑った。
「やめて、引き返すか?」
 今なら戻れるぞ、とその男は言った。
 アスナは静かに首を横に振った。それはあまりにも甘美な誘惑ではあったが、アスナは振り払うように笑った。不安も、心配も、恐怖もたくさんある。だけど、それを顔に出すことだけはしてはならない。――すべての真実を知っているこの男の前でそれを出してはいけないと、知っているからだ。

 自分を一人の人間として認めてくれた男だ。
 認めてくれた上で自分を相棒と呼び、共に戦い、共に歩んでくれた人だ。
 そしてーー自分を殺すと誓ってくれた男だ。

 どうしてそれを裏切れようか。
 アスナはすべてを押し込んで、笑う。カスカの前で、不安そうな顔も、恐怖に滲んだ顔はできない。彼を心配させてはならないと知っていたから。
 その笑顔にカスカは一瞬だけ俯いた。そして、きゅ、と唇を噛み締めた。彼女の決意は変わらないと知っていたはずだった。死ぬために生きてきた。しかし、それは絶望に溢れた人生ではなく、ポジティブに死ぬことを考えてきた彼女がついに、その人生に幕を引こうとしている。永遠の人柱として、人であることに終わりを告げ、ただの機関として眠りにつこうとしている。それを見送る人間が不安そうな顔をしてはならないと、知っている。
「帰らないよ」
「そうか」
「カスカ、ありがとう」
「ああ、」
 アスナは進んでいく。
 カスカを通りすがって、アスナは立ち止まらずに進んでいく。

 蒼い燐火が一つ、弾けた。

「おやすみ、カスカ」

 あまりにもその顔が死ににいく人間の顔には見えなくて、本当にベッドに入って眠るだけの、そんな当たり前の――顔をするから。
 強いな、と思った。
 きっと、死ぬ直前にそんな顔ができるのはその人生に一つの後悔も――ないからだ。未練はきっとあるんだ。まだまだ見守りたいものがあったはずだ。一緒にいたかった人間が居たはずだ。できるなら、彼女は普通の人間として、当たり前に生きてみたかったはずだ。人のぬくもりに触れて、抱きしめたり、抱きしめられたり、普通に恋をして、愛した人に包まれ、愛する子供を抱き、そんな人生に未練がなかったはずがなかった。

(何で、笑うんだ、アスナ)

 初めて出会った頃から、差し出されなかった手の代わりに彼女は満面の笑みを向けてきた。あの頃から何も変わらないその笑顔が感覚を鈍らせる。
 アスナはまた帰ってくるんじゃないか。
 朝になったらまたアスナはいて、また、おはよう、と言って笑ってくれるんじゃないか、なんて考えてしまった自分が嫌になった。カスカは笠を引っ張って顔を覆い隠した。すでにアスナの背中は遠くにある。迷わず、立ち止まらずに進んでいく彼女の背中には蒼い炎の翼が見えた気がした。
「ああ、寒いなあ」
 暖かな、その炎は消えた。
 死んだように冷たかった自分に火を灯してくれた相棒は。
 春先の、少し冷えたような空気だけが残って、カスカは空を見上げた。憎たらしいくらいの綺麗な星空が広がっている。

「寒いなあ、アスナ」

 お前は、きっともっと寒いんだろう。
 冷たい風になぜられて、瞳から流れ落ちた雫がひどく冷たく感じた。


 大きく、炎の翼を瞬かせて、アスナは一つの地下へ入っていく。
 眠る場所。
 迦楼羅たちを封じる場所。
 永遠の人柱。
 二度と覚めることのない眠り。

『憎くはないか』
「どうして?」
『お前を犠牲に幸せになるその世界を』
「ううん」

 アスナは笑った。
 そう、最初から決めていた。

「だって、私はこのやさしい世界が大好きだもの」

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