Squall


 MonoChromeの寮の共用ルームには大きなグランドピアノが設置されている。そこの前に座って作曲したり、ただ気ままに指を走らせるのがアスナの日課だ。A'sとしてアイドルデビューしてからこのピアノに何度も世話になったが、先日業者に頼んで調節が済んだところだったのでいつもよりも音の調子がいいように聞こえた。気ままに走らせていた指を止めたのは、ピアノの隅に置いていたスマートフォンが着信を知らせる音を鳴らせたからだ。
「……逢坂?」
 画面に表示された名前はひどく懐かしい名前だった。ふと、スマホを手にとって通話ボタンを押した。
『久しぶりだな!』
 学生の頃から変わらない懐かしい声が聞こえた。――久しぶり、と落ち着いた声で答えると逢坂という青年はなんだか少しほっとしたような、しかし驚いたような声でへぇ、と言った。
「なんだ?」
『いや、お前がこの時間にちゃんと目が開いてるみたいだったから』
 む、と顔をしかめたがしかし反論のしようのない事実だった。火炎陣アスナは寝起きが悪い。朝にはめっぽう弱いのだ。現在も自分よりも年下のメンバーに何度も何度も揺り動かされてようやく意識を浮上させかけ、着替えもしないでとりあえず共有ルームへ出てくるという寝起き加減なので、彼の言うことは間違ってはいないが、一つだけ反論しておくべきだとアスナは口を開いた。
「流石に昼を過ぎたら起きてるぞ」
『お前、勉強はすげぇできるのに午前中出てこれないから何回も単位落としてたよな』
「それで? 何の用事だ」
 流石に自分が不利だと感じたアスナはさっさと本題を切り出させることにした。あはは、と笑った逢坂は悪い悪いと完全にからかい混じりの声でアスナへ謝罪を入れるとようやく本題を切り出した。
『今度、あいつの五回忌だろ』
 はと、気づいた。そして、壁に設置されているホワイトボードへ視線を向ける。MonoChrome全員のそれぞれのおおよその月間の予定が記されており、九月二十二日――アスナは完全オフ、私用のため深夜まで戻らずと記されていた。そう。――婚約者の命日だ。
『お前のことだから一人で墓行って、って考えてんだろうから止めないけど。その後、昔の仲間で集まって飲もうぜ。お前が元々働いてたバーに許可取って、貸し切りにしたからさ』
 気遣いしてくれているのだろう。毎年、毎年この時期になると必ず墓参りに行って昔から世話になっているジャズバーで閉店になるまでカウンターの決まった席でゆっくりと飲む。マスターからはこの日はいつも死にそうな顔をしていると言われるが、うむ、たまにはいいかもしれない、とアスナは思った。
「……いいかもな」
『まじ!?』
「あいつも賑やかな方が好きだろ。……久しぶりにお前らに付き合うよ」
 なんだかんだと気遣ってくれた友人たちの好意を無下にするのも悪い気がした。それこそ婚約者が死んだときから何かたと支えてくれた人たちだ、今回のことも電話するまで相当みんなで計画を練ってくれたのだろう。テレビに出ている自分は未だに――彼からの婚約指輪を外せずにつけているのは彼らだって見ているのだから。アスナはふと芽を瞑って、そしてゆっくりと開けた。
「俺はいつもどおりに気ままに墓参りを済ませてから、バーに自分の時間で行くからな」
『ああ、それでいいよ。じゃ、二十二日に!』
 ぷつん、と通話が切れてアスナははー、とため息を付いて天井を見上げた。そうか、もう、そんな時期だったのかと今日の日付を確認して、残り一週間しか無い事を知った。なんだか、あっという間だなと思いながらピアノから立ち上がって窓を開けてバルコニーへと出た。まだ残暑が残る九月のじっとりとした暑さがなんだかとても気持ち悪いような気がした。
(もう、五回忌なんだ)
 ポケットから煙草の箱を取り出した。慣れた手つきで一本取り出すと、ジャケットのポケットを弄ってライターを見つけ出して火をつけた。すぅ、と深く吸い込んで肺には入れずにふぅ、と吐き出す。慣れた苦味のある煙草の味が体に馴染んだのはいつだったかな、と思う。ただ、口寂しかったのだ。酒でも、甘いものでも、何でも埋められなかった口寂しさをこんなもので誤魔化そうとした。事務所からは控えめにね、と言われているし、リーダーのミラからも歌うってことは忘れないようにねと言われているから最近は思い出したときに一本咥えるだけになっているが、馴染んだこの味はやっぱり美味しいのだ。
「……もう、四年前なのかぁ」
 ゆったりとオレンジ色に変わっていく空だけはあの日と何も変わっていないな、とアスナは自嘲気味に笑った。



* * *



 ――二年前の春――
「素敵なピアノだったわ」
 いつものように演奏を終えて聞いてくれた観客たちに一礼したところで、ぱちぱち、と間近で拍手が聞こえてアスナは顔を上げた。
 この時のアスナは東京の片隅にあるジャズバーのバーテンダー兼ピアニストだった。ピアニストとして演奏することが多かったが、小さな店だったのでバーテンダーもやっていた。オーナーからはもっと大きな店で弾けばいいのにと言われていたが、小さな店で客一人ひとりの顔が見える場所がよかった、とアルバイト時代から世話になっていた老年のマスターが気がかりで現状を抜け出さずにいた。婚約者を失って二年。彼が好んで使っていた席をピアノ側から眺めるのが好きで、未だ未練たらたらの自分に嫌気が差しながら、それ以上彼を思い出させるものが他になくて、まるで思い出に縋るように生きていたのかもしれない。
 拍手をしてきたのはおおよそ同い年ほどと思われる女性だった。アスナは女性の平均身長よりもずっと高い背をしていて、好んで履く高いヒールの靴のせいで身長は一九◯cmほどあり、ピアノは普通の床よりも小上がりになっている場所に立っているため――恐らくはそれなりに背のある女性だったのだがアスナには低く見えた。黒髪に、暗い蒼のメッシュが際立つ――オーラのある女性だなと思った。
「ありがとうございます」
 褒められた時はいつも丁寧に礼をすると決めている。自分のピアノを好んで聞いてくれることに感謝をしなくてはならないと思っていたからだ。深々と礼をしたアスナに目の前の女性は言葉を続けた。
「ひどく悲しげな旋律だった。まるで――失恋でもしているようだわ」
 綺麗に整えられた爪を持つ真っ白な指で真っ黒な光沢を持つグランドピアノを撫でたその女性を驚いてアスナは見つめた。初めてそんなことを言われたからだったが、それ以上に自分の心を音で見透かされてしまったのがとてつもなく悔しく感じた。
「ねぇ、あなた、私と一緒にやって行く気はない?」
「は……?」
 唐突な言葉にアスナはどう返答すべきなのか分からずただ目をぱちぱちとさせた。差し出された名刺には「ツキノ芸能プロダクション」と書かれている。大手の芸能事務所で、別のお話ではあったがかつて勧誘を受けたことがあった。ピアニストとして所属してみませんか、というお話を受けたのは大学卒業の頃だったから既に三年も前のことだった。
「……この事務所なら以前お断りしていますが」
「え、そうなの? お名前聞いてもいいかしら?」
「火炎陣アスナです。昔ご縁があって、お話を頂いたのですが事情があってお断りしました」
「こんな逸材を逃すなんて、スカウトも大したことしてないわね……」
 私はミラよ、と差し出された手は握ることができずしばし眺めていると、女性がそれもそうね、と手を引っ込めた。
「アイドルとして勧誘を受けたの?」
「いや、専属ピアニストとして」

「なら、そのスカウトと私は違うわ。――私はね、貴方を口説きに来たの」

 はぁ?
 と、言ってしまったことも懐かしいことであり、その言葉通りミラは何度も何度もアスナがいるバーへ足を運んだ。SolidSの篁志季と一緒だったり、QUELLの和泉柊羽と一緒だったり、一人だったり――その時々で同行者がいたりいなかったりまちまちだったが、ミラはアスナがピアノの前に座る日は必ずいた。
「飽きないな」
 彼女の前に差し出したカクテルはエンジェル・キッスだった。彼女はカクテル・ピンに刺さったデコレーションのチェリーをつまむと口に含んだ。
「貴方がうん、と言ってくれるまで」
「……熱心なことだ」
 なんだか彼女には敬語を使うのももはやいらない気がしてきた。夜に仕事が立て込んでなければ必ずここに来ている彼女は本来ならば多忙であるはずなのだ。これまで個人で活動していたアイドルのミラがこんなところで毎日自分を――文字通り口説きに来ているのだから、世界とはままならないものだな、とアスナはグラスを磨きながら静かに考えた。
「ひとつだけ聞いても?」
「どうぞ」
 つまみにと出したのはチョコレートだった。苦味の強い、カカオの香りのするチョコレートだ。
「マスターから聞いたのだけど、失恋じゃなかったのね」
 ごめんなさい、謝るわ。
 アスナはふと笑った。なるほど、謝るという言葉があまり似合わない人間だな、と思いながら磨いたグラスを戸棚の中へ見えるように戻していく。
「気にするようなタイプだったんだな」
「……あら、貴方にはそうは見えてなかったのね」
「もう、二年も前の話なんだ。まあ、みんな話題にするのは避けてるみたいだが――俺は思ったほどもう気にしてないんだがな」
 マティーニを、と空になったグラスを差し出してきたミラにアスナはSi、と答えてミキシング・グラスを用意した。ジンとベルモットを用意して、オリーブとレモンピールも準備しながらミラを伺い見た。
「どうして俺だったんだ? 正直な話、俺くらいのピアニストならプロにもっといるだろう」
 もっとアイドル向きのやつもいただろうに、とアスナは言いながら材料を合わせてステアする。ステアとは軽くかき混ぜることで、シェイカーでは濁ってしまうマティーニなどのカクテルでよく使われる手法だ。手早くかき混ぜた後ショートグラスに移してカウンターに座る彼女に差し出した。
「貴方の音は引き込まれる音だったわ。音の世界に誰かを引き込む魅力がある、そう思ったのよ」
 一口マティーニを口に含みながらミラは笑った。
「悲しい世界でも、優しい世界でも、楽しそうな世界でも貴方は音で誰かをその世界に引き込んで、共有することのできる素晴らしい才能だわ」
 なんで知られてないのか不思議なくらい。
「貴方がここにこだわりがあるのも、なぜ小さなお店でピアノを弾き続けるのかもごめんなさい、マスターから聞いたわ。それでも、私は貴方とユニットを組みたいと思ったのよ」
 マティーニのグラスを空にして、ミラはグラスをアスナの前に差し出して、そのグラスの下に自分の名刺を差し出した。あの時とは違う、自身の携帯の電話番号であろう数字の羅列と、メールアドレスだ。そして、彼女はバッグを持って立ち上がるとアスナに笑いかけた。
「もし、考えが変わったら私に連絡を頂戴。電話が繋がらないときは仕事だろうから、メールだとありがたいわ」
「…………」
 アスナはグラスを持ち上げなかった。

「貴方の大切な人が愛した音が――こんなところで亡くなってしまうのは惜しい気がしたの」

 それじゃあ、と言って会計をというミラにあわせてアスナもカウンターからレジへ移動して彼女の会計を済ませた。それ以降は何も言わずにバーから出ていったミラの背中を眺めていると、マスターから肩を叩かれた。今日はもういいよ、と言われまだ閉店には早い時間だがという意図を込めて、え、と言えばマスターは首を横に振った。
「たまには君も少し飲んでいきなさい。――私も一人のファンとして、君と話がしたいんだ」
 表にcloseをかけてくるよ、と言ってマスターは客のいなくなったバーの外に出ていく。アスナはレジからフロアへ出て、ゆっくりとミラが座っていた席に近づく。グラスの下に置かれた名刺をそっと手に取る。この電話にかければ自分の世界は明らかに変わるだろう。彼だけが愛していた音楽ではなく、多くの人に愛される音楽へと変わる。広い世界に放り投げられるような感覚がひどく怖いもののように感じたが、ミラの言葉がアスナの中で蘇る。

――貴方の大切な人が愛した音がこんなところで亡くなってしまうのは惜しい気がしたの――

 そうか。
 あいつが愛してくれた音をここで、途絶えさせてはいけない気がした。小さな店で客の見える場所で、と気取っていっていたが、違う。ただ、怖かったのだ。自分の世界に自信が持てないままただ、彼だけが認めてくれていたと思い出に縋り付いていただけ。本当に彼を思うのなら、こんなところで立ち止まるべきではないと教えられた気がした。からん、とベルが鳴ってマスターが戻ってくるとさて、何を飲もうかと笑う。そういえば、客の見える場所でなんて言いながら、いつからだろう、自分の演奏を聞きに来てくれた人たちの演奏後の顔を見なくなったのは。
「キャロルが飲みたいです、マスター」
 アスナはそう言って笑って名刺をポケットにしまった。

 それから数日待たず、アスナはミラへ電話をした。一週間後、バーで話がしたいといえば、互いに客としてバーで会うことになる。バーテン姿ではなく演奏用のナイトドレスで現れれば、ミラが驚いた顔をする。今日は非番だったの、という言葉に首を振った。
「今日は俺のこのバーの引退演奏なんだ」
「……引退?」
「何だ、驚くこともないだろう。なにせ熱心な人に口説き落とされてな――違う世界で音楽をすることになったんだ」
 アスナは最後になるだろうこのバーでの演奏にふと笑った。ミラはようやく言葉の意図を理解したのか驚いた顔がたちまち笑顔になってアスナの手を掴んだ。
「ちゃんと聞いててくれ」
「ええ、もちろん」
 いつものようにアスナはピアノの前に進んでいく。観客からの拍手に答えて一礼してピアノの前に座る。彼とだけの音楽は今日で終わりだ。前に進むと、この音楽を終わらせない、と意図的に開けられているカウンターの一番端の席に座っていた男の姿を瞼の裏に思い浮かべながら指をピアノに走らせた。
 それから一年後、アスナはミラと、ミラの集めてきた他のメンバーとMonoChromeを結成する。



* * *



(過去を振り切ったつもりでも、何も変わってないよなぁ)
 九月の空の晴天具合に少しばかり嫌気が差しながらアスナは墓の前に立っていた。変わる、と決めていたはずなのに実際にこの二年で何か変われたかといえば音楽に対するスタンスだけだろう。彼を思う自分は何も変わっていない。お墓を綺麗にして、花を挿して、蝋燭に火をつけて、線香を上げる。墓の前でかがむと両手を合わせて目を瞑る。
(……もうお前はいないって、分かってる。理解もしてる。なのに)
 まだここに来ると泣きそうになる。もう婚約者を思い出して泣くこともなくなったのに、眠れなくて布団にくるまることだってなくなったのに。ただ、ここにくれば、嫌というほど思い出す。あの日のことを。


 ――四年前、九月――


「じゃあ、待ち合わせはそこでいいんだな?」
 電話口に聞こえる婚約者の声。アスナは淡く笑いながら、靴箱からヒールのない靴を取り出した。それに足を入れて靴べらでかかとを入れると電話口から聞こえる待ってるよ、という優しい声に微笑んだ。
「すぐに行くよ」
 玄関を開けて外に出て、待ち合わせ場所まで走って。ついたときに彼の姿はなく人だかりと救急車とパトカーと――布をたくさん被せられて救急車の中に運び込まれる彼の姿だった。ほんの数十分前に電話をしたばかりだった彼が、二度と帰らない人になったと聞いたのは病院で、彼の両親と一緒に待っていたときだった。泣き崩れる彼の両親を必死で慰めながら、仕事に出れないことをマスターに連絡して――気付いたら、翌朝だった。病院の霊安室で朝を迎えていたことを知ったのは携帯のアラームだった。携帯のアラームを切って、目の前にある婚約者の遺体と携帯の待ち受けになっていた婚約者と自分の写真が見えた瞬間に堰を切ったように涙が止めなく流れてきた。
(ああ、いないんだ)
 泣いても慰めてくれる人はもういなくなってしまった。
 あの時、待ってる、と言ってくれた人はもういなくて。
 来月、特別な日にしようと決めていた婚姻届を出す日に丸がついている手帳を抱きしめて泣いた。声は出なかった。ただ、ただ受け入れられない心が、理解しようと急ぐ頭に反発して涙が止まらなかった。――泣いたのはその一回きりだった。泣きそうにはなっても、眠れなくなっても、泣くことだけはそれ以降はなかった。
 彼の家族は結婚していなかった自分も家族として受け入れてくれていた。籍が入っておらず、他人である自分を本来ならば在りえないのに遺族の席へ座らせて、彼の写真を持たせてくれた。隣で泣き崩れる義母になるはずだった人の背中をなでながら、アスナはあっという間に過ぎていく時間を感じた。


 ――ざり、と砂利を踏みしめる音が聞こえてアスナは目を開けた。
 そこに立っていたのはあの日の記憶に比べ随分と老けたように見える夫婦だった。アスナは静かに立ち上がって頭を下げた。
「ありがとう、今年も来てくれたんだね」
 義父になるはずだった男は花束を抱えたままアスナに柔らかく微笑んだ。はい、と答えてアスナは彼から花を受け取ると墓前に備えた。義母はさ、と火のついている蝋燭に線香を供えて、彼らが来る前にアスナがしたように手をあわせてしばし目をつむった。
「そういえば、デビューおめでとう」
「……ありがとうございます」
 彼らから言われると照れる。デビューする時に会いに行って報告したことではあるが改めてCDが出来上がって彼らの元へ贈ったときには何を言われるかと思ったが、彼の仏壇の前に供えてほしくて贈ってしまった。すると感想が電話できて、申し訳無さも感じた。それから、作曲の仕事が入ったり、アイドルとしてテレビに出たりと忙しくなってしまってここ最近はめっきり彼の実家に足を運ぶことが減ってしまっていた。
「君の活躍をきっとこの子は喜んでるわ。今度Mステにも出るのでしょう? 録画するわね」
「ありがとうございます。――年末のツキノライブのチケットも送らせてください。お二人にも是非聞いてほしくて」
 アスナは困ったように笑いながらそういった。自分が彼に聞いてほしかった音楽を今聞かせられるのは彼の家族だけだ。押し付けかもしれないが、アイドルになって自分がしたかった事を彼に伝えられるのも彼らだけだ。申し訳無さを感じていると、義母に手を握られた。
「大丈夫?」
「え……?」
「ほら、テレビでも貴方は指輪を外してないから……色々言われてない?」
 左手の薬指――婚約者から貰った揃いの婚約指輪。片方は彼の仏前に置いてもらっていて、貰った方を自分でつけているが、どれだけ事務所に言われても外さずにテレビに出ていた。それのせいで様々な憶測が立っていることはわかっているし、リーダーのミラにも十分迷惑をかけている自覚はあったが、どうしてもこれを外せないままでいた。――外してしまったら、これを自分が外してしまったら彼のことをなかったことにしてしまうんじゃないか、と。
「大丈夫ですよ、適当にごまかしてますし。おしゃれでこっち側につけてる人も今は少なくないですからね」
「ならいいけど……」
 義母は心から心配そうな顔をしてくれる。アスナは実の家族に恵まれなかったためか、彼らが本当に親身になって接してくれるのが嬉しかった。大丈夫です、と言い聞かせるように言って、義母の手を握った。
「アスナさん」
「……はい?」
「私たちは君を家族のように思っている。君が息子のことをずっと思い続けてくれるのもすごく嬉しい。息子はこんなにも大切にされていたんだと、幸せだ」
 義父が黙祷から立ち上がるとアスナの目を見つめてそういった。
「でも、それに囚われ続けてほしくないんだ」
 それは、という言葉は口に出せないままだ。
「君は若い、未来もある。――今、新しいことをして君なりに前に進もうとしている姿を私たちは応援していきたいと心から思っているよ。だからこそ、不安なんだ。息子のことが、君を縛り付けてはいないか、君の新しい恋や新しい挑戦の邪魔をしてないかって」
 アスナはきゅ、と唇を噛み締めた。
「たとえ息子がいなくても君を娘のように私たち夫婦は思っているよ。これからもずっと応援する。だからこそ、君が息子のせいで新しい恋をすることを拒んでいるんだったら、それは間違いだと思うんだ。息子はいつも君が笑顔になれるようにって頑張ってきた。だから君が幸せになるのが息子の幸せなんだ」
 肩にぽん、と手を置かれる。
「そろそろ、君は君のために生きていいんだよ」
 はい、とはいえなかった。



* * *



 村瀬大は思ったよりも早く仕事が終わって、灰月の迎えを待っているところだった。この後の予定はなくオフだから、ゆっくりと寮に戻るか、それともどこかのプールによってひと泳ぎするか、と考えていて、ふと見慣れた人物を見かけた。
「アスさん」
 人混みの中にまぎれていた彼女の名前を呼べば、彼女はふと足を止めて目を見開いて大を見た。金色の瞳がまじまじと大を見ていたかと思えば、人混みをかき分けて大の方へと向かってきてくれた。仕事ではなかったのだろうラフな服装はいつもよりも黒っぽく一歩間違えると喪服かなにかと勘違いしそうだ。
「何だ、村瀬、仕事だったのか?」
「あ、はい。アスさんはオフですか?」
「ん……そうだな。ちょっと知り合いの墓参りに、な」
「あ、それで」
 ――黒い服装なんですね、といいかけて言葉を詰まらせた。そのアスナの顔がひどく苦しそうな顔をしていたから。以前聞いた、婚約者の墓参りだったのだろう、といくら鈍くても察せられた。どういうべきか悩んでいるとアスナがはは、と笑った。
「悪い、気まずくさせたな。仕事終わりなのに」
「……いや、あの」
 いいかけて、大ー、と自分を呼ぶ灰月の声が聞こえた。車も既についているようで、自分を迎えに来た灰月へちらりと視線を向けてアスナを見た。
「ほら、お迎えだぞ」
 いかないと、と背中を押された。だけど、今、彼女を一人にしてはいけない気がして、灰月に振り返るとすみません、と謝った。アスナが寮に帰るつもりがなさそうなのはすぐにわかった。それを説明すると灰月はしばし悩んだ後、スキャンダルにならないようにな互いに、と言ってオフであることを理由にそれ以上は詮索しないでくれた。できるマネージャーだ、とアスナがつぶやくのが聞こえて、どこか入りませんか、と声をかけた。
「近くにあるコーヒーショップでいいか。ちょっとコーヒー飲みたくて」
「あ、はい」
「甘いのがいいんだろう? 新作のピーチのフラペチーノ美味しそうだったぞ」
 さ、行こうか、とアスナはヒールのない靴で歩き出した。そういえば、と大が気付いたときには彼女は自分の視線よりも下にいた。
(そういえば、この人、いつも俺より背が高いのに)
 ヒールがないとこんなに違うんだな、と思った。それでも女性の平均身長よりも遥かに高いわけだから自分の目線にずっと近いところに頭があるわけなのだが。そのアスナの隣に立って歩くとアスナは少し遠くを見ていて、あまり話す方ではない大に変わって色々話してくれている。MonoChromeで何があったとか、この間の仕事はどうだった、とかそういえば、SolidSの新曲は良かった、とか絶え間のない雑談をしてくれていて、大はその声を聞きながらどことなく違和感を感じた。
(……疲れてんのか)
 少し声が震える瞬間があって、ひどく弱く見えた。
 コーヒーショップは時間帯がすぎていることもあってか思ったより人はいなかった。互いに飲みたいものと軽食を注文すると奥まった席へ入った。カウンターの影になって見づらい席だから、余程近くに来た人が気づかない限りは自分たちが居ることはわからないだろう。互いにそこそこ名前と顔が売れてきたからこういう接触にも気を使うようになった。
「……何か、聞きたそうな顔してるなぁ」
 アスナは席についてクラブサンドのパッケージを開けると大を見てそういった。
「あ、いや」
「正直に聞きたいこと聞いていいよ? ――どうせ、婚約者のことだろ?」
 おもむろにサンドウィッチに齧り付きながらアスナは言った。正解だ。今、大がアスナに聞きたいことがあるとすればそれしかない。
「どんな、人でした?」
「……んー、お人好し。良くも悪くもお人好しだった。でも、良く言えば優しい、んだろうな?」
 ブラックのアメリカンコーヒーは暖かいものだ。ミルクも砂糖も一切入れず、アスナはそれのカップを持ち上げた。
「ただ、少なからず俺がピアニストになろうって思ったきっかけをくれたやつだった」
 懐かしむように切なく目を細めた。
 愛おしそうな目に大は少しいたたまれない気持ちになる。聞かなければよかった、と思うのは胸を刺す、僅かな痛みがじわじわと広がっていく感覚が嫌だったからだ。アスナはコーヒーを一口飲んでふぅ、と溜息をつくと深めのソファーにゆったりと腰掛けた。
「忘れた、つもりだったんだけどなぁ」
 その言葉は大に向けられていない独白に近い言葉だった。
「今日で五回忌だったんだ。びっくりした、もうそんなに経ってたんだなって」
 忘れていたから時間が経つのが早かったのか、それともまだあの時から自分が動いていないのかはよくわからない、とアスナは言った。アスナがソファにゆったりと腰掛けているのに対して大はどことなく居心地の悪さを感じてしまったが、窓の外がふと、暗くなっているのが見えて、視線をそっちに向けるとアスナも同じように視線を窓の外へ向けた。
「あら……」
 少し困ったようなアスナの声。
「――雨、ですね」
 九月は残暑が厳しいが天候的に言うならひどく不安定な時期だ。八月に比べ突然降る雨も増えてきていたが、まさしく時雨だ。アスナは困ったような声を上げながらも別段嫌そうな顔はしてなかった。
「雨、好きなんですか?」
 ようやく話題が変えられた、と大はほっとしたような気分になり、アスナはそれを見透かしたのかくす、と笑ってそうだな、と呟いて体勢をもとに戻した。
「好きだなぁ、雨。すごく作曲が捗るんだ」
「そうなんですか?」
「うん。雨が余計な音を吸ってくれる感じ。ほら、村瀬もなかった? 水泳をしてる時に音がこう、なくなった時」
「……わかります。なるほど、そういう感覚か」
 ようやく笑ったアスナに大はなんだか無性に安心した。会った時のアスナは一人にしては行けない、そんな気分になったのだ。一人にしてしまったら、きっと二度と戻ってこないようなそんな気がして。
(ああ、俺、不安だったのか)
 自覚するとあっという間に不安がじわじわ滲んできて、でも目の前のアスナの表情に安心する。
「この後、オフなのか?」
「あ、はい」
「なら、少しだけ買い物付き合って」
「――外、雨っすよ」
「傘は持ってる。折りたたみだけど。それにここの上から直結もあるし。いやか?」
 少し意地悪く笑う人だな、と大は思ったが、お付き合いします、と返事をした。約得だと思えばいい。

「どうだ。これ」
「いいんじゃないっすか」
「こういう買い物は好きじゃないと見た」
 適当な返事を悟られたのか、アスナはくすと笑いながら試着室のカーテンの中へ戻っていく。大の両手には既にたくさん服が渡されていて、これ全部買うんですか、と聞いたらそうだなー、久しぶりにいいかもな、と全部レジに持っていった。荷物は自分で持つつもりだったらしいがそこは俺が持ちます、と大が言って両手いっぱいになるショッパーを持った。
「普段はウィンドウショッピングなんだけどな」
「……今日はなんで買うつもりになったんですか?」
「んー……どうしてだろうな」
 アスナはそう言いながらアクセサリーを眺めている。ああ、これいいかもな、とピアスを見ながらそれを手に取る。アスナが普段つけているものからすると控えめだろうが、気に入ったらしくレジへ行こうとするので、大がそれを受け取った。
「え?」
「……プレゼント、させてください」
「いや、でも」
「いいから、俺が買ってきます」
 それだけいうと大は足早にレジに行ってしまった。そういうつもりはまったくなかったなぁ、とアスナは困ったように呟きながらどうしたものか、と手持ち無沙汰になったアスナは大の背中を眺める。
 ――君はもう新しい恋に踏み出してもいいんだよ――
 思い出した言葉。ちくりと胸をさすナイフ。多分、もう既に新しい恋の片鱗を見つけているくせに怖くて前に進めないままでいる。忘れてしまったら、手を離してしまったら、二度と彼のことを誰も思い出さなくなってしまうような気がして怖くて、たまらなく寂しいことのように感じた。彼のことを忘れられないまま、大を思うのは違う気がした。それは不誠実だ。彼は自分よりも若い、未来がある。きっと――自分よりもずっと、彼を真剣に思ってくれる人が現れるはずだ。
(見守るだけでいい。それで、いい)
 それ以上は何も望まない。
 もしも、手に入れて――その先、失うことがあったら。

 窓の外、しとしとと降り注ぐ雨が余計な音をなくしていく。



* * *



「悪かったな、付き合わせて」
「ほんとにいいんですか? ここで」
「ああ、荷物はちょっとつてがあって寮まで運んでもらえるから。ありがとう」
 雨はすっかりと止んで、日暮れも過ぎた夜。アスナは飲む約束があるから軽くだったが、二人で夕食を済ませた。寮の方はいいのか、と聞けば、たまにはこういうのもいいんで、と大が決めた店で二人で食事を取った。まるでデートみたいだな、と思ったが敢えてそこまでは考えないように押し込めて、アスナはバーの近くまで大に送ってもらうとタクシーを拾った。
「いや、まだ、大丈夫ですよ」
「あのな、少しは芸能人の自覚持てよ、お前」
 運転手に行き先とお金を渡すと大を押し込んだ。あ、ちょっと、と言われかけたが聞かないふりだ。
「あの、何あったら、呼んでください。迎えに来ますから」
「……ありがとう」
 気をつけてな、と言って大が乗ったタクシーを見送って、アスナは古巣であるバーのドアを開けた。

 貸し切りだけあって店内は誰もいない。少し早かったかな、と思いつつアスナはカウンターの前に行くと、奥からマスターがおや、と声を上げながらゆっくりと出てきた。
「いらっしゃい。懐かしいね」
「……お久しぶりです」
「今日は久しぶりにうちの名ピアニストの演奏が聞けそうだね」
 ふふ、と笑いながらマスターは何を飲むかな、と聞いてきた。貸し切りのメンバーに自分が入っているのはもうわかっているらしい。ミモザ、と注文すればお待ち下さい、と穏やかな彼の声が返ってきた。懐かしい、彼のお気に入りだったカウンターの一番端に座って、まだライトアップされていないピアノを眺める。彼はどんな気持ちでここから自分を見ていたのだろう、と思うとじわりと胸が苦しくなった。

 それから昔なじみのメンバーが集まるとバーは賑やかになった。賑やかなのが好きだったあいつの五回忌だからと結構メンバーを集めたんだな、と思いながらアスナはアイドルデビューおめでとうとか色々皆にお祝いなどを言われながら次々と酒を飲まされていた。いつもよりも格段に早いペースだなと思いつつも懐かしい気分がそうさせるのか酒が進む。ピアノを弾いたり、みんなと話したりしているうちにあっという間に日付が変わった。
 日付が変わってからは結構度数の強いカクテルを飲み続けていたな、と動かない体とは裏腹に冷静な頭が考えながらタクシー乗り場付近でふらふらとなりながら歩いていた。あー、まずいな、歩けないな、と思って近くの植え込みに腰掛けると、携帯を取り出した。この時間なら、ミラに電話が通じるかな、とかもしかしたら、鈴歌が寮にいるかもしれない、と思いながら携帯を開いて、適当に電話帳をあさっていると――村瀬の文字に気付いた。
「……」
 ――何かあったら、呼んでください――
「…………かっこつけんなよ、な」
 気付いたら、押していた。酩酊感に負けて、その後はあまり良く覚えておらず、しばらくして、アスさん、と自分を揺さぶりながら起こす声が聞こえた。
「……ん?」
「ん、じゃないっすよ。何してんですか、あんた」
 村瀬がいた。深夜三時近くだというのに、彼は起きていたのだろうか。電話のボタンを押したところまでは覚えているがその後、自分は彼と会話をしたのだろうか。頭がぼんやりとしていて思考回路がまとまらない。
「いきなり電話きたと思ったら……駅前のタクシー乗り場ちかくの植え込みで動けないから、って」
「……しゃべった? おれ」
「ろれつ、回ってないじゃないっすか。立てるか?」
「……むりー」
 大はおもむろにため息を付いたかと思うと、アスナに背中を向けてかがんだ。ほら、と促されてアスナは大の背中に乗っかった。やはり身長があるせいもあるのか少し重たく感じる。しかしそれを言ったらとんでもない拳でも飛んできそうな雰囲気なので、大は敢えて口をつぐんだ。
「……よかった。俺が来るまでに何も起きなくて」
「んー……?」
「あんなところで寝るなんてあんた正気か」
「よっぱらってる、な?」
 そりゃそうだ、と大は背中に居るアスナを抱え直した。近くのタクシー乗り場までだ。その後寮についてしまえばなんとかなる。アスナは大に腕を回して、うっすらと目を見開いた。ああ、暖かいなぁ、と思いながらその肩口に顔を埋めた。ぎゅう、と手に力を入れると大が首だけ回して振り返った。
「具合悪いのか?」
「……すき、」
 え、と大は聞き直した。

「すき、すきだよ、だい」

 ろれつが回ってない声。泣きそうな、震えている声。
 その告白は突然、大は動きを止めた。タクシー乗り場はもう少しなのに。ぎゅうぎゅうと力の入る腕はまるで縋り付いて泣く子供のように弱々しく見えて、もしかしたら泣いていたかもしれない。アスナはそれ以上なにも言わなかった。ただ、一言、ごめん、といったあとは何も言わなくなった。大もそれ以上何も言わずにタクシーに乗り込んだ。もたれかかって眠るその人は一人で泣いていた。

「あら、こんばんは」
「……どうも」
 大と会ったのはミラだった。背中に居るアスナを見て、あらあら、といったあと、アスナの部屋を開けてくれた。
「珍しいわね。アスナがこんなに酔うなんて」
「……あー、今日、婚約者の命日だったらしくて」
「ああ、そういうこと」
 飲んで忘れたかったのかしらね、と言いながらアスナのクローゼットを開けたミラは適当にパジャマを取り出していく。流石にまずい、と思った大はそれじゃあ、失礼しますと慌てて部屋から飛び出した。その背中を見て、くすり、と笑ったミラはアスナへ視線を向けて、その体の上にそっとパジャマを置いた。
「自分で着替えられるわね」
「……バレてる」
「それはもう、わかるわよ」
 ミラはそう言いながらアスナが寝そべっているベッドに腰掛けた。
「……ねぇ、ミラ」
「うん?」
「……許されると思う?」
 アスナはまるで不安そうな子供のように腰掛けたミラの腰に抱きついた。甘えるアスナの頭をなでてミラは笑った。
「許されるわよ、貴方の愛した人はそんなに心が狭い人なの?」
 それ以上ミラは何も言わなかった。ただ、震えているだけのアスナの頭をなでて微笑むだけだった。



* * *



 朝起きて、ひどくすっきりした頭で起き上がるととんでもなく今すぐにでも消えてしまいたいくらいの後悔が一気に押し寄せてきてしばらくベッドの上から起き上がれなかった。
「アスナさん、どうしたんですか、具合悪いんですか?」
 ようやく部屋から出てきたアスナを見て鈴歌と奏斗が心配そうに駆け寄ってくるが、いやなんでもないよ、と言ってコーヒーメーカーに入っているコーヒーを自分のマグカップに注いで、食卓についた。幸緒が何か食べますか、と聞いてくるのでいや、今日はいいや、と言ってとりあえず並べられているサラダだけは口に入れようとフォークを手に取った。
「はぁ……ごめん、ミラ」
「あら、何が?」
「……昨日、すげぇ酔ってた」
「でしょうね」
 けらけらと笑うミラにアスナはいたたまれない気分になりあー、と言いながらサラダを刺した。一番の問題は大の方だ、と思う。酔っ払っていた時の記憶がいっそすべてなくなってくれていたほうがありがたかったが、どうやら自分の頭はそういう風にできていないらしい。くそう、と思いながら幸緒が注いでくれたポタージュもありがたく頂くことにする。すると鈴歌がフルーツヨーグルトを持ってきて、奏斗がこれなら食べれませんか、とたまごサンドを持ってくる。結局完全な朝食メニューが完成してしまったが差し出されたものは残さず食べよう、と決めてアスナはそれらに手を伸ばした。
「どうするの?」
「え」
「彼のこと」
「……あー」
 もしかして言った? と聞いてみれば、二人の様子を見たらわかるわ、とミラがコーヒーを優雅に飲みながら言う。はぁ、と深くため息を付きながらたまごサンドを食べる。ふわふわとした卵がとても美味しい。ポタージュの暖かさが胃に沁みるし、デザートのフルーツヨーグルトもすごくいい。酔った後の胃袋とは思えないがしっかりと食べ終えると、アスナは仕事が午前中に一件、打ち合わせがはいっているから、と立ち上がった。
「早めに解決しなさい」
 ミラの言葉に足を止めて、わずかに振り返ると、うん、と頷いた。



 今日は事務所で打ち合わせだ。外注の曲の最終打ち合わせだけはアスナも外に出て出席しなくてはならないもので、いつもはなんだかんだと言って断るがしかたない、とアスナは珍しくスーツに袖を通してヒールがあまり高くないパンプスを履いて、寮のエントランスまででた。すると、そこにはSolidSのメンバーがいた。
「おはよう、アス」
 志季に声をかけられて、おはようございます、と返したところで、ふと、大と目があった。
「おはよう、村瀬。昨日は悪かったな」
「……いや、あの」
「SolidSも仕事か。大変だろうけど、頑張れよ」
「……アスさん!」
 通りすがろうとして、手を取られた。驚いているのはSolidSのメンバーだけじゃなくて、アスナもだ。ちょ、大ちゃん、と困惑したように翼が声を出しているが、アスナは大を見つめて、はぁ、とため息を付いた。
「時間があるなら、今、話をする。――その代わり五分だ」
「……場所、変えましょう。すぐに戻る」

 アスナは大に半ば引きずられるようにエントランスの影の方へやってきた。SolidSのメンバーに見られる可能性もあったがまあ、致し方ないだろう。アスナはもういいだろう、というと大に手を離させた。
「昨日のことなんですけど」
 ああ、やっぱりそうだよな、とアスナは納得がいった。アスナは視線をそらすこと無く大を見つめて、あれは事故だと言おうと思ってやめた。嘘をつくのこそ、誠実ではない。
「本当のことだ」
「……俺のこと、好きだっていったことがですか」
「……そうだ」
 アスナは視線をそらした。嘘じゃない本当のことだ。
「でも、お前はそれに答えてくれなくていい」
「……は?」
「俺は不誠実だ。指輪つけてる時点でわかるだろ、俺はきっとずっと、婚約者のことを忘れられない。これまでもこれから先もきっと。――ずっと。そんな俺がお前を好きになっていいはずがない」
 ミラは許されると言った。
 でも、自分は許されるなんて微塵も思わない。きっとあいつなら笑って新しくした恋を応援してくれるかもしれない。だけど、彼を忘れられないまま目の前の人間を好きになるなんていうことを自分が許せない。頑固者だという自覚はある。
「……お前にはきっとお前を一途に思ってくれる人が現れるから」
「なんで、あんたがそれをいうんだよ」
「大人として、不誠実なことだけはしたくない」
 そっと指輪をなでた。
「俺も、貴方が好きだ」
「村瀬」
 咎めるように名前を呼ぶが聞いてはもらえず、抱きしめられた。

「好きです。……俺が、あんたが好きなことを、あんたに否定されたくない。どうして、俺の好きな人を、あんたが否定するんだよ」

 俺の気持ちを無視しないでくれ、と言われる。身勝手な大人の都合だと言い聞かせようとした自分に気付かされる。
「忘れてくれ、なんて俺は言わない。きっと、今のあんたを作ってるのはその死んだ婚約者だ。俺は、そういうあんたが好きになった。なら、忘れなくていいから――」
 忘れようとすれば傷口が開くだけ。いつか、そういう人がいたんだ、と笑えるようになるまで、傍にいたいと思えた。自分はどうすればいいか、まだ分からない。でも、それでも
「アスナさんが好きだ」
 大が顔を上げて、片手で頬をなでた。そして、自然と顔が近づくと目が瞑る。まるでドラマのワンシーンのようなキスにアスナは何も言わなかった。互いに子供ではないから、キスの意味だって、状況だってわかっている。キスが終わった後、大が額をアスナのくっつけたままじっと見つめてくる。
「……拒絶しないんだな」
「負け、だからな」
 アスナは視線をそらして、言った。好きだったことを自覚した時点でもう負けだったのだと知っている。見守るとか、そういう都合のいいことを言っていたが、ずっと、ただ、愛されたかったのかもしれない。婚約者のことも忘れられないまま、ただ、立ち往生して。
「ほんとに忘れる必要ねえから、ゆっくりでいい、俺を真正面から好きだって言えるようになるまで待つから」
「……ありがとう」
 ミラの言葉を思い出した。

 ――貴方の愛した人はそんなに心が狭い人なの?――

 なるほど婚約者のことを言っているのかと思ったが、どうやら違ったらしい。最初からミラは、大の事を指して言っていたのだろう。ミラの方が一枚上手だなぁ、と思いながらそっと大に寄りかかった。

「……好きだよ、大」

 呟いた言葉に返事はなかったがそっと抱きしめる腕に力が入った。

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