握ったは、かすかに震えて


 いつもなら誰かが起こしに行かなくても勝手に起きて、侍女など待つこともなく着替えを始めるアレイスティルがまだ起きていなかった。アレイスティル付きの侍女は珍しい事もあるものだ、と静かにアレイスティルの寝室の方へ足を進める。
「失礼いたします、アレイスティル様」
 国の副王ともなれば、それなりに様々な仕事――アレイスティルは外交、外に出る仕事の方が多いだろうか、それでもアレイスティルが優先しているのは神子としての祈りの時間だ。持って生まれた力を生かせるのなら、と進んで教会に入り浸るアレイスティルはそろそろ起床しなければ、最初の祈りの時間に間に合わないし、何より国王であるガイアスと朝食を共にするのを日課としているから、この時間に寝ているのは珍しいどころの話ではないのだ。
「……アレイスティル様?」
 布団の中はまだふくらみがある。まるで小さな子供が自分の身を護るようにして丸くなって眠っているアレイスティルの肌は、極寒であるはずのカン・バルクには似つかわしくなう汗でしっとりとしていた。赤みを帯びた肌に侍女が慌てて触ると、それは熱い状態だった。
「アレイスティル様!?アレイスティル様!」



* * *




 アレイスティルが意識を取り戻した時、傍には愛しい幼馴染の顔が目に入った。
「……あー、すと」
 口の中が乾いてうまく声が発せられないが、彼の本名を口にした。いつもなら咎められるそれも、アースト――国王ガイアスは咎めることはせず、アレイスティルの頭を優しく撫でる。
「大事ないか」
「……? 俺、」
「"また"霊力野の暴走だ。高熱が出ていて、しばらくは安静にしているようにとのことだ」
 とめどないマナの放出に体が付いていけないことがある。月に1度とは言わないが、何か月かに一度、アレイスティルは体調を崩すことがある。それも、マナを使わない平和な暮らしの象徴なのかもしれないが、その体への負担を考えるとガイアスは居た堪れなくなる。――まるでアレイスティルを戦場へ連れて行けと、言わんばかりに。
「……ご、めん、ね…………お仕事、は?」
「まだ、大丈夫だ」
 そういって、アレイスティルの手を握ると少しだけホッとしたような表情を浮かべた。休め、と言う、と少し頷いて、ゆるゆるとその瞳を閉じる。時の経たないうちにすぅ、と穏やかな寝息が聞こえてきて、ガイアスは安堵したように息をついた。

 侍女が血相を変えて王の間に飛び込んできた時は何事かと思った。ただ、うわ言のようにアレイスティル様が、と繰り返すばかりの侍女の話も半分に、ガイアスは王の間を飛び出した。周りの兵たちが何事か、とこちらを伺っているのが分かったが、アレイスティルの部屋のドアを乱暴に開け放つと、ベッドに横たわるアレイスティルに駆け寄った。
 熱にうなされ、荒く息を吐くアレイスティルを見るのは初めてではないが、いつもこうしてみると、どうしていいか、一瞬わからなくなる。すぐについてきていたウィンガルに医者を手配する様にと指示を出して、ガイアスはアレイスティルの額を撫でた。汗が滲み、髪が濡れて、額に張り付いているのをどけてやると、いつもならみずみずしい白肌が少し青ざめているのが見えた。寒いのだろう、と暖炉に火を入れると、アレイスティルがうわ言のように何かを言っているのが聞こえた、
『ご、めん、なさ……ごめん、なさ……い……い、か、……いで……』
 閉じられている瞳。目尻から涙があふれて、アレイスティルの頬を伝って行く。

 だが、今のアレイスティルはそんな様子もなく、穏やかに眠っているようだ。すると背後のドアからノックが聞こえ、静かにウィンガルが入室してきた。
「……陛下」
 やや控えめではあるが、仕事に戻れ、という意思が込められた呼び方にガイアスはアレイスティルの手をあっさりと離した。だからと言って眠っているアレイスティルの表情は曇ることなく、穏やかな眠りについている。
 それだけ確認し、頭を撫でてからアレイスティルの傍を離れて、国務へ戻る為部屋の外に出ると、プレザとアグリアがその場で控えている。どうやらこれから先の世話は二人がする様子だった。任せたぞ、と二人に告げれば、プレザは落ち着いた様子で返事を返し、アグリアはプレザの後ろに少し隠れながらは、はい、と返事を返した。



* * *




「お目覚めになられました?アレイスティル様」
 ――目を開けると今度はプレザが目に入った。彼女は幾つかの魔導書をめくっていたらしく、アレイスティルが目を開けたのを確認するとそれに栞をはさんで、ゆっくりと閉じた。そして慣れた手つきで額に手を当てると、大丈夫そうですね、と呟いた。
「……ガイアス、は?」
 ――仕事に行った?と確認すると、プレザはくすくすと笑った。
「ええ、行かれましたよ。陛下は今日も城の門を開けて、民の声を聞いておられますわ」
 よかった、とアレイスティルは破顔して、額に乗せられているタオルが滑り落ちないように手を当てた。もう、それも必要ないですね、とプレザが回収するのを眺めてまだ少しばかり体が動かない事に顔をしかめた。
「ま、まだ!!無理しちゃ、だ、駄目です……」
「……アグリアも来てくれてたの?」
 気付かなくてごめんなさい、と、アグリアがいる方向にアレイスティルは手を伸ばす。アグリアは差し出された手をどうしていいかわからず右往左往し、アレイスティルは困ったように笑うと、アグリアの白くて細い指をつかんだ。
「あ、え、えっと……」
「ちょっとだけ、こうしていてもいい?」
「……はい」
 アグリアに近くの椅子に腰かけるといい、と勧めて、彼女が腰を落ち着けたのを見てアレイスティルは柔らかく微笑んだ。
「教会は……?」
「教会の方はアレイスティル様がご不在なので閉鎖しています。みなには嘘をつかずに報告すると、陛下が言っておりましたよ」
 プレザが淡々と事実を伝える。そう、とアレイスティルは嘆息して、早く体を治さなければ、と決意した。
「心配、かけてしまったなぁ」
「アレイスティル様は陛下と同じくらい激務をこなされているのですから、体調を崩すことだってありますわ」
 気を落とさないでください、とプレザが眉を下げてアレイスティルに告げる。体調を崩して民に心配をかけてしまう事がアレイスティルには心苦しくてならないのだ。何より、寝る前に見たガイアスの顔があまりにも印象づいていて嫌だった。
(……あんな顔、させたくないなぁ)
 さ、ナップルが剥けましたよ、とプレザが皿の上に乗ったナップルを差し出してくれた。起き上がれない、と苦笑いするとどうぞ、と一つをフォークに刺して食べさせてくれた。しゃりしゃりと口当たりのいい触感と甘さとみずみずしさは空腹にもちょうどよかったし、体調を崩している体には優しい味だった。
 終始緊張した様子で手を握っていたアグリアもプレザに一つ差し出されて最初は首を横に振ったが、アレイスティルがもう食べられないし、勿体ないからと、言うと渋々フォークに刺さっていたそれに齧り付いた。



* * *




 次に目が開いた時にはもう体が動かせそうだった。数日は休む様に、という医者の診断だったが、明日からは普通に教会を開けても大丈夫そうだ、とアレイスティルは一息ついて、ベッドの上で身を起こしていた。二人の姿が見当たらなかったが、それぞれに仕事を抱えている二人だ、いつまでも自分についているわけにもいかなかったのだろう、と思いいたって、プレザが読んでいたのであろう本を手に取った。
「まだ、安静にしていろ」
 戦鎧を外したガイアスがそこに立っていた。恐らくは今日の公務を全て終わらせてから来たのであろう彼は少しばかり不機嫌そうに眉をひそめている。
「もう平気だよ」
 熱が下がって体が動くようになればこちらのものだ、と言わんばかりにアレイスティルは笑顔でガイアスを招き入れた。ベッドわきの椅子を勧めるまでもなくガイアスはそこに腰掛けて、アレイスティルの額に手を当てた。
「下がったようだな」
「うん、もう平気」
 額に当てられた手を握ってアレイスティルは微笑んだ。こう見えて心配性のガイアスの事だ、ここで押し切らなければ明日も一日部屋で安静にさせられると思ったのだ。うむ、とガイアスは少し満足げに頷いて、アレイスティルをそのままベッドへ戻した。
「風邪じゃないんだから」
「それでも、だ。霊力野が安定しなければ辺りに迷惑をかけるだろう」
 それを言われると、アレイスティルはう、と言葉を詰まらせるほかはなかった。霊力野が安定せず、うまくマナを放出できなくなっているからこうなっているのであって、この状態では精霊術が安定しないのだ。どの道、多くのマナを放出する祈りには参加できないだろう。
「……明日も一日安静?」
「明日の状態を見て、だな。夕食も問題なく食べたようだし、今日はもう眠れ」
「一日中寝てたからもう眠れないー」
「子供じゃないだろう、駄々をこねるな」
 ガイアスに一蹴されてアレイスティルはむぅと両の頬を膨らませて、じとりとガイアスを睨みつけるが暖簾に腕押しとはまさしくこの事で、ガイアスにはまったく効果がない様子だった。
「じゃあ、アーストもここで寝よう」
「……お前、自分がいくつになったかわかっているのか」
「いいでしょう?別に」
 アレイスティルはガイアスの腕を引っ張る。それに引っ張られるような男ではないが、アレイスティルがベッドの半分を開けると、渋々その中へ入ってきた。
「お前が眠るまでだからな」
「うん」
 催促したわけではないが、ガイアスの腕がアレイスティルの頭の下に入ってくる。少し硬い枕だが、アレイスティルはこれが好きだった。おやすみ、アースト、とガイアスの頬にキスをして、アレイスティルは目を閉じた。

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