さよなら、と手を離せたら


 自分が死ぬことはわかっていた。
 生まれたその瞬間から生命の終わりが決まっている存在。それがホムンクルスである。
 私の年齢設定はホムンクルスにしては長い方であろう――三十年と少し。産後の状態が良ければ更に生きられるだろうという数字であったし、魔術刻印をいかに早く次の世代に渡すかということでその数字は前後する、と言われた。
 当然、魔術回路を酷使すればするほどその寿命は縮まっていく。

 私の命は。
 もはや風前の灯火なのだと私だけが知っている。


「起きてるか?」

 宵闇の中で声が聞こえた。意識が浮上してきてその声の元を辿った。といっても、男の声だ。男はこの中では一人しかいないので、必然的にその声が獅子劫界離だとわかる。何も言わずわずかに体を身じろがせて、彼の方へ向き直ると、彼はまだシェードランプの前に向かっていて、何か作業しているようだった。
 起きているか、と聞いた割には次の言葉が出てくるまでひどく時間がかかっているように見えた。しかし、言葉を促すようなマネはせず、静かにその様子を寝転がったまま見守る。――起き上がるのも辛いのだ。壊れかけた人形は修理されること無く、ただ壊れて、砕けるまで消耗されるだけ。
「……辛くないか」
 ようやく。
 絞り出るような言葉は労いと労りの言葉――その裏にはひどく優しさと弱さの滲む、そんな声。紅葉は柔らかく目を細めると、ゆっくりと起き上がった。そして、背中を向けたままの彼にぴっとりと寄り添う。体の感覚機能は殆ど閉じている。余計な機能は少しずつ、少しずつ削ぎ落としていけばいい。ゆっくりと獅子劫を抱きしめるように腕を回して、うっとりと堪能するように目を閉じた。
「界離」
 名前を呼んだ。何度も、何度もその名前を呼んだ。愛おしい、たった三文字の言葉だった。
 戦わない、という選択肢もあったのに。
 戦うな、と言ってくれたのに。
 私は最後の最後で彼の言うことを聞けない女なのだ。そんな女にいたわりなど抱く必要はない。これは消耗品なのだと割り切ればいい、と思ってもそれがこの男にできないことを知っていた。
(私はずるい女)
 この行動がどれだけ彼を縛り付けたか知っていて、やめることができない。獅子劫界離のために戦うことが自分の使命だと勝手に決めつけて、それを望んでないと知りながら。

「界離、私ね、世界で一番幸福だわ」

 もしも、あの日、貴方の言うとおりに離婚を受け入れていたら。
 さよなら、とその手を離せていたら。

 こんな柔らかな幸福の中で死ねるなどとは知らなかったのだろうと思うのです。

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