怖かったんだ


 ふと、獅子劫が時計を確認するとそれは深夜だった。まずいな――と思ったところで、不意にタバコが吸いたくなって懐から箱を取り出してタバコに火をつけた。こんな時間まで作業していたとは思わなかった。夕食も完全にすっぽかしてしまったので、作業場の外にいる妻――紅葉がどれほど怒っているだろうかと想像しただけで寒気がした。明日はお小言の一つや二つでは済まないな、と思ったところで獅子劫は自身の組み上げた結界内に何かが入ったことを察した。この家で、悪意なくこの部屋に近づいてくるのはたったひとりだけだ。
「……まさか、起きてたとは」
 この時間はいつも寝ているはずの紅葉の気配だった。さて、どうしたものかと思案して居留守をしたところで、獅子劫がここに閉じこもっている事実は彼女が一番良く知っているだろうし、何かがあれば扉だろうが壁だろうが結界だろうが全部蹴破って来るのが紅葉だ。早めにドアを開けようか、としたところでスリッパの足音が扉の前。地下室の階段の前で止まった。
 獅子劫は疑問を抱いて扉の方へ見た。
 静かだった。気配が消えたかのように薄れていく。
「――紅葉」
 ドアの向こう側に呼びかけるように言えば、その気配が再び蘇ってくる。気付かれていたのはわかっていただろうに、いざ声をかけると彼女は怯えたように震えたのがドアを挟んでいてもわかった。椅子から立ち上がり、獅子劫はドアを開けてみて――目を見開いた。
 開いた扉に、目を見開いて蹲っていたのは紅葉だった。魔眼殺しの眼鏡はなく、瞳は緑ではなく黄金だった。その瞳からこぼれ落ちた大粒の涙に、獅子劫は一瞬かけるべき言葉を見失って、しかし、ただ寝間着の薄着で冷たい石階段に蹲っている紅葉の体が震えていることに気付くと自分が来ていたジャケットを肩からかけた。
「眠れないのか?」
 紅葉は小さく頷いた。
 獅子劫のジャケットを抱きしめて震えて泣いている。
「……怖い夢でも見たのか」
 子供のように。
 紅葉は首を振る動作は見せなかった。でも自分を抱きしめるように強く手に力を込めた姿に獅子劫は察した。怖い、何か、紅葉には耐え難い夢でも見たのだろう。そういうことを口にだすことはしないのだろう、ただ、獅子劫の気配を探してここまで来てしまったのだ。小さく、小さく紅葉の口が動いた。
「――おち、ついたら、戻るから……それまで……」
 ここにいさせて。
 界離は作業に戻ってていいから。
 私の事は――放って置いていいよ。
「ふざけんな」
 少し強い口調で言うと、紅葉の体が震えた。怯えて獅子劫を見上げることもできずにいる体をジャケットごと抱きしめると持ち上げた。小さくて、軽い。紅葉は抱き上げられたことに驚いて、獅子劫をじっと見た。
「……こういうときぐらい頼れよ」
「あ……」
 おずおずと体に回される手。一途に人を愛することしか知らないくせに、甘え方を知らない。子供よりも子供らしく、大人よりも大人らしく――不安定で歪な女。獅子劫はそっと頭をなでた。柔らかな夕日色の髪を撫でると紅葉が漸く自分にその身を委ねるように力を抜いた。
 どんな夢を見たかなど、聞かない。石階段を上がり、紅葉が先程までいたであろう寝室のベッドへ向かう。獅子劫のぬくもりに少しだけ安堵したのか紅葉のまぶたがゆっくりと降り始め、背中を優しく叩くと後押しされるようにゆったりとまぶたを閉じる。かいり、と自分の名前を呼ぶその声に僅かに微笑み、獅子劫は器用にドアを開けて、寝室のベッドへと紅葉を寝せてやった。
「おやすみ」
 このまま離れていくこともなく、獅子劫はベッドへ横になった。

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