カルデア・チョコレート・レッスン 後編


 土方歳三は新撰組である。――決して比喩でもなんでもなく。
 生前は京都の色街にもそれなりに出入りした彼は女のいろはというやつをそれなりにわかっているつもりだ。しかして、現在のマスターである紅離は女に当てはめるには些か違うような気がした。だが、だからといって、完全に男として扱うには――情を映しすぎたかもしれない。
 狂戦士らしからぬクリアな思考で土方はぽり、と沢庵をかじって――そういえば、と気づいた。
(……最近、紅離を見てねぇな)
 最近、というかここ二週間ほどだ。キッチンに閉じこもっているという話は聞いたが、土方はその情報を聞いても捨て置いた。あのマスターが料理をするなんて――聞いたことはないがあれもそれなりに女らしいところが無いわけではない。(料理の腕前についてはあえて土方も閉口するが)きっと、少しばかり料理に目覚めたのだろう。ここ数日厨房から聞こえてくる叫び声とか明らかにおかしい雄叫びとかは――土方には関係のないことなのだ。


 紅離には一つだけ覚えてる母の姿がある。それは入院する前。寝たきりになる前のバレンタインの日。紅離はまだまだ小さくて幼い子どもで、母の膝の上で母の作ったチョコレートケーキを食べた。目の前にはいつもは強面で、しかし笑顔は欠かさない父が柔らかな、いつもとは違う笑顔で笑っていた。――おいしい? と母に聞かれて、紅離は笑顔で頷く。目の前の父は少し照れたように、頬をかいて、ああ、と言う。
 母はいつもいう。思いはちゃんと伝えなくては、と。

(これは、許される感情なんだろうか)

 わからない。自分は今まで、こんなにも焦がれるような感情など抱いたことはない。
 恋をするととても楽しいと、誰かがいった。
 でも――こんなにも苦くて苦しくて悲しくて寂しい。心臓が痛い。うまく呼吸ができなくなりそうだ。母もこんな気持ちだったのだろうか。恋って、こんなに切なくて悲しい感情なのだろうか。人を好きになる、とはこんなにも難しいことなのだろうか。
 紅離はチョコレートを混ぜ合わせる。
 少しでも、ほんのちょっとでも、この思いがあの人に届きますように。――そんな、少女のような自分が少しだけ微笑ましく思えた。

「――できた」

 よかった、形もちゃんとできた。四角い型に入れたチョコレートにはナッツやドライフルーツを入れた。あまり甘くしないようにチョコレートは苦いものを使ったし、――きっと土方のことだろうから、酒のつまみにでもするのだろうから、このくらいでいいだろう。モードレッドと書文に渡すものは甘くして作ったので、そちらも綺麗にできている。紅離は満足げに頷いて、それらを切り分ける。ラッピング用の箱は自分で作った。包装紙は事情を聞いた玉藻の前がこちらを使ってくださいまし、ときれいな和紙の包装紙を調達してくれたのだ。
 チョコレートを入れて、箱を閉じる。敢えてハートの形は使用せず、そっけない、しかし地味ではない箱を作ったつもりだった。リボンは三色。箱と包装紙は全て朱。――どうにも紅離の元にやってくるサーヴァントは朱が似合う人達ばかりなのだ。
「器用だな、紅離」
 本当に最後まで付き合ってくれたエミヤが感心したように呟く。
「こういうのは得意なんだ。図画工作はいつも成績が良かった」
「うむ、それがよくわかる」
 綺麗に包んで、これで、バレンタインの準備は終了だ。
 目を輝かせて出来上がった包みを持ち上げた。
(喜んで、はくれないか)
 でも、少しでもいいから、食べてくれたらいいな、と思いながら箱を抱きしめた。エミヤはふとそれを見て微笑んだ後、紅離の背中を押した。
「早く行ってきたまえ」
「……片付けが」
「そんなものはいい。俺がやっておこう」
「……ありがとう、エミヤ!!」
 紅離はチョコレートの箱を持って駆け出した。厨房から出ていく紅離を眺めて、エミヤは投げ出されたエプロンを拾い上げた。

「頑張れ、恋するオトメ」



* * *



 なんだか、胸が躍る。
 こんなにドキドキしてるのは初めてだった。通りすがるサーヴァントたちが皆して微笑ましげに見ては、頑張れと声をかけてくれる。一人ひとりに返している暇はなくて、とりあえず分かる範囲でありがとう! と返しておく。はぁ、と息が上がる。
 そして、漸く――その背中を見かけた。

「バーサーカー!」


 ――随分、久方ぶりに自分を呼ぶ声がした。あの燃え盛る冬木の炎の中で何度も聞いた声だった。
「……ん、紅離か。何か用か?」
 そう聞けば走ってきたのか、紅離はしばし膝に手をついて息を整えて、そして、顔を上げて、紅い包みを土方へと差し出した。紅い包みをみて、しばしそれと紅離を見比べた。
「これ……チョコレート」
「……チョコレートだぁ?」
「ほら、今日は、バレンタインだから……」
 バレンタインということを土方が知っているとは思わなかったが、紅離はとりあえずチョコレートを渡す理由を説明した。土方はとりあえず、紅離の手からチョコレートを受け取ってしげしげとその包みを眺める。
「ほぅ、西洋の催しねぇ…………で、食えるのかこれ?」
 土方の疑問はもっともだった。
 紅離の料理の腕前は紅離のサーヴァントなら誰でも知っていることだったというか、一度くらいはその被害にあっているだろう。(おそらく被害にあっていないのは、李書文くらいなものだろう)土方は少し肩を竦め、紅離を見る。
「一応、食べられると、おもうけど」
 自信なさげだ。まあ、普段の料理のことを考えると当然の反応か、と土方は笑って、紅離の頭をなでる。
「まあ、酒のあてぐらいにはなるか」
 がしがしとその綺麗になで上げられている髪が乱れるほどに撫でて、土方はふと顔を顰めて、頭に乗せていた手をするりと紅離の頬へと移動させた。紅い手袋に包まれた手が紅離の頬を撫ぜ、そして、目元を指でなぞる。
「それより紅離、顔色が良くねぇぞ。なんか悪いもんでも食ったのか?」
 え、と紅離は目を瞬かせて――ぐらり、と体が揺らいだ。目の前の土方の表情が一気に変わった。暗転しかけた視界。――ホムンクルスである紅離の体が警鐘を鳴らしていた。
「……おい、どうした?」
 マスターの異変を感じ取った土方が紅離の肩に手を添えて、その顔を見やる。顔色はやっぱりいつもよりも悪く、なんだか、ぼうとしているようにも見える。――土方はふと思い出した。体調が悪く、倒れる前の沖田はいつもこんな感じだった、と。
「……あれ?」
 ぐらり、と完全に視界が曲がった。
 土方の手から、こぼれ落ちていくように、紅離の体は後ろへと倒れて行きそうになる。かくん、と糸が切られた操り人形のように力を失った紅離の体へ腕を伸ばして、抱きとめた。そして、顔が見えるように横抱きにする。
「おい! 目ぇあけろ! ……ったく!」
 自分のコートを脱いでかぶせると、そのまま女にしては少しばかりしっかりとした体格の紅離を抱き上げる。
 顔色は悪い。
 もしかして寝ていないのかもしれないと思ったのは目の下の隈だ。
 土方は紅離を抱えたまま医療室へ向かう。ぐったりと自分へ体を預けたまま動かない紅離を見て――ち、と舌打ちをした。他の連中は何を見ていたというのだ、という苛立ちと、しかし、自分もしばらくマスターへ気を配っていなかったのだから人のことは強く言えないとぎり、と奥歯を噛み締めた。
 医療室のドアを開けるのが面倒で蹴破れば、中にいたスタッフが戦々恐々と土方を見上げて、しかしぐったりとしている紅離を見てそこはプロ根性なのか、慌ててベッドへ寝せるようにと土方にいい、土方も医者たちに任せればいい、と大した抵抗することもなく紅離を医療室の簡素なベッドへと寝せた。

 ――しばらくして、医者が土方の元へやってきて、ただの疲労だと伝える。寝不足なども重なっていたのかもしれませんね、と苦笑して言う医者にすまなかった、と一言告げて、カーテンで区切られた医療室のベッドをみやった。すると、医者は静かに我々は少し外すので、何かあったら教えてくださいと言って、外へ出ていく。気をきかせられた――というのは流石に土方でもわかった。
 カーテンを少しだけ開けて、紅離を見る。すやすやと眠る姿は年頃の少女であり、しかし青年のそれだ。柔らかな夕日色の髪をなで、土方は簡素なパイプ椅子に腰掛けた。そして、思い出したように紅い包みを取り出す。
「……これのために寝ずにやった、か。――男を誤解させるマネはすんじゃねえぞ」
 包みを開く。
 少し甘い香りがするそれを土方はひとつつまみ上げて口に運ぶ。
「――甘ぇ」
 だが悪くない。あれだけ料理が下手だった紅離がここまでになるのは並大抵の努力ではないだろう。土方はふと笑って、紅離が起きるのを待った。



 夢を見た。
 母と父の夢だった。
 幸せそうな二人がいて――自分は、

 目を開けると、白い光が差し込んで紅離は目を細めた。しばしキョロキョロと見回すとカーテンで区切られた空間が広がっており、独特な消毒液の匂いがする。あまり好きではない――医療室の臭いだとわかると意識が一気に覚醒して、そしてわずかに其れとは違う、血と硝煙の臭いがするものが手についた。少し硬い、ざらざらとしたコート。
「……あれ、これ……」
 体を起き上がらせて、自分の体にかかっている黒いコートを見て目を見開いた。すると、わずかに影がさして――
「……目ぇ覚めたか? 安心しろ、ただの疲れだとよ」
 土方だった。
 コートを脱いでいる彼が近くのパイプ椅子に腰掛けている。ベッドサイドのテーブルから彼は白湯を紅離に手渡して白い包みを手渡した。
「ほれ、薬でも飲んでおとなしくしてろ」
 ――石田散薬だ。
 土方歳三の逸話で有名な、薬だ。紅離は呆然とそれを眺めていると土方がふと笑った。
「――まあ、効き目は保証しねぇがな」
 少しだけ力が抜けた。紅離は白い包みを開いて黒く独特な臭いのするその薬を一気に口の中に流し込んで――一気に白湯で流し込んだ。正直苦い。とんでもなく苦い。うっ、と顔を顰めて口を抑えると、土方はくっと笑いを噛み殺した。
「俺が言うのもなんだが、薬なんざどれもこれも気休めみてぇなもんだ」
 気休めでも体が少しでも良くなるなら儲けもんだ、と言わんばかりに土方は紅離に再度白湯を飲むように促すと、二人の間にしばし沈黙が続いた。薬を飲め、と言った後、紅離も大人しく薬を飲んだのだからそのままさっさといなくなりそうな土方だがそのままパイプ椅子に腰掛けたまま動かない。紅離は少し疑問に思って白湯の入った湯呑みを持ったまま土方を眺めてしまった。
「……なんだ? 腹でも空いたのか?」
 別にそういうわけじゃない。
 紅離はふと疑問に思ったことを口にしてしまった。
「……もしかして、ずっとここにいたのか?」
 そういうと、彼は一気に声を荒げて、
「――いいから黙って寝てろ!」
 と言い放った。決して照れ隠しとかそんな雰囲気ではなかった。紅離は慌てて白湯をベッドサイドのテーブルへと戻すと、布団の中に戻る。それを見やった土方は表情を緩めないまま続ける。
「まともに立てもしねぇ奴は俺の組には必要ない」
 ――その言葉に紅離は、ふと土方の新撰組での人生を思い返した。組で一番の剣士であった沖田総司を置いて行くと決断した彼は何を思ったのだろう、と思ってしまった。
「いいか、戦場で死ぬのは当然のことだ。だがな、こんな安全な場所で死ぬのは俺が許さねぇ」
 それは組をまとめ上げた男の言葉だった。あらゆるものに目を配り、隊士たちの様子を把握し続けた男の言葉だった。紅離は悲しげに表情を歪めた。目線があえば、魔眼が発動する。彼の――狂戦士の思考は読み辛いのだが――思いはひしひしと伝わってくる。
「ここはしっかりとした屯所だ。安全ってものを作るのに、どれほど仲間が気張ってるかよく知っとけ」
 戦うものばかりではなく、この設備を管理してる者たちのことも含めて、土方は言っている。紅離は静かに頷いた。声は出なかった。その様子を見て、土方は視線をそらす。
「……フン」
 パイプ椅子から立ち上がった土方は紅離から背を向ける。
「……俺は少し出てくる。てめぇはそこでおとなしくしてろ」
 ドアへ向かっていく土方を眺めて、紅離は少しだけ落ち込んだ。喜んでもらえる、とは思っていなかったが怒らせる結果になってしまったのが寂しかった。これではチョコレートどころではなくなってしまったし、逆に失望させてしまったのではないかと思う。目元を手で抑えて、天井を見上げると、土方の靴音が止まった。
「……そうそう、さっきのチョコレート、だったか」
 ドアの前で土方が言う。
 振り返った土方と目があった。彼はいつになく柔らかく微笑んでいた。

「割りと旨かったぜ。気が向いたらそのうちまた持って来い」

 ――ちょっとだけ泣きそうになったのは内緒だ。
 紅離は少しだけ、きゅと唇を噛んだ後、笑顔になった。
「うん、――ありがとう」
 すごく、嬉しい。
 旨かった、と言ってもらえたことも。また持って来いと言ってくれたことも。少しだけ、ほんの少しだけ貴方に気持ちが届いたような気がして嬉しかった。
 土方はそんな紅離を見て、目を見開いて、そしてくるりとまた背中を向けた。
「……フン、じゃあな。――いいか、ちゃんと寝ろよ」
 コートは後で返せ、と言って、土方は部屋から出ていった。
 紅離は一度起き上がって、コートを抱き寄せる。そして、たまらなく嬉しそうに微笑んで、ベッドへと沈む。なんだか、とっても良い夢を見れそうだ、と思って目を閉じる。

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