雨の日、


 それはとんでもなく迷惑な来客であった。いや、実際に人の形をした来客であったのなら良かっただろうとリーヴは陰鬱げに与えられた下級下僕用の狭い一人部屋にたった一つだけ採光用につけられた黒い窓枠の窓の向こう側がどんよりとした灰色の雲に覆われている様を眺めながら考えた。外は雨だ、と朝に目を開けた途端にわかったのは背中を叩きつけられるような鈍痛を感じたからだった。其れに伴って言いようもない頭痛。武人にあるまじきと言われるかもしれないが、雨の日はリーヴにとって相性が悪い。所謂天気痛とも呼ばれる、雨による自律神経の乱れが齎す痛みであるがリーヴは些かも学がないためそのようなことはわからない。ただ、雨が降れば体のあちこちが痛くなり、金槌かなにかで頭を打ち付けられているかのような痛みが明朝にかけて訪れて、あまり良く眠れなくなるのだ。これをはた迷惑な来客に例えて話をすると、リーヴの主人――万騎長のクバードはいつものように豪快に笑って見せて、なるほど言い得て妙であるな、と酒壺を傾けて満足げであった。
 起き上がるのも億劫だったが、下僕の分際でいつまでも寝台の中でくるまっているわけにも行くまい。すでに家人たちが数人動き出しているのが気配で感じ取れた。雨の日のリーヴの体調不良を家人の皆が知っているせいか家人たちは努めて静かに動いており、これだけ寝ているというのに誰も起こしに来ない。ドアの向こう側からかすかに朝食の匂いを感じ取って、ああ、もう起きなくてはとリーヴは麻の硬い布団を持ち上げた。いつもよりものろのろと着替えを済ませて部屋から出ると、年のいった一人の家人が目に入った。彼はリーヴが起きてきたことにしばし驚いた後、下級の単なる下僕のリーヴに丁寧に挨拶をして、まだクバードが眠っていることを伝えた。リーヴの予想どおりであるが、彼に声をかけに言った一人の女中が、リーヴはまだ起きていないのか、と聞かれていたようだと言う。
「私を?」
「ええ。リーヴさんが起きたら、来るように伝えてくれと」
「そうですか、わかりました」
 クバードは平民出身の叩き上げの万騎長であった。このように大きな屋敷を持って、家人を幾人も使うようになるまでずいぶんとかかったのだと昔クバードは寝物語にリーヴに聞かせた。そのせいか、元々自身の生活空間を誰かに侵されるのが好きではないのかクバードの王都エクバターナの屋敷は屋敷を管理するのに困らない最低限の家人しか置かれていない。リーヴは従僕であり、この屋敷の人間の中では一番下級の奴隷に当たるのだが、家人たちもクバードもリーヴを奴隷として扱ってはいなかった。かつて別の街で剣奴隷の見世物にされていたリーヴを買い上げて、屋敷に召し上げるのみならず、従僕武官として軍隊にまで連れ立つようになって五年の月日が経っている。家人たちも、クバードの奔放な性格を諌めるリーヴを必要としているようでクバードの世話全般は任せられるようになった。だから、こういった頼み事も決して珍しくはない。
 リーヴは幾人かの家人とすれ違いその都度挨拶を交わし、クバードの話を耳にした。今日は雨だから、と皆が口をそろえて言う。そうだ、雨だからクバードは起きてこないのだ。――日頃から素行がいいとは言えない男ではあるが。クバードの部屋のドアをノックする。返事はない。勝手に入ってこいということか、とリーヴは解釈すると容赦なくドアを開け放って部屋を見渡した。寝台の置かれた寝所の前にはソファなどが置かれた空間が広がる部屋は酒の匂いが充満しており、雨でなければ今すぐに窓を開け放って換気をしていただろうとリーヴは顔を顰めた。酒の臭いに混じる、水煙草の臭いもリーヴの不快指数を跳ね上げたが、それらを気にしていてはクバードを起こすことなど叶わない。ため息混じりにリーヴは寝所と部屋を区切るレースのカーテンを開いた。
 まだ薄暗く、明かりがなくては全てを見回すことができない。しかし、寝台は人の形に盛り上がっておりクバードがそこに眠っているのがわかる。そっと寝台へ近づき、声をかけてみる。一声、名前を呼んでみるが返事はなく、リーヴは困ったように笑って、少し大きな声で名前を呼ぶ。
「お呼びだったのではありませんか、クバード様」
 布団の隙間から見える砂色の髪をそっと撫でた。普段は逆立てられている髪は寝ていたせいか額に落ちている。それをそっと指で払い、より近づくために寝台に膝をかけたところで大きな手に掴まれて寝台の中へ引きずり込まれた。あっという間に大きな腕の中に入れられ、体を包み込まれる。慌てる間もなく、ただ驚いていて、しかし悪戯に成功したと楽しげに喉を鳴らす寝たふりをしていたクバードを見て困ったように笑う。
「困った人。傷が痛いのではありませんか?」
「ああ、痛い。困ったな、リーヴがおらねば、痛みが治まらん」
「それは困りましたね、クバード様」
 ホラ吹きクバードなどと誰かが口にしていたが、本人もそれを気に入って自称していたくらいだ。リーヴがおらねば、の部分は完全に法螺だろう、とリーヴは理解していた。リーヴよりも一回りも二回りも大きいクバードの体に包まれてはそれを抜け出すなど困難だし、そもそもリーヴだって古傷が傷んで気分が良くないのだ抵抗するだけ無駄な力を使うだけ。大人しくクバードの懐の中に収まった。クバードはリーヴのことを飼い猫かなにかと勘違いしているのだろうとリーヴはよく思う。
「起きろとは申しませぬが、もう少ししゃんとしてくださいませ」
「お前……大分口うるさくなったなぁ」
 クバードはリーヴに顔を寄せて更に抱きすくめた。甘えたいだけなら、娼館の女でも捕まえなさいと以前口にしたが彼はけろりとした表情でお主だからいいのだ、と言う。その割には日夜女遊びにうつつを抜かすのだから、やっぱりアレも法螺だったのか。リーヴはクバードの左目へそっと手を添えた。
「痛みますか」
「……お主の方がつらかろう?」
 そっと背中を撫でられた。大きな手の、じんわりとしたぬくもりがくるだけで先程の背中を殴りつけられるような痛みが和らいだ気がする。もはやコレが気分的な問題だとわかっているし、クバードの手で和らぐのだからなんて単純なのだろうとリーヴは笑った。
「先程まで歩くのも億劫でした」
「ほう? 良くなったのか?」
「クバード様に抱いていただいていると少し楽です」
 そっと鎖骨あたりに頭をあずけるとクバードはしばし瞠目して、快活に笑うとそうか、そうか、とつぶやいてリーヴを抱きすくめた。腕には力が入っているようで、決してリーヴを潰さぬように加減されている。
「俺もだ」
 リーヴはクバードの首にそっと腕を回して目をつむった。ああ、家人たちにはクバードを起こすようにと言われたのだがもういいだろうか、とリーヴは少し夢うつつをさまよいながら考える。クバードはすでに二度寝、もしかしたら三度寝かもしれないが眠りの欲求に逆らわないことにしたのか微かに寝息が聞こえてきていた。不用心ですよ、など言いたいことはいくつかあったが、其れすら億劫だ。――今日は雨だから。と言い訳を並べられるうちに、もう一眠りだけさせてもらおう。寝台へ引きずり込まれた時点で、コレは主人からの命令であったのだから仕方ないとリーヴは考えを巡らせ、ぱたりと断ち切ると、クバードの腕の中で眠った。

 次に起きた時には外は晴れているといい、と思うばかりだ。

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