至極の褒美


 パルス王国の万騎長であるクバードは珍しく大層頭を悩ませていた。ホラ吹きを自称し、悩みなどないと言わんばかりに豪快に笑う彼であるのに王宮の大理石でできた廊下を歩く様は腕を組みしかめ面であった。酒壺を片手に持ちながらもクバードがそれを飲むような様は見られず、通りすがる都度警備の兵士たちが顔を見合わせて首を傾げた。何か重大な問題でも任されたのだろうか、しかし、彼であるのならさほども気にしなさそうなものだが。兵士たちのそんな心配を他所にクバードは一つ嘆息した。
 悩みというのは実は簡単である。――自身の従僕である。
 クバードの従僕である女性のリーヴは非常に欲に欠ける。基本的な人間の欲求にも疎いところがあり、食べる、寝る、性欲にもあまり大きく情動が動かされないようでそれが今、クバードをもっぱら悩ませていた。別にそれだけだったら悩む理由でもなんでもない。リーヴが欲求にかけていても最低限の生活を送っていて、本人が満足しているというのにこちらから余計な手出しをするのはおかしいことだ、とクバードは度々口にする。そのとおりだ。しかし、今回は少しばかり違った。――戦の恩賞をリーヴは頑なに断り続けるのだ。

 リーヴは元々剣奴として、奴隷ゴラーム身分として暮らしてきた。クバードがリーヴを見つけて自由民アーザートに引き上げたが従僕として側に居させてくれ、其れだけでいいというリーヴはまさしく従僕として慎ましやかに仕事をこなすが、正しい報酬を受け取ろうとしない。銀貨や銅貨は絶対に受け取らぬし、装飾品の類などこれを持って戦に何に役立つのかと思っている始末。武官として戦に出ている以上報奨は当たり前であるというのに、リーヴはクバードの傍で戦えた事に満足しようとする。さすがにクバードの配下の千騎長――モフタセブがクバードに苦言を呈してきたのは当然の流れだっただろう。長年クバードの配下にある宿将はリーヴのこともよく見知っているためか眉を下げて困った表情を浮かべていた。
「いくら奴隷上がりであっても、今は自由民。まして、クバード様の側付きであるリーヴ殿があれでは周りのものも受け辛ろうございます」
「だろうなぁ」
 それは以前から思っていた、とクバードはリーヴにきつく言いつけられた書類を片付けながら呟いた。無欲ではあるがクバードに対して口答えはするようになってきた。昔のようにはい、しか返事を持ちえない頃と違ってクバードの行動で駄目なことは駄目、すべきことはしろ、酒と女は控えろ、万騎長らしく振る舞えと些か口うるさくなったものだがクバードはそれらも成長と喜んではいた。(もちろん、自分に向けられる小言の数には閉口し、耳を塞ぎたくなるが)
「銀貨や銅貨では駄目なのでしたら、何かものに変えてみては?」
「駄目だった。もう、試しておる。まあ……剣であれば、多少は喜んで受け取るだろうがアレは武器に異様なこだわりがある故今のもの以外は受け取らんだろう」
 モフタセブが納得したように数度頷いた。
「そも、あれは本当に物欲がない! 食べることも飲むことも――ああ、そういえば、シャプールが以前花の砂糖漬けを故郷の土産賭して持ってきた時は表情を緩めておったか……?」
 クバードは記憶を思い返しながら呟く。まったく仲の良くない、相性の良くない僚友であるシャプールはリーヴ同じ年頃の異母弟であるイスファーンの事があるからか、リーヴのこともそれはそれは妹のように殊更かわいがった。故郷へ用事があるからと戻った折にはその都度土産を持ち帰りリーヴへ手渡していた。さすがに宝石を渡された時は私にはこれは受け取れません、と恐縮しシャプールに突き返していたし、シャプールもそれ以後は形の残る装飾品よりも食べればなくなってしまう食べ物にすることにしたようで、特にシャプールの領土付近でしか咲かない冬の花の砂糖漬けは見目も良く、リーヴにはまるで宝石のように見えたのだろう、小振りの瓶に入ったそれを何度も何度も眺めながら愛おしげに食べていたことを思い出す。
 だが、クバードはシャプールと同じ贈り物をするつもりなどてんでなかったし、それが報酬というのもどうなのだと眉をひそめた。確かに稚児のように見えるが、決して稚児ではない。リーヴはれっきとした大人の女性である。外見が少しばかり小さく幼く見えるだけなのだ。
 顎に手を当てて悩む上司にモフタセブはどうであれ、貴方からしか受け取らないのですからどうにかなさいませと適当に投げ出されクバードはどうしたものかと一枚、書類に署名した。



* * *



「リーヴはクバード様のお傍にいられればそれで満足です故、そのようなお心遣いは不要です」
 やはりか、とクバードは屋敷に帰ってきて珍しく妓館にも行かずにリーヴを自室へ呼びつけると何か入り用なものはないかと問うた。とりあえず、なにもないと言うリーヴはすばやくクバードの言わんとしていることを理解したのか続けざまにはっきりと言うのだ。こやつの奴隷根性もなかなか抜けぬな、とクバードはリーヴが持ってきた麦酒の入った盃を傾けて嘆息する。
 それで十分だ、とリーヴが本気で思っているのがこの際問題なのだ。正しい報酬を受け取るという発想がこいつにはないというか、無償で行われる何かがないとはわかっているくせに、自分が使われるために存在して、その報酬がただ自分の傍にいること、などなんといじらしいことか、愛らしいことかと思わないこともないがクバードはリーヴを呼び寄せた。もうおりますよ、などというリーヴにカーペットの上に胡座をかいている自分の膝の上を指す。しばし、瞠目し、部屋に自分とクバード以外の存在がないことを確認して、リーヴはクバードの膝の上に上がってその足の間に腰掛けた。
「困ったやつよな、お前も」
「……私は何か悪いことをいたしましたか?」
「ああ、俺は大いに困っている」
 クバードを見上げるリーヴの顔がさ、と青みを帯びて不安げに歪む。リーヴにそっと体重をかけるように体を寄せた。
「お主が俺からの褒美をとんと受け取らん」
「リーヴはもう、クバード様からいっぱいもらいました。この生命すら……」
 貴方が拾い上げてくれたものではありませんか、リーヴは泣きそうな顔でいう。だから自分は貴方に尽くすのだと、リーヴは言外にいい含んでクバードに必死に訴える。お傍においてくれればそれでいいのです、と必死に訴えるリーヴを抱きすくめるとリーヴは動きを止めた。
「俺はお主をそんなつもりで召し上げたわけではないが」
「……あ、ごめん、なさい」
「リーヴ、俺のためにと言って己の命を浪費するな。欲しいものをほしいと言っていいのだ、お主は。そのために俺は足枷を壊したのだ」
 今は跡も薄くなった足首をクバードの手がそっと撫でる。リーヴは肩を縮こませて泣きそうな顔をする。それを見ているとなんだか俺がいじめているようではないか、とクバードはいたたまれない気分になりリーヴが持ってきた葡萄をひとつつまみ上げてリーヴの小さな唇に押し当てた。
「今日のところはこれで勘弁してやろう」
「ふえ、あ、お待ち下さい、あの」
「何だ、葡萄は嫌いか? 他のもあるぞ?」
 銀盃にきれいに並べられた果物を指差すとリーヴは慌てて首を横に振る。私などにはもったいない、と言い出すのでいいから口を開けよ、と言えば恐る恐る口を開いて葡萄をクバードの指から食べた。葡萄の端の方を食むだけだったのはおそらく、クバードの指に唇が触れぬようにしたからだろう、しかし其れが逆効果だったのか中途半端に食べた葡萄から果汁が滴ってクバードの指を濡れさせた。
「あ……っ」
 吐息のようにこぼれた言葉の後、リーヴは申し訳ありません、と言葉を紡いでクバードの手を手で取ってぺろり、と舌を這わせ、こぼれた果汁を舐め取った。そのまま葡萄の方までゆっくりと上ってゆくと、残った葡萄を食べ、果汁を残さぬようにとクバードの指に吸い付いてちゅう、と音を立てた。指を離し、はぁ、と吐息をつくとリーヴはクバードを見上げた。
「も、申し訳ありません、今拭くものを……」
 いいかけたリーヴを抑えてクバードはもう一つ葡萄を見せる。
「あ、あの、もう」
「まさか一粒で腹がいっぱいとは言わんだろう? ほら、今日はたんと食べろ。――これならお前も文句言わず受け取ろうよ」
「……うっ」
 ほれ、ともう一度唇に押し上げられた葡萄をリーヴは今度は一口で食んだ。指まで口に含んでしまって、そのクバードの指を名残惜しげに吸い付いて離す。緑色の瞳を縁取るように白い肌に朱色が差して、とろりと蕩ける瞳にクバードは背徳感が否めない。生唾が喉の奥を通り喉を鳴らした。
「あの、クバード様……」
「ん?」
「……もう一つ、よろしいですか?」
 恐る恐る伺い見て言い出すリーヴにクバードは笑い出す。良いにきまっていると、リーヴを抱え直して自分の方を向かせた。今度は指からではなくても食べそうだな、と意地悪げに唇の端を持ち上げて笑った。

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