偽物のメーデー
"ラビ"はブックマンJrの四十九番目の記録における名前である。
ブックマンとは歴史には記されない裏の歴史を記録し、代々それを引き継ぐ者の総称。あらゆる歴史には干渉せず、歴史の中に入り込み、歴史の裏側を記録する者。所謂書き手である。歴史の出演者には心を移さず、ただ傍観する者である。
――はずだった。
「ラビ」
声が聞こえてオレは顔を上げた。底に見えたのは全てを燃やし尽くしてしまいそうな紅い紅蓮の長い髪。それをたどるように顔を上げていけばそこには地上で唯一出会える女神がそこにいた。傲慢にして慈悲深く、健全にして淫虐。神の映し身にして、人間の体現者。あらゆる矛盾を抱え込んだ女がアスナだったんだ。
にへら、とオレは笑った。
こいつは歴史の転換点。本来、人の世に現れることのない「特異点」だったから。そう。オレが記録すべき「歴史」のインクなんだ。笑顔でいれば大抵の人間は騙せる。アスナも同じだ。たとえ、神であろうと、化物であろうと、人間であろうと。人語を理解し、人の感情を理解するアスナは笑顔で騙せるはずだと。
「お前の瞳はガラス玉のようだ」
アスナが指で弄んだのは深い緑色のビー玉だった。懐かしかろう、と表情を緩めた傲慢な神皇は指でそれをつまみ上げるとたまらなく愛おしげにキスをしてオレを見た。
「腐ったものには腐ったものがわからないというが――嘘をつき続けると自分の気持ちもわからなくなるぞ、四十九番目のブックマンJr」
アスナはそう言って笑うとオレに緑色のガラス玉を放ってきた。小さなそれはキラキラとしている。それがアスナの答えだった。騙されているのは、アスナではなくオレで。騙しているのは、オレではなくアスナだった。彼女はそういうと立ち上がってオレにキスをする。まるでオレがアスナの何かを奪うようなキスだったはずなのに、オレの中の「嘘」だけがアスナに奪われていくようなそんな、――多分、愛だった。
マボロシは初めて愛を知る。
マボロシだって知る。
悲しいくらいに彼女の愛が本物であったことを知る。
「オレを叱ってくれていいんさ、アスナ」
卑怯者のオレを。
裁けるのは君だけだから。でも、最後までそれは君に甘える結末だと知っている。
アスナは嘲笑った。嘲笑に見えたのはきっとオレだけだ。アスナはそんなつもりもなく、いつもどおりに傲慢にして慈悲深い笑みで笑い、オレにそっと手を伸ばしてきた。
オレに足りないものを探してみた。
そうしたら、四十九番目のラビはアスナに出会ったんだ。
「愛してほしいなんて――」
アスナは笑う。その手は、炎は優しくオレを包み込んで離さない。
「人ひとりのエゴでしかないんだ。お前が気にすることなんてないさ」
オレ達は似た者同士。
きっと、この世界に存在すべきではないマボロシそのものだ。救難信号はおそらく誰にも届かない。おそらくいつか、オレとアスナの世界に終りが来る。
オレが人間である以上。アスナが神である以上。
それでもオレはもう戻れないだろう。どれだけ嘘をついても、多分、もうこの気持ちは本物になってしまったのだと知っているから。だから――
「その日が来たら、ラビだけはアスナにあげるさ」
四十九番目のラビの運命の人。