せめて、今だけは平和


 ルシス王国の王女であるアストリッドが高校から帰ってきた時、城の中はしばしば騒がしかったのだが今日は静かだった。荷物を受け取ってくれた城づとめの執事へアスナは無言で視線を送った。今日は朝早かったので、城がどうなっているのかアストリッドにはよくわかっていなかったのだ。執事は困ったように眉を寄せて、アストリッドへと告げた。

 ――妹姫、クラルスマーネ殿下が熱を出して寝込んでいる、と。

 慌てて荷物を部屋へ放り込み、制服のまま王宮の廊下を歩いてゆけば、城ですれ違うものたちが少しばかり目を見開いて通りすがるアスナを視線で追った。アストリッドは比較的真面目な人間であった。王族であるという責務をしっかりと理解しており、いつでもそれにふさわしくあらんとしているような人物なのだ。少なからず、彼らの前ではそうであろうとしている。そんなアストリッドが制服もそのままに、王宮の廊下を今にも走り出しそうな雰囲気で歩いているのは珍しいことである。
 しかし、彼らは一様に彼女が家族思いであることを知っていた。恐らくは、妹姫が熱を出したことを聞いたのだろう、と目星をつけると微笑ましげにそれを見つめやった。王族たらんと、次期の王である弟王子であるノクティスには些か厳しいところは見れるがそれでも、年の離れた弟と妹を存分に可愛がっている彼女が、妹の体調不良にいても立っても居られなかったのだろう。――大人びていても、まだ十六歳の少女だ。この後、レギス王の執務室で政務の勉強をするはずだがそれもキャンセルされるだろうと目星をつけた文官の一人がレギス王へ進言に向かうのはまた別の話である。

 クラルスマーネの部屋の前につけば、侍女たちが控えていた。アスナの姿を見るなり、おかえりなさいませと頭を下げる彼女たちにアスナは少し雑ではあったが挨拶を返し、中で眠っているクラルスマーネの状態を問うた。侍女がいうにはそれほどひどいわけでもなく、お昼も食事を摂り、今はノクティス王子が傍で見守っているので眠っている様子だ、とのこと。少しばかり頼りのない弟であったが妹ができてからは自分が兄だと自覚がついてきたようで、アストリッドと共にクラルスマーネの世話をするようになってきた。それに優しく微笑むと、侍女たちに下がってよいことを告げて、アストリッドは部屋を静かに開けた。
 部屋の中にはクラルスマーネの寝ている子供には大きな天蓋付きのベッドと、その脇には椅子に座ったままベッドに突っ伏して眠っているノクティスの姿があった。学校のカバンもそのままに、帰ってくるなりここへきてそのまま眠ってしまったらしいノクティスに困ったようにため息を付きながら、アストリッドは静かに歩み寄りながらノクティスの肩に自分の制服のジャケットをかけてやった。そして、少し乱れているクラルスマーネの布団をかけ直してやる。
「……ん、ねえ、しゃま……?」
「おや、起こしてしまったかな」
 近くにもう一つの椅子を引っ張り寄せるとアストリッドは腰掛けた。わずかに目を開けたクラルスマーネの額にそっと手を当てて見る。うむ、少し熱いがこれくらいなら直に元気になって、王宮を走り回れるようになるだろう、と優しく微笑んだ。
「がっこー……おわったの?」
「終わったよ。マーネは少し、良くなったかな」
「うん……にいしゃまがね、いっしょに……いてくれたの」
「それはよかった。怖い夢も見なかっただろう?」
 お兄様はクリスタルに選ばれた特別な人だからね、とアストリッドは眠るノクティスの頭を撫でてやる。えへへ、と寝ぼけ眼で微笑むクラルスマーネの額にそっとキスを落とす。
「さあ、ここからは姉様が二人を守ってあげるから、マーネはもう少しだけ休みなさい」
 手を握ってあげると、クラルスマーネは嬉しそうに微笑んだ。その後、ゆるゆると眠気に誘われていくクラルスマーネを見守り、近くで眠るノクティスの体をそっと持ち上げてクラルスマーネの隣に入れてやる。そんな二人をみやりながらアストリッドはきゅ、と唇をわずかに噛み締めて、すぐに優しい顔へ戻った。
 二人のこれからを悲嘆することは簡単だ。憐れむことも、嘆くことだってとても簡単なことなのだ。でも、それは何の解決にも繋がらない。今、自分にできることはいつだって一つだ。
(……この子達の明日を守ってあげること)
 ああ、愛しい子たち。
 私の最愛の家族。

(あなた達の明日がせめて幸福でありますように)

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