がいつか覚めてしまう前に


 シュヘンベルグ大公爵こと、アスナ・シュヘン・ガル・クラウンはいつでも黒色のイブニング・グローブをつけていた。それはブリタニア宮廷内で好まれている淑女の嗜みとしての華美な装飾のなされたものではななく――装飾こそ、金糸でブリタニアの騎士を称する文様を刻まれている――自分の指を覆い隠すための手袋であった。
 シュヘンベルグ大公爵の名にふさわしく、クラウン家はブリタニアの貴族たちの中でその地位は高い。今代は皇帝の姪――乃ちはブリタニア皇族に名前を連ねる一翼であり、騎士としての道を選択していなければ皇位継承権を持つれっきとした皇族の中の一家となる。だが、シュヘンベルグ家は代々ブリタニア皇族の陰をブルートーンとは別の形で担い、円卓の呪われた十三番目の席に座る騎士の役割を背負っている。
 故にその後継者として、母の生家から引き取られたアスナは幼い頃からピアノやヴァイオリン、絵画、裁縫といった女性らしいことから遠ざけられて、どちらかと言えば剣術や銃の扱い、戦術の立て方等騎士として戦い抜く方法を教え込まれた。その御蔭で今、彼女はブリタニアの騎士としては最高峰の地位、ナイトオブラウンズの中でも高い実力と権力を誇るシュヘンベルグ大公爵家の当主としてその権威を揮えているわけではあるが。
 ――いささかもコンプレックスがないといえば、嘘になる。
 シュナイゼル第二皇子が出席するレセプションパーティーには多くの客人が招かれていた。特に妙齢の貴族の女性が多かったのは、シュナイゼルが今年で二十六歳となり、明確な結婚適齢期に突入したことも大きな理由の一つだろう。シュナイゼル第二皇子といえば、皇位継承権こそ、次席に当たるがその高い実力はすでに国内外を問わず評価されており、ブリタニアの宰相としてシャルル皇帝を覗いた最高指導者としてその才能をいかんなく発揮している。貴族の多くはシュナイゼルが次期の皇帝になるだろうと密やかな噂を絶やさずにいる。――アスナもそう思っている。
 アスナはシャルル皇帝の騎士、ナイトオブラウンズの一翼を務めている立場ではあるが幼い頃から共に学び、共に遊び、共に過ごしてきた幼馴染であるシュナイゼルを誰よりも評価していた。しかして、そういう幼馴染の不安定さというか、不安材料は尽きないところではあるが――それはさておき、幼馴染の贔屓目を全く無くしてみてもシュナイゼルは男性として魅力的だった。

 まるで月の光を受けているかのように輝きを放つブロンドの髪、柔らかな温かい光をともして細められるすみれ色――ロイヤルパープルの美しい宝石のような瞳、類まれなる才能を持った芸術家がその生命をかけて完成させたかのように美しい造詣の顔立ち、スラリと伸びる肢体は背丈もあり、決して見せかけだけの体つきではないとわかるほどだ。まさしく――芸術品の域に達しているといっても過言ではない美しさだった。
 そんな彼に世の女性たちが見惚れないわけがない。まして、シュナイゼルは第二皇子にして宰相。彼の妻の座を射止めることができれば――と画策する女性は少なくないだろう。うまく行けば、この国のファーストレディの座を手に入れることができるのだ。

 そんな貴族の女性たちは――まさしく、アスナが憧れる"女性"像に近いのだ。
 美しさを磨くことに余念がなく、騎士の道を歩む自分とは全く異なる――そう、シュナイゼルの妻になるならああいう女性らしい、そういう人たちが相応しいと思うくらいには。アスナのイブニンググローブが黒いのは、その奥の傷口を覆い隠すためだ。貴族の女性たちの美しくて、綺麗にネイルを施され華美になった爪や指とは違う。幼い頃から剣を握り、銃を握り――戦いの中に身を置いてきたアスナの指は節くれだち、細かい傷があり、爪はボロボロで、手の皮も豆が潰れた箇所は固く、ざらついた感触だった。
 すごく、コンプレックスを感じる――とアスナはパーティーで人に囲まれ、貴族の女性たちの指に手を添えるシュナイゼルを見ていると、いつも胸の奥がチリチリと焼けるような感覚がして嫌いだった。自分は才能にも恵まれ、人が羨むような地位には付いている――と自覚しているので、比較的嫉妬や劣等感に悩まされることが少ないタイプの人間だとアスナは思っているし、実際そういう人間だと周りは思っている。だが、シュナイゼルに関することだけは少しばかり事情が違った。騎士の道を選んだことに間違いはなかったと思うし、今この道を歩いていることに後悔はない。それだけは断言できる。できる、が。彼女たちのように美しく飾り立てていたのなら、もっとあの人の目にうつることができるのだろうか、などと詮無きことを考えてしまう。
 何を考えているんだ、とアスナは首を横に振った。今日はシュナイゼルの護衛が仕事であって、そんなことを考えるためにここに来たわけではない、と自分を奮いたたせる。黒いイブニンググローブで包まれている両手に力を入れて、少し長めに息を吐いて緊張感を取り戻すと、アスナは少しだけ表情を引き締めた。彼女たちにできないことを自分はするのだ、シュナイゼルのお傍でシュナイゼルを守り通すことのできるのは自分だけだ――と慰めを心のなかで何度も何度も繰り返していると――「アスナ」と自分を呼ぶ声がして、慌てて顔を跳ね上げた。
 目の前に見えたのはシュナイゼルだった。いくら、アスナの目が悪かろうがいきなり顔の目の前に他人がいたら驚く。気配を探らなかったのか、などとさんざん言われそうな気もするがそれどころではなかったのだ。重大案件について悩んでいたのだ――と散々自身に言い訳した後で、アスナは漸く声を発せられた。「シュナイゼル、殿下」
 なんとも情けない声に、穴があったら今すぐにでも入りたいような衝動に駆られたが、目の前のシュナイゼルは少し穏やかに微笑んで、うん、と頷く。そして、アスナのイブニンググローブに包まれた手をそっと持ち上げて、両手で包み込んだ。
「どうかしたのかな、具合でも……」
「いえ、問題ありません、殿下。少しばかり――懸案がありまして。それだけなのです」
 心の底から心配したようにいうシュナイゼルにアスナは困った笑みを返しながら、シュナイゼルの手をそっと握り返した。するとシュナイゼルは少し安心したかのように表情を緩ませて少しだけ握り返した手をさらに優しく力を入れて包み込んだ。
「その懸案、私に話せることなら話してくれて構わないよ。もしかしたら、解決策が浮かぶかもしれない」
 シュナイゼルの優しい声と言葉にアスナはいたたまれなくなる。ぼうとしていた理由を知られたくなくて、懸案などと使ってしまった数秒前の自分を殴り飛ばしてしまいたいくらいだ。心から心配してくれる親愛なる殿下に――嘘をついてしまったという罪悪感と言ったらない。きゅう、と唇を噛みしめるようにして引き結ぶアスナに対して、シュナイゼルは困ったように微笑みかけた。アスナが口を引き結ぶときは、シュナイゼルにも話せないことだ。しかし、この場合はさして重大案件ではなく、アスナがシュナイゼルに関して嫉妬してしまっていたというだけのことなので、双方の間に認識の齟齬が生まれているのだがこの際誰も指摘しないので気付かないままだ。
「……申し訳ありません。――殿下を煩わせるほどのことではないのです」
 ただの、私の、といいかけて、シュナイゼルははたと気付いたように目を丸々と見開いた。そして、ちらりとアスナのイブニンググローブへ視線を向けた。肌触りの良いグローブだが、アスナがこれを外しているのは久しく見ていない、と思い出したところでああ……と納得したように声をわずかに上げた。
「確かに、彼女たちはとても美しい手をしていたけれど」
 突然そういい出したシュナイゼルにアスナはびくりと、肩を震わせた。シュナイゼルはそんなアスナをみやって、一つ微笑むと、包み込んでいたアスナの手を離して、イブニンググローブへ指をかけた。するするとそれを外すと、アスナの日に焼けない白い手が出てきた。その白い手は、剣を握り続けたためか、ところどころ節くれ立ち、豆が潰れたであろう部分は固くなり、手の甲や、指の間、指先には細かい傷が見て取れる。手の甲を両断する大きな傷の名残は、アスナがシュナイゼルを守り通した名誉の負傷だ。それら一つ一つを確かめるようにシュナイゼルは自分の指を這わせ、眺めて、うっとりと目を細めた。

「私は、これ以上美しい手を知らないよ」

 最上級に甘い笑みと蕩けそうなほど柔らかな声でそう言われると、アスナの背筋は別の意味で硬直した。見えなくてもわかる、いや、見えなくてよかったと今、アスナは心から思った。きっと、見えていたら殿下の美しさに卒倒していたかもしれないと思いながら、触れられている指先から徐々に全身が熱くなっていく感覚がし、先程までちりちりと心臓に感じていた痛みはこの熱で焼け落ちてしまったかのようになくなってしまう。
 シュナイゼルはアスナの指をそっと持ち上げて、その指先にキスをする。傷をいたわるように、確認するように、数度キスを落として、緩やかに微笑みかけた。
「私は君の手が、一番好きだよ、アスナ」
 だって、この手は私を守る手。第二皇子シュナイゼルを、ただのシュナイゼルとして愛してくれた手。
 それがどうして美しくなかろうか、とシュナイゼルは優しくアスナの手を握りしめる。目の前のアスナはすでに顔も、耳まで赤くなっていて指先も異常なほどに熱を持っているのがシュナイゼルでもわかった。長年過ごしていて、どれだけ愛を囁いても慣れずにこうして初な反応をしてくれるアスナがたまらなく愛おしく感じて、シュナイゼルはひと目も憚らず、アスナを抱きしめて、その額にキスを落とした。

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