世界でたった一人、だけが


 朝、ラーズが目を覚ましたのは、ライブラ離宮の自室であった。ここ数ヶ月はラウンズは戦場に駆り出され、ユーロピア方面まで行くことが多かったので、このシュヘンベルグ家のライブラ離宮へ戻ってきたのは、一年ぶりほどに近かった。昨年の誕生日の後からはめっぽう忙しかった――と思い返しながら、今日が自分の誕生日であることを思い出した彼は再びベッドに沈み込む。
 今日は久しぶりの、手放しの休暇。日暮れよりパーティーはあるものの、それ以外の時間はフリー。暴動やテロで、なおかつ危険度が高いものでもない限り自分に回ってくることなどないだろう、とラーズは高をくくってもう一度惰眠を貪ろうと決めたのだ。鍛錬は、今日一日だけおやすみ。明日から、またやるんだから――と考えた、ところで来訪者を告げるノックの音。ラーズは思い切り顔をしかめると、無視を決め込んだ。
 しかし、来訪者は諦めないらしい。こんこん、こんこん、規則正しくノックを繰り返した。
 ラーズは出るつもりがないから、枕に顔を埋めて、布団で体全体を隠して、ノックを遠ざけた。来訪者を告げたノックは徐々にノックというよりもドアを殴りつける音へと変わり――流石に騒音になってきたというところで、ラーズは布団から飛び出して、そして――絶句した。
「お、おおおお!!!!!????」
 絶叫を上げて、自分の元へと飛んできたドアだったものを這いずりながら躱すと、元々ドアが付いていたはずの部屋の入口へと視線を向けた。そこに立っていたのは――焔のように赤い髪を揺らめかせて立っている黒衣の女である。顔立ちだけを言うならば、ラーズとほぼ同等の顔立ちをしていた。男であるラーズと、女である彼女の顔立ちがほぼ寸分も狂いがないのが奇跡だと言えるほどだが、二人は双子であるので似ていることに誰も疑問は抱かない。ラーズ自身も自分の写し鏡のような目の前の双子の姉――アスナ・シュヘン・ガル・クラウンの姿には疑念は抱かない。
「こ、これは、姉上……ご機嫌麗しゅう」
 ベッドから落ちて、ドアから難を逃れたラーズは無様な姿を晒しながらもアスナへと挨拶を送った。アスナは優雅に、にこりと笑ってみせると、おそらくはドアを蹴り飛ばしたのだろう足をゆったりとした動作で下ろす。立ち姿だけでも、そこらの絵画よりも美しいと評判のアスナの美しい蹴りがドアにヒットしたらしい。見るも無残にひしゃげてしまった蝶番を見るだけで――ラーズは自分に直接当たらなくてよかった、と情けないことを思ってしまうのだ。
「麗しゅう、ラーズ。話があるから、十秒で支度を整えて、テラスへいらっしゃい」
「え、じゅ、十!?」
「十、九、八……」
「た、ただいま!!!ただいま、参ります!!!!おまちください!」
 ラーズが慌てて飛び起きて、支度を始めたことを確認するとアスナはため息を付いて、ラーズへ背を向けた。
「十秒は冗談だ――殿下がテラスにいらっしゃっているから、早めに準備をするのは当然だが、身支度に不備があるのは許さないぞ」
 殿下、と言われ、ラーズは自然と眉が釣り上がった。じわじわと眉間に皺がよる。
 ――アスナが殿下、と呼ぶのは、ブリタニア皇族でも特定の人物だけだ。他は全て、名前の後ろに敬称として殿下をつけるのだが、名前もなく殿下、とだけ愛を込めて呼ぶのはたった一人だ。第二皇子、シュナイゼルだ。なんて名前を誕生日に聞かなくてはならないのだ、と思うくらいにはラーズは双子の姉であるアスナとは違い、シュナイゼルが嫌いだった。その名前を聞いた瞬間に、起きる気力がなくなってしまったがアスナの冷淡な目には勝てなかったので、ラーズは仕方なしに着替えを済ませるためクローゼットへと向かうのだった。


「おや、思ったより早かったね」
 ――私に会うのが嫌で二十分くらいはかかるかと思ったよ。
 ライブラ離宮で堂々とくつろいでいる私服の第二皇子に正直殺意を覚えたのは絶対に姉に話せないと思ったし、丁度その姉はお茶のおかわりを取りに行っているらしい、テラスにはいなかった。これでも、十分で支度を整えたのだから褒めてほしいし、正直そうしてやろうかと思ったがしなかったのに。ぬけぬけと心を読んでいいやがって、という言葉は全て飲みこんで、儀礼に則って、第二皇子へ挨拶をする。
「オールハイルブリタニア、殿下。麗しの第二皇子殿下は本日もご機嫌麗しゅう」
「もちろんだとも、今日は私の一番愛おしい人の誕生日だからね」
 にこりと笑った今日一番の嫌味にラーズはひくり、とこめかみを動かしたが、飲み込む。
「……で、誕生日祝を先にするためにここに来たわけじゃないんだろ?」
「おや、まだ、アスナから説明はされてない?」
「……されてない」
 麗しい笑顔が胡散臭く見えるのは自分だけじゃないはずだ、と誰かに頷いてほしかったが周りに使用人もいないし、シュナイゼルも護衛を連れている様子がない。いつも連れ歩いている副官の姿もないようだし――と考えたところでアスナが紅茶のポッドを持って現れた。
「ああ、アスナ、大丈夫かい?」
「これくらいは見えなくてもできますよ、殿下」
 椅子から腰を上げかけたシュナイゼルに笑いかけたアスナはポッドを持ったまま二人の元へ近づく。ラーズはそれをひょいと取り上げると、3つのカップに注ぐ。当然シュナイゼルを一番最初に注ぐと、次にアスナに、最後に自分だ。ありがとう、という姉に、どういたしましてと一礼して席を勧めた。――当然のように、自分とシュナイゼルの間の席に。
「……二人の冷戦にはできるだけ首を突っ込みたくないけれど。今日はできるだけ仲良くしてくださいね」
 アスナは最初に釘を差して、話を進めることにしたらしい。静かにラーズの前に差し出してきたのは、アスナが日頃好んで着用している騎士服とウィッグだった。
「……これは?」
「お前なら、私になれるだろう」
「え……??」



* * *




「君も弟に容赦がないね」
 シュナイゼルはそう言ってクスリ、と笑うとサングラスを少しだけ下げた。私服も、皇宮の外に出ても違和感がないレベルまでラフなものになっていたし、隣を歩いているアスナも大きな帽子をかぶって顔が出ないようにし、左目を両断していて目立つ傷もファンデーションでしっかりと隠されていた。髪の毛もまとめられて、帽子の中だ。
「仕方ないですよ、こうでもしないとこうやって外を出歩くのは無理でしょうから」
 二人が歩いているのはブリタニア宮のお膝元――帝都ペンドラゴンである。まるで森のように超高層ビルが立ち並ぶ帝都の街を、護衛も最小限にしかもあまり目立たないようにして歩くなど本来なら第二皇子の立場ならありえないことだった。
「さて、お姫様。本日のご要望は?」
「プラネタリウムに行きたいんです!」
 真っ白な笑顔を浮かべるアスナに優しい表情を浮かべてシュナイゼルは手を差し出した。


「というわけで、貴公がそういう格好をしているわけか。――まるで違和感がないな」
 シュナイゼルとアスナが出掛けている最中、ラーズは――アスナの姿になって、インバル宮を訪れていた。
 ビスマルクには説明して助力してもらうといい、というシュナイゼルの助言から来たものだが、この姿はやはりアスナに見えるらしい。まあ、彼を騙せるのなら大したものだと思いながら、ラーズは大きくため息を付いて頷いた。
「どうしよう、お姉ちゃんとそっくりなのは知ってたけど、ここまでとは……」
「それで殿下たちは街に繰り出したわけか」
「うん。シュナイゼルはシュナイゼルで影を用意してるらしいから――……原稿はシュナイゼルの声録音だってさ」
「夕方のパーティーにも出席されないということか」
「シュナイゼル殿下の方は、仕事が忙しくて欠席ってことにしてるらしい。アスナは俺が代役。俺はラウンズの仕事で帰ってこれないってことにしてあるっぽい」
 用意周到すぎる。
 ということは、誕生日の数ヶ月前から準備していたのであろう笑顔の美しい第二皇子の顔を思い出してラーズはもう今すぐにでも放棄してやりたい気分になったが、姉が楽しみそうにしていたのを見てしまうとどうしても逆らえないのだ。
「断ればよかったものを」
「……だって、アスナが。アスナ、忙しかったんだよ、ずっとシュナイゼルに会うのも我慢して……頑張ってたから」
 ちょっとくらい。
 と、口にするとビスマルクから思い切り頭を撫でられた。いろいろ騎士としての生き様を教えてくれたビスマルクにとって自分たちはいつまでも子供なのかもしれないが、流石に二十代も後半に差し掛かろうとしているのでそうされると恥ずかしくてつい手を払い除けて、照れのままに言葉を浴びせてしまうが微笑ましげに眺められるだけだった。
「と、とりあえず! 特務総監には内緒にしてくれって、アスナが言ってた!」


 プラネタリウムの中は平日の夕方だというのにも関わらずカップルがそこそこいた。いざ、上映が始まるとあたりは静寂で、説明の音声が流れ出るのみとなる。暗闇の中、天井のスクリーンに星が映し出されるのを見ながら――シュナイゼルはふと思い出した。
(……アスナは見えていないのに)
 隣の席に座っているアスナへ視線を向ける。すると、静かに、手が重なった。小さくこちらを見たアスナがニコリと笑う。シュナイゼルはそれに力なく笑うと、再び天井へ視線を向けた。どうやら、彼女は見えていなくても楽しいらしい。
 音声説明が終わると、少しずつ会場が明るくなっていくのでその前にシュナイゼルはサングラスを掛け直した。影武者は今日もテレビの向こう側で公務をこなしてくれているので、自分はあくまでも今日は隠れていなくては――と思って、少しだけ楽しくなった。
 まだ椅子に座っていたアスナに手を差し出して、シュナイゼルは笑う。
「楽しかったかい?」
「はい。こういうのは音声聞いてるだけで楽しいものですよ。――後で、殿下が見たものも聞かせてくださいね」
「もちろんだとも」
 アスナを立ち上がらせるように手を持ち上げる。勢いよく立ち上がったせいか、シフォンスカートがふわりと舞う。いつものイメージと変えてきているからか、アスナは今日は白や、淡いオレンジなど色合いを抑えたような雰囲気をしていて新鮮だ。シュナイゼルはそんなアスナに優しく微笑みかけて、額にキスを落とす。
「で、――シュナ……」
 一瞬、出てしまいそうになった言葉をぐと、飲み込んでアスナは顔を赤らめる。殿下、などと呼んではこのお忍びも当然なかったことになってしまうからだ。くすくすと笑ってからかうシュナイゼルに言いたいことを飲み込んで、アスナはその背中を押してさっさとプラネタリウムから出ていくように促した。
 外は――すでに薄暗くなってきている。
「ああ、もう随分と暗いね」
「そうなんですか」
「このくらいだと判別はつきづらいかな?」
「もう少し、濃淡がはっきりしないと……光を捉える力も随分と弱くなりましたから」
 光が捉えられなくなると、闇もわからない。
 暗いだけでは、それが暗いということもわからないということだが――アスナは少しだけ目を細めて、夕焼けが地平線の彼方へと消えていくのを眺める。見えないそれらを追いかけても仕方のないことだ。
「そろそろ、皇宮に戻るかい?」
「ですね。……ラーズの悲鳴が聞こえてきそう」
 シュナイゼルの手を握りしめたアスナは苦笑した。――パーティーまで出席するようにとは言ったが、コーネリアやベアトリスあたりにはバレるだろうとは思っていた。そうなれば、端末がうるさくなるだろう、と思いながら、アスナは端末を取り出して、部下を呼び寄せる。ブリタニア宮に戻るためには専用の車の手配が必要だったからだ。警備上の都合で、車のICチップを記録されてないと入れないから仕方ない。
「紅いね」
 シュナイゼルの声にアスナは振り返った。
 髪をすくい取られて、シュナイゼルは穏やかに笑った。

「このまま、ふたりだけでいられたらいいのにね」

 黄昏に染まった美しい金糸が六月の夕暮れに吹いたわずかに冷たくなる風に揺らめいた。
 力なく笑うその顔に、なんていうべきか、アスナは一瞬言葉を失いかけたが、静かに笑いかけた。
「貴方が望むのなら、地の果てまでもお付き合いしますよ」
 この誓いはゆるがない。
 アスナは連絡を入れようとして手に持った端末の電源をオフにする。
「いいのかい?」
「ラーズには、まあ、諦めてもらいましょう」
 そっとシュナイゼルに寄り添った。
「後、もう少しだけ」
 ゆっくりと目を閉じると、シュナイゼルが優しい手付きで肩に手を回してくれる。
「――もう少しだけ、何もかも忘れて、貴方と一緒に」
「……もちろんだとも」
 黄昏が、わずかに二人を隠してくれる。アスナはそっと背伸びをして顔をあげると、シュナイゼルのキスを受け入れた。

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