1、離れてしまった、手。
その薔薇園はいつだって華やかな美しさを持って佇んでいる。
赤い髪は幼い頃に比べ遥かに長く伸ばされており、風が吹く度に、その風に乗って、まるで焔のように揺蕩う。
紅い薔薇の花びらも同様に舞う姿は正しく切り取られた絵画のようだとシュナイゼルは薔薇園の入り口で目を細めながら眺めていた。
その気配に気づいたのか―アスナは虚空を見上げるようにしていた瞳に光を灯して、まるで薔薇が大輪の花を咲かせたかのようにほころばせて笑ったではないか。
シュナイゼルはその笑顔に暖かく、柔らかく微笑みかけた。
「シュナ」
彼女はそう、シュナイゼルを呼んだ。
初めて出会ってからすでに十年ほど経過しているが、出会った当初、彼女はシュナイゼルのことを「シュナイゼル」と呼べなかったのだ。
シュナイゼルと呼ぼうとする度に、舌を噛んでしまう幼い彼女に笑ってしまったのは今となればもう昔のことだった。
シュナイゼルに散々笑われたアスナは頬を膨らませてしばらく拗ねていたが、シュナイゼルが楽なように呼んでくれて構わないと笑うので、そこからシュナ、と皇族を呼ぶにはあまりにも不敬な呼び方を始めたのだ。
―もちろん、それは二人きりで会うときに限っていたが。
薔薇のチャペルに囲われた四阿にちらりと視線を来ると、アスナはわかったかのように頷いた。
そして、アスナは四隅を守る兵士たちへちらりと視線を向けた。
その視線を受けて、その中に一人がアスナに敬礼をして四阿から視線をそらすようにして、それぞれが薔薇園の外側へ視線を向けた。
四隅を守る護衛のブリタニア兵たちはシュナイゼルとアスナがここで秘密裏に逢瀬していることを知っているが、口出しをすることはない。
彼らは―アスナの生家であるシュヘンベルグ大公爵の息のかかったものだからだ。
シュヘンベルグ大公爵―クロス・シュヘン・アリア・クラウンは元々、クロス・アリア・ブリタニアと呼ばれていた。
すなわちは―皇族であったのだ。
現皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの異母兄であったが、本人は皇帝にまるきり興味を抱くことなく、シャルル皇子に皇位継承権を譲ると、母の実家、シュヘンベルグ大公爵家に跡取りがいなかったことをいいことに、大公爵家に収まった。
彼はかねてから変わり者だと呼ばれていたが、正しく変わり者の行動であった。
皇位継承権を棄て、一介の貴族に―大公爵であるため、ただの貴族とは明確に言えないが―なった彼は、家系に引き継がれてきたナイトオブサーティーンの座へ腰掛けた。
本来十二人であるはずの円卓の騎士の呪われた十三番目の騎士―それがシュヘンベルグ大公爵を名乗るもののもう一つの顔だ。
ナイトオブラウンズといえは、皇帝勅令の特別権限を持つ、ブリタニア騎士たちの頂点であり、自らの親衛隊を組織することができる。
様々な特権が絡むのがナイトオブサーティーンであるが基本的にはその本質は変わらないため、ここらの護衛を担当しているのは父の親衛隊であることをアスナは知っていた。
彼らはアスナに敬意を払っている。
それはいずれ、アスナがシュヘンベルグ大公爵家を継ぐと信じているからだろう。
十代に入るまでは―毎日のように剣が嫌いだ、と父に食い下がっては大喧嘩をしてシュヘンベルグ家の離宮から飛び出していた少女は、今となっては真面目に剣の稽古をする優秀な騎士見習いである。
今季末には士官学校を首席で卒業予定であった。
***
昔から、剣が嫌いでよく抜け出していたアスナだったが、それが以前よりも顕著になった頃に父と、ナイトオブワン、ビスマルク・ヴァルトシュタインに捕まえられたアスナはすべてを洗いざらい話すしかなかったのだ。
―稽古を抜け出して、第二皇子シュナイゼルと会っていると。
厳密には、その話をした時、アスナはシュナイゼル―シュナがあの第二皇子シュナイゼルだと思っていなかったのだ。
そう。
あまりにも無知であったかもしれないが、アスナは有名な第二皇子シュナイゼルの顔を知らなかったのである。
もちろん、噂ぐらいは聞いたことがあったが現物をちゃんと見たことがなかったので、あの時優しく声をかけてくれた少年がシュナイゼル殿下だと思えなかった。
父たちに説明するときも、アスナにとってシュナイゼルはただのシュナイゼル。
ビスマルクはまるでめまいがするような思いがして、剣の弟子であるアスナを叱咤したが、父は笑い転げて、涙すら浮かべていた。
アスナはいずれ皇族を守る剣になる予定の騎士であったし、当然知識として頭に入れておかなかればならない情報だったのだ。
「そうか、そういう運命か」
さんざん笑い転げて、腹を抱えていた父がうっすらと涙を浮かべてアスナの頭をなでた時、父はうっすらと悲しそうな顔をしていたような気がしたのをアスナはよく覚えていた。
なぜ、そんな顔をしているのかアスナにはよく理解できなかったのだが、それがわかると父とナイトオブワンはとても迅速な動きだった。
アスナとシュナイゼルは正式に、貴族と皇族として引き合わされたのだった。
―アスナは同い年で、同性のコーネリアの遊び相手ではなくシュナイゼルの遊び相手として抜擢されたのだ。
そして、いつの間にか、アスナはシュナイゼル第二皇子の婚約者となっていた。
それは様々な思惑の絡んだことであったが、アスナやシュナイゼル―少なからずこのときの彼―には関係のない話であり、ただあのときに出会った少年・少女とともにいられるという喜びのほうが勝っていたようにアスナには思えた。
子供ながらに、この人とおとなになっても一緒にいられるのだろうという漠然とした期待があった。
しかし、いくらアスナが皇帝の姪であっても、シュナイゼルの婚約者となったとしても、皇籍を持っているわけではないただの貴族の子供であるから、大公爵の娘であったとしても皇子には軽意を払わなくてはならない。
アスナにとって相手がただのシュナイゼルであったとしても、そうしなくては父の評判が落ちてしまうし、そもそもシュナイゼルに迷惑をかけることはアスナが一番良くわかっていた。
これが守れないなら、自分はあっさりとシュナイゼルの婚約者の地位を剥奪されてしまうだろうと、アスナはわかっていた。
皇族であるシュナイゼルには、アスナ以外の婚約者候補がいるのなんて、火を見るよりも明らかなことだったからだ。
でも、シュナイゼルはアスナが自身に対して、そういった態度をとることを喜べなかったようで、しかし、立場をしっかりと理解しているシュナイゼルはアスナに無理をさせない程度に―せめて二人きりのときはあのときと同じように、シュナと呼んでほしいと約束を取り付けた。
そうして、アスナとシュナイゼルの関係は十年続いている。
互いに二次性徴を終え、以前に比べずっとその性差は歴然としていた。
元々美しく中性的な顔立ちをしていたシュナイゼルはあっという間にアスナの身長を追い越してしまい、今ではアスナは見上げなくてはシュナイゼルの顔を見ることはできなくなったし、アスナは騎士として訓練をしていても女性らしい丸みのある身体になっていく―とは言っても、平均的な女性にしては、背丈はずいぶんとある方だとわかる。
アスナはシュナイゼルに手を差し出した。
本来なら、男性が女性をエスコートするのが儀礼であろうが、この二人では反対なのだ。
騎士であるほうがエスコートをするのが当たり前。
この十年の間にアスナは徹底的に騎士としての儀礼を学び、それを実行しようと心がけているのだが―シュナイゼルは笑顔でそれを制すると、まるで絵本の中にいるお姫様を愛する王子様のようにアスナに柔らかな笑みを浮かべて手を差し出した。
「さぁ、お手を」
「……うっ」
シュナイゼルの笑みは蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべている。
この歳の頃になると皇族には婚約者がいたとしても、貴族たちは隙を狙って、縁談を持ち込むが、そんなものがなくても、シュナイゼルは途方もなく女性人気が高かった。
パーティーへ出席すればあらゆる貴婦人や貴族の子女から視線を向けられ、その視線は熱を持っている。
(確かに……この美貌なら頷ける)
美しい金糸の髪が風に流れてサラサラと揺れているのが見えた。
その奥には美しいすみれ色―巷ではロイヤルパープルと呼ばれている皇族に現れやすい紫色の瞳をしている。
まるで高名な芸術家がその心血を注いで作り上げたかのような顔立ちに、均整の取れた体躯。
婚約者の贔屓目なしでも―シュナイゼルという人間はとても美しかった。
そんな彼を独占できるなんて、なんて贅沢者なのだろう。
本来ならエスコートをしなくてはならない立場だというのに、アスナは白い頬を薄っすらと赤く染めてシュナイゼルの手に―イブニンググローブで隠された手をそっと乗せるのだった。
優雅にシュナイゼルにエスコートされたアスナは薔薇のチャペルに囲われた美しい四阿の中へ入った。
誘われるままにベンチに腰掛けた。
四阿の中は空間が隔絶されたかのように静かであったし、軽やかな草花の匂いがとても心地よかった。
外から見れば、薄桃色と白色の薔薇が美しいチャペルであり、内側からは新緑の美しい自然の壁であった。
柔らかな緑の壁にそっと手を当てると、イブニンググローブ越しにわずかに突き刺さる感覚がした。―薔薇の棘だ。
アスナはそれを柔らかく、しかし少し悲しそうに見つめて、シュナイゼルへ視線を戻した。
「怪我をしてしまうよ、アスナ」
「大丈夫、私はグローブしてるもん」
アスナがからからと笑うとシュナイゼルは困ったように笑った。
四阿のベンチに対面に腰掛けている二人の間にはチェス盤だ。
こうやって二人は時間を過ごすのが好きだった。
今日はチェスをして遊ぶが、次はきっと互いに読書をしていて、その内容をディベートのように話すだろう。
次ぐらいは、もしかしたら薔薇園の散歩を二人でするかもしれないが、この薔薇園の外周の散歩は八年の間で飽きるほどしてきたので、もう探検のような新しい発見はないのだろうな、とアスナは思いながら座り直した。
シュナイゼルとチェスをするのはとても緊張するのだ。
元々、チェスは父に教わったアスナは、同年代はもちろん大人であれば父以外には中々負けることはなかった。
例外があるとすれば―マリアンヌ皇帝妃であったが彼女は戦略的にというよりも発想が自由な人間なので、アスナが勝つこともあれば、負けることもあるという感じである。
だが、シュナイゼルは違う。
戦略思考は圧倒的にシュナイゼルのほうが優れていたし、元々物事にこだわりが深いタイプではないので、フレキシブルな思考で、あらゆる局面にも対応されてしまう。
アスナは―いずれ、自分はシュナイゼルのもとで騎士となり、まだ開発段階だろうが今後戦力の中心となるだろう人型自在戦闘装甲騎、ナイトメアフレーム(KMF)に騎乗し、戦場を駆けることになると思っている。
―もちろん、結婚するまでという短い期間かもしれないが。
指揮官はシュナイゼルでなくてはならない。
しかし、シュナイゼルがいない状態でも自分が同様の軍隊運用ができることが最低限必要なのだと、今シュナイゼルにこうしてチェスで挑むのは彼の思考を理解するためだ。
―未来への勉強、と父やビスマルクには剣の稽古を抜け出す理由として持ち出している。
シュナイゼルが白い駒を優美な動きで持ち上げる。
こうして、シュナイゼルと向き合うのは実は久しぶりのことであった。
ボワルセル士官学校に通うアスナと帝立ノーザンブリア寄宿舎に通うシュナイゼルでは以前に比べて会える時間がぐっと減った。
それぞれが学校に通うまでは、家庭教師による教育がされていたためスケジュールさえうまく噛み合えば、毎日会うことだって決して難しいことではなかったので、いずれ騎士となり、軍隊の所属になるからとアスナは早くから経験を積みたくて、士官学校を選択した。
その結果を間違いだったとは思わないが、訓練だ、なんだと遠方への外出が増えてめっきりセントダーヴィン通りにあるシュヘンベルグ家の離宮であるライブラ宮に帰ってくることも難しくなった。
そのせいでシュナイゼルに会う機会も当然のように減っていた。
シュナイゼルはシュナイゼルで寄宿舎に通っている以上はちゃんと寮生活を送っているのだ。
皇族が多く通う寄宿舎であるから警備的な問題もまったくなく、パブリックスクールらしい伝統的な教育を受けているという話は聞いているし、先日寄宿舎の監督生に抜擢されたのだという話を―手紙で聞いた。
「監督生はどう? 大変?」
アスナは興味が勝ったのか、シュナイゼルへニコニコと笑いかけて聞いた。
シュナイゼルは少し苦笑しつつ、大変だよ、と答えながら駒を一つ進めていく。
「いろいろな人がいるから。でも、やはり学びも多いよ」
シュナイゼルの言葉は当たり障りのない言葉だったが、アスナはくすりと笑った。
「なにか、面白いものでもあったんだ」
「……どうして、君はわかるのかな」
シュナイゼルは少しだけ困ったように笑い、両手を組んだ。
「ロイド・アスプルンドは知っているかな」
「確か、伯爵家の? ―噂だと相当変わり者だと聞いたけれど」
「うん、変わり者だね」
シュナイゼルは笑ってそういい切った。
そんなシュナイゼルを見て、アスナは目を見開いて駒を動かす手を止めてしまった。
比較的忌憚なく物事を言うタイプではないというか、シュナイゼルは「求められている自分」をしっかりと理解していてそれを実行するタイプだ。
確かにアスナの前では十五歳の少年らしい姿も比較的よく見られているが、それでも学校の学友、もしくは先輩であろうその生徒を直接的に変わり者だと口にしたのは意外だった。
「アスナもきっと好みだと思うよ」
シュナイゼルがそういって柔らかく笑うので、アスナは駒を少しだけ弄んで会ってみたいな、とおもった。
「こう、少し頭の使い方が、集中しているときの君に似ている気がする」
「え、それってどういう……」
「―チェックメイト」
え、とアスナは動きを止めて、盤を見下ろす。
アスナが操っていた黒のキングは完全に追い詰められてしまっているではないか。
大した長時間話しをしていたわけではないというのに、あっという間のことで、アスナは目をパチクリとさせながらしばらく盤上を眺めて沈黙し、漸く動いたかと思えば、目を見開いた顔をシュナイゼルに向けて―向けたあと、頬を緩めて、破顔した。
「負けちゃった」
アスナはそう言っているものの、些かも悔しさのにじむことのない笑顔で、むしろシュナイゼルが勝っていることを喜んでいるようにすらシュナイゼルには見えた。
「すごいなぁ、シュナは」
「私は君のほうがすごいと思うよ。―いつもヒヤヒヤさせられるからね」
シュナイゼルは苦笑しながら、自分の、白のキングを弾いた。
もしかしたら、自分が負けていてもおかしくない勝負だったと純粋に思うのは相手がアスナだからだろうか、と思いながら青と緑色の瞳で盤上を眺めて、頭を捻っているアスナへ視線を送る。
赤い髪は幼い頃に比べ伸びて、今では背中ほどの長さとなっているのが見えた。
顔にかかる長い髪をアスナはそっと指ですくい上げると耳へかけた。
―たったそれだけのことだというのに、シュナイゼルはそこから視線が逸らせなくなった。
赤い髪から覗く、白い肌。
緩やかに優しい光を灯す青と緑の瞳が彩る顔はコーカソイド特有の顔立ちをしていながら、涼やかであり、着ている服装も相まって凛々しさを持った少女騎士の容貌を持っていた。
アスナと同じボワルセル士官学校に通うシュナイゼルの異母妹コーネリアも似たようなという雰囲気を持っていると人はいうが、シュナイゼルにはまったくの別物だと断言できた。
コーネリアも妹ながら確かに美しく凛々しい雰囲気を持っているが、アスナは凛々しさもありながら、シュナイゼルの前で見せるその年頃特有の未完成な少女の柔らかな笑顔はコーネリアのそれとは全く異なった。
元来の優しく鷹揚な性格がにじみ出ているかのようなアスナの行動の一つ一つはシュナイゼルの視線を捕らえて、離さなかった。
アスナ自身はシュナイゼルが美しい、と日々称賛したが、シュナイゼルからすればアスナのほうが美しいと思う。
この陰謀が渦巻いているブリタニア皇宮の中で―アスナが一番きれいだと、シュナイゼルは思う。
「シュナ?」
顔を上げたアスナが少し首を傾げてシュナイゼルを呼んだ。
「どうかした?」
「いいや。次はもしかしたら、私が負けるかもしれないと思っただけだよ」
シュナイゼルはそう言うと、紅茶のカップに手を伸ばした。
いつの間にか、四阿の中にはティーポッドのセットと、ハイティースタンドが置かれていた。
誰が持ってきたか、など二人の間では暗黙の了解でここに立ち入れるのは警備上の問題で、シュヘンベルグ家に関係する人間だけであるから、アスナ付きの執事であるガリオン・フォーレストが持ってきたことにほぼ間違いはなかった。
アスナも騎士となる以上、皇族に仕える身であるが実家に戻れば大公爵家のお嬢様であり、仕えられる側の人間であることには間違いない。
アスナが重用するガリオンという執事は非常に優秀であり、淹れる紅茶が一級品であるのはもちろんだが、彼が手作りするケーキなどの菓子類も非常に美味しい。
今日、ハイティースタンドに置かれているサーモンのマリネとサラダのサンドウィッチは食べやすいよう一口大に切られ、それぞれ紙ナプキンがつけられている。
そのまま食べられるようにと言う配慮だろう。
その次には定番のスコーンが置かれており、ハイティースタンドの付近にはクロテッドクリームといちごのジャム、マーマレードがそれぞれ置かれている。
さらにその上には、マカロンやケーキが繊細な芸術品のように並べられている。
シュナイゼルは相変わらず丁寧な仕事を好むものだ、と思いながら十五歳の食べ盛りであるという年齢も助けたことがあってか、下段のサンドウィッチに手を伸ばした。
チェスのあとはこうして、アスナとアフタヌーンティーを楽しむのも、こうして会ったときの楽しみなのだ。
決して二人の時間を邪魔しない姿勢を取るシュヘンベルグ家の使用人たちをシュナイゼルは気に入っていた。
エル家由来の―すなわち、シュナイゼルの母の息がかかった者たちがくればこうは行かないのだ。
彼らは皆一様に、シュヘンベルグ家を毛嫌いしており、シュナイゼルの母であるエレオノール・エル・ブリタニアのアスナへの冷遇具合と言ったら―息子であるシュナイゼルがアスナとこうして逢瀬することが徹底して気に入らないらしい、今日も出かけようとしたところで母に呼び止められ、どうやって引き留めようかと思案する母の思考が手に取るようにわかって、嫌気が差した。
アスナは皇帝も認めているれっきとしたシュナイゼルの婚約者であるのにもかかわらず、シュナイゼルの母やその周りの貴族たちはアスナを排斥しようと必死だ。
エレオノールはアスナに対して露骨な態度しか取らないからアスナも十分に嫌われていることがわかっているのだろう、エレオノールとの接触はできるだけ控えているアスナだが、先日どうしてもシュナイゼルとエレオノールが住まう離宮へ足を運んでシュナイゼルと今後の軍略について話し合いをしていたときの冷たい目を見れば、どれだけ鈍くても否応無しに嫌われているのがわかってしまう。
アスナがなにかしただろうか、とシュナイゼルは考えてしまうほどだ。
だが、シュヘンベルグ家の使用人たちはそういうこともなく、しかし、皇族であるシュナイゼルに配慮しているというわけではなく、主人が慕う婚約者と会うことを邪魔しない姿勢でいてくれるから気も楽なのだ。
アスナも―アスナの声がかかっている使用人たちも、ここに現れてアスナとお茶をしているただの友人のシュナイゼルとして大事にしてくれている。
「ん、今日のケーキも美味しい」
フォークでケーキを刺したアスナが嬉しそうに笑っている。
本来なら、アスナとはこうやって人目をはばかるような相方をしなくても良いはずなのに。
婚約者だと皆が知っていることなのだから、もっと公に合わせてもらいたいものだ、とシュナイゼルは少しだけ苦笑する。
もしかしたら、学生が終わったら―アスナは今季に士官学校を卒業してブリタニア軍の所属となり、来年の暮れ頃には初陣へと駆り出されるはずだ。
そうなれば、アスナとはこんな風にお茶などできないかもしれない―とシュナイゼルは考えた。
意外と真面目なところのあるアスナだ、正式にブリタニア軍の地位が与えられれば当然のようにその立場を優先して、これまで以上にアスナに対して礼節を払うだろう。
そう考えると少しだけ寂しくて―シュナイゼルはそれを振り払うように、ケーキを食べているアスナの頬に手を伸ばした。
「……シュナ?」
突然、手を伸ばされたことにアスナは驚いたのか、目を見開いた。
コロコロ表情が変わっていく彼女は見ていて飽きない。
シュナイゼルの指が口の端についていたクリームを拭い取って、それを口元に運ぶまでを眺めて、漸く気づいたのか、アスナは真っ白な頬を耳まで赤くした。
「あ、え、つ、ついてた{emj_ip_0793}」
「慌てて食べなくても、私は取らないよ」
「そ、そんなんじゃなくてっ。言ってくれれば、自分で取るよ!」
アスナは他についていないか確認するように自分の指で口の周りをなぞって確認している。
とりあえずはシュナイゼルが拭い取ったのでもうそこには何も残っていないのだが、念のために確認しておきたかったのだろう。
シュナイゼルはくすくすと笑ってその様子を眺めている。
「もうないよ、大丈夫」
シュナイゼルがそう言うと、アスナは赤い顔のまま、シュナイゼルをにらみつけるようにしてしばらく押し黙っていたが、徐々に頬を膨らませてシュナイゼルに不満を訴えた。
「いいじゃないか、そういう君も可愛らしいよ」
「で、でも。私はこれから騎士になるのだから、それ相応に凛々しくしろって……」
「ヴァルトシュタイン卿がそういったのかい?」
アスナは弱々しく頷いた。
アスナにとって、ナイトオブワン―ビスマルクは剣の師匠であり、騎士として最も尊敬している男だ。
ちなみに、アスナに対して父親であるクロスは尊敬していないのかという問答はしてはいけないことをシュナイゼルはよく知っている。
伯父である現シュヘンベルグ大公爵は人間としては最も尊敬してはならない男だと言うのが内外からの評価であり、娘のアスナもそれと変わらない評価を父に抱いていた。
傍若無人が服を着て歩いているようなエゴと自己中心的思考で出来上がっている男に比べれば、ビスマルクなど天上のような騎士であることに違いない。
そんなビスマルクの言葉を実行しようと心がけているのだろうが―シュナイゼルは無理だろうな、と表情を緩めた。
こういう迂闊なところがあるのが、アスナの可愛らしいところなのだから、ぜひそのままでいてほしいとすら願うのだが。
「気にしなくてもいいじゃないか。私の前での君は騎士ではなく、愛らしい私の婚約者だよ」
世の女性ならば一発で落ちたのだろう、とろけるような笑みを浮かべられてさすがのアスナも照れたのか、更に顔を赤くして、恥じらうようにして顔を背けてしまった。
(ああ……少しだけからかいが過ぎたかな)
騎士服のように動きやすい服装を好んできているアスナは恥じらって膝の上で手を組んでいる。
シュナイゼルはゆっくりと立ち上がってアスナの隣に腰掛けると、そっとその手に自分の手を重ねた。
びくりと、アスナの肩が震えた。
十五歳にもなれば、互いへの抱く感情がどういったものなのか、互いに老獪しているところがあるのでわかっているつもりだった。
心臓が高鳴るのも、相手と一緒にいて幸福になれるのもすべて―そういうことなのだ。
互いに明確に思いを口にしたことはなかったが、どことなく察していた。
明言することを避けているようなところもあったが、それは今のままではお互いが一緒にいられないことを十分理解していたからだが―シュナイゼルはそっとアスナの指を握り込むように力を入れる。
「……しゅ、シュナ」
「顔を上げて?」
シュナイゼルはそっとアスナを促した。
緊張しているのか、握っているアスナの手は少しだけ震えていて、その緊張がシュナイゼルにも伝わってきたのか、いつもよりもずっと心拍数が上がっているような気がした。
アスナは今にも心臓が破裂してしまうのではないかと思うほどだ。
あと数分でも、このままでいたらきっと心臓が爆発してしまうのだ―と思った。
緊張で指先どころか、唇まで震えるような気分で、アスナはそっと顔を上げた。
美しいブロンドが造形の整った顔を彩っており、それが眼前にあると思ったら―更に心臓がうるさく跳ね上がった。
(静まれ、静まれ)
何度も繰り返すがそんなことに効果などなく、ただただうるさい心臓の音が続いているだけ。
口の中が乾くほど緊張している気がして、アスナは呼吸すら一瞬忘れそうになってしまう。
「アスナ」
柔らかく、とても愛おしく名前を呼んでしまわれると、錯覚してしまいそうになる。
―シュナイゼルも、同じ気持ちを抱いてくれている、と。
親が決めた婚約者だから、一緒にいるのではなくて―自分の意志で自分を選んでくれたのだと。
ゆっくりと、顔が近づいてきてアスナはとっさに目を瞑ってしまった。
固く、結ばれてしまったまぶたの奥に引っ込む青と緑が見られなくなって残念だと思うのと同時に、シュナイゼルはこのままキスができそうな状態に、自分自身で待ったをかけた。
このまま、彼女にキスをしてしまうことは簡単なことだったがそれはどうしても憚られてしまう。
思いを伝えてもいないことを思い出す。
おそらくは、互いが互いを深く思い合っていることは事実であったが、そのベクトルが一緒だとはどうしてもシュナイゼルには思えなかったのだ。
アスナから向けられるシュナイゼルへの思いはどうしても「親愛」を強く含んでいて、純粋で、汚れのない、触れがたい尊い思い。
それを、今、自分の手で、汚して構わないのだろうか、シュナイゼルも少しだけ悩んで、キスはした。
―唇ではなく、額に。
「え……?」
少しだけ落胆したような、安堵したような声がアスナからこぼれ落ちてきて、シュナイゼルは少しだけ照れを滲ませたような笑みでアスナを見ていた。
「紅茶が冷めてしまうね」
シュナイゼルはそう言ってアスナから離れてしまう。
優しくアスナの手を握っていたシュナイゼルの手が離れてしまうと、アスナはたまらなく寂しく感じてしまい、握ってくれていた手を包むようにもう片方の手を重ね直した。
少しだけ顔を上げてシュナイゼルの背中を追ってみれば、少しだけ彼の耳元が紅いような気がして―多分、自分が抱いた幻想が見せた錯覚だろうが、少しだけ嬉しくなって微笑んだ。
「そういえば」
その後、しばらく二人の間にできた、心地よくも、いたたまれない沈黙の後に、シュナイゼルは漸く口を開いて続けた。
「もうすぐで、君の誕生日だね、アスナ」
シュナイゼルの言葉に黙々とケーキを食べていたアスナは顔を上げた。
六月も中旬、アスナの誕生日まで残り二週間ほどとなっていたのは互いに承知していたし、アスナの誕生日を祝う誕生日パーティーは毎年ブリタニア宮で盛大に皇帝も臨席して盛大に行われるためサプライズパーティーもないので、シュナイゼルは口にすることを憚らなかった。
むしろ、シュナイゼルの誕生日のときにはアスナは毎年、数週間前からわかりやすいほどそわそわとしていて、近づく都度、「今年はすごいプレゼントよ」と教えてくれるくらいだ。
「……パーティーいやだななぁ」
おや、とシュナイゼルは目を見開いた。
「去年はケーキが楽しみだ、と言っていたじゃないか」
今年もケーキが大好きな可愛らしいシュヘンベルグ大公爵家のお姫様に、ブリタニア宮のシェフたちは色とりどりなケーキを作ってくれるというのに、彼女が少しばかり落胆したように肩を落としたのはシュナイゼルにとっては意外だった。
「だって、パーティーにはお客様がたくさん来るもん」
なるほど、とシュナイゼルはついつぶやいてしまった。
貴族であれ、皇族であれ、十五歳ほどとなれば当然結婚適齢期となるし、いずれ、皇族に嫁ぐことが決まっているアスナとある程度交流をもっておきたいと思う人間が多いのは仕方がないことだった。
「ラーズが変わってくれればいいのに」
アスナは少しばかり陰鬱そうに、双子の弟の名前を口にした。
ブリタニアの貴族の間では双子は忌み嫌われる傾向にあるのだが、元々不吉の象徴と言われる十三番目の騎士の座につくだけはあって、シュヘンベルグ家は代々双子を容認してきた。
ラーズというのはアスナと双子の、よく似た赤い髪を持ち、同じ瞳を持つよく似た弟だった。
シュナイゼルはアスナとばかり関わりを持つことが多く、アスナとは接点を持っていたが、シュナイゼルはあまり深くラーズと関わったことはなかった。
しかし、姉に明確な恋心を持っているだろう自分を彼が毛嫌いしていることは嫌でも気づけることだった。
まあ、所謂シスコン―シスターコンプレックスというやつであったのだ、ラーズは。
アスナもブラコン傾向にあるが、それでもラーズほどということでもなく、一定程度弟たちに愛情を注いでいるし、姉弟の間の関係性は決して悪くない。
「私とラーズ、あまり変わらないと思うんだけどなぁ」
アスナはそうつぶやきながら、紅茶を口に運ぶ。
たしかに彼女の言うとおりだろう、とシュナイゼルも思うのだが、同じ双子でもアスナとラーズの間には埋めがたい何かが存在しているような気がしてならなかった。
それは性別の差などというチープなものなどではなく、もっと深いなにか。
―言うなれば、カリスマ性の問題だ。
大公爵ともなれば、その傘下は多岐にわたり、同時に与えられるナイトオブサーティーンの称号に伴う軍としての大将レベルの扱い……そのときにどれだけ人心を掌握できるかという面で、ラーズも決して劣っているわけではないが。
シュナイゼルは目の前で少しだけむくれているこの少女が騎士として優れていることを知っている。
アスナとラーズの通うポワルセル士官学校は帝国の中でも随分な名門校であるが、そこで主席であり続けるということがどれほど難しいことか。
そういえば、先日久しぶりに顔を見たコーネリアが悔しがっていたことを思い出して、シュナイゼルは笑った。
「む……何がおかしいの」
「ああ、すまない。そういう、愛らしい君だからこそ、多くの男性が惹かれるのだろうね?」
シュナイゼルに手放しに褒められて、アスナは肩を跳ね上げて再び顔を赤くした。
「も、もうっ、シュナはそうやってすぐ私をからかうんだから!」
「からかいではないよ? 心からそう思っているんだよ」
クスクスと笑いながらシュナイゼルはアスナを見る。
(……本当だよ、アスナ)
薄く開かれたすみれ色の瞳には、男が宿す熱を込めている。
だが、それは一瞬のことで再びいつもどおりのシュナイゼルの、柔らかな笑みに戻ったので、恐らくアスナは気づかなかったはずだ。
そして、自分の心に現れるそれにシュナイゼルは少しだけ驚き、少しだけ首を振った。
(……私にも、こんな感情があったのだな)
同級生―忌憚なく物事を言ってくれる間柄となった一人の友人がシュナイゼルに向けて「貴方には人の心がない」と言われたことがある。
それは同時に感情がないと言われたも同然であったが、シュナイゼルはそれでいいと思っていた。
シュナイゼルの周りの大人達は、シュナイゼルのその才能に高い期待を寄せていた。
すでに政治面で言うならば、学業を終えている第一皇子オデュッセウスよりも遥かに上回っており、十五歳ながら宰相府に出入りしている。
軍略面でもずば抜けた才覚を発揮して、その頭脳はすでにブリタニアの至宝だと称するものが多い。
それは失うことに頓着しないフレキシブルな思考によって齎されるものであるし、現実シュナイゼルはこれまで一度も負けることなく、あらゆる情報線を制して、このブリタニア皇宮の中で確固たる地位を築き上げてきた。
これらのことを成すのに、自分自身が必要だと、シュナイゼルは全く思わなかったのだ。
シュナイゼルにとって世界とは求めるものではなく、徹底して求められるものだった。
第二皇子として完璧であれ、と言い続ける大人たちに求められるがままに、答え続けてきた。
―だが、アスナだけは。
目の前で笑ってくれるアスナだけは、第二皇子としての自分を何も求めなかった。
ただ一人のシュナイゼルとしての自分を大事にしてくれた。
そんな人をどうして大切にしないだろうか。
「大丈夫だよ、アスナ。―きっと」
私が、君を守ってあげるよ。
シュナイゼルはニコリと笑ってそういった。
そして手を伸ばして、アスナの頬をそっとなでた。
ゆっくりと伝うようにそっと黒いグローブに包まれている手に指を這わせて、そっと指を絡めるようにして握り込んだ。
アスナは顔を赤くしながらも、シュナイゼルの優しい言葉に安心したのかむくれた顔から柔らかく笑ってみせた。
***
しばらく、アスナと話し込んでいたせいでシュナイゼルが自身の母と暮らす離宮に帰ってきたのは夕暮れを過ぎており、離宮の使用人たちが四阿に迎えに来てからのことだった。
シュナイゼルに近い使用人たちはアスナとの仲にはあまり否定的ではないのが、しかし離宮の主人であるエレオノールの命令には逆らえないのか、どうか、どうかお帰りを、と嘆願されてしまえばシュナイゼルもそれに逆らう気にはなれなかった。
ここでは自分の言葉一つで誰かの首が跳ねられることは決して珍しいことではないから。
それはアスナも存分にわかっている。
後ろ髪を引かれる思いがしながらも、シュナイゼルはアスナの頬に別れのキスを落として四阿から先に出ていった。
柔らかな笑顔で手を振ってくれているアスナの元に、今すぐにでも戻りたいと思ったのは夕食の場にいるエレオノールの表情があまりにも優れないものだったからだろう。
明確に不機嫌を滲ませた母を相手にしてもシュナイゼルはいつもの息子の姿を演じてみせた。
もう、仮面を外すことができるのはアスナの前だけだった。
アスナの前でだけは、ただのシュナイゼルとしても咎めない、むしろ優しく受け入れてくれて愛してくれる。
相変わらず、アスナへの嫌味を絶やすことのない母の話はシュナイゼルの耳に入ってはいても、脳へ到達することはなかったので、直ぐに忘れ去られてしまうことだろう。
ノーザンブリア寄宿舎は、長い歴史を持つ帝立のパブリックスクールである。
貴族を中心に、あらゆる上等教育を必要とするいずれこのブリタニア帝国を率いていくだろう人材の育成を目的とした全寮制の学校である。
十三歳から十八歳までの貴族や資産家の子女、または国が推奨している「奨学助成プログラム」を使い、ノーザンブリアが寮と自由学習機会を貧しい子供に提供する制度で入学してくる。
長い歴史の間で、多くの皇族がこのノーザンブリア寄宿舎か、同じく帝立校であるコルチェスター学院に分かれて入学することになる。
シュナイゼルはノーザンブリア寄宿舎に通いだしたのは母、エレオノールの言葉が強く働いているのも大きな理由であるが、ノーザンブリア寄宿舎に入れば当然のように、離宮から離れられた上で、勉強に集中できる。
勉学を理由に母が持ってくるお見合いを拒否できる。
それに、ノーザンブリアでは政治面を多く学べると判断してこちらを選んだ。
(一つ、誤算だったのはアスナが士官学校を選んだことだったかな)
シュナイゼルは寮でシャツに袖を通しながら、ふと微笑んだ。
シュナイゼルはてっきりアスナがついてきてくれるものだと思っていたのだ。
だが、アスナはボワルセル士官学校へ進む道を選択した。
それはいずれ、自分がシュナイゼルの配下となり、そのときに軍人として役に立たなければ意味がないという彼女なりの配慮であることもシュナイゼルには理解できる。
政治面、軍略面でシュナイゼルが優れているのなら、アスナが補うべきは戦力だろうし―アスナはそういう意味ですでにシュナイゼルの信頼を勝ち得ている。
アスナは戦闘面に於いて類まれなる才能を持っている。
家柄などなくても、ナイトオブラウンズに入ることが可能だろうとシュナイゼルが思うくらいには。
シュナイゼルはタイを締めて、鏡の前で些かも不具合がないかしっかりと確認する。
―このノーザンブリア寄宿舎で求められているのは、誰にでも優しく、完璧で優秀なシュナイゼル第二皇子だ。
(アスナに会いたくなったなぁ)
つい先の休日に会ったばかりだというのに、と笑ってアスナからお守りにと渡されたシルバーのブレスレッドにそっとキスを落とした。
「いってくるよ、アスナ」
ベッドに鎮座しているのは、完璧主義のシュナイゼルとしては些か違和感を覚える―黒い服を来た赤毛のテディベアだった。
アスナが初めてシュナイゼルにくれた贈り物だった。
「おはようございます、シュナイゼル殿下」
「おはよう、カノン。いい朝だね」
カノン・マルディーニはアスナに比べれば淡い色であるが赤髪だな、とシュナイゼルは忌憚なく発言してくれる友人となった彼に対して淡く微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「いや……婚約者を思い出してしまってね。この間の休日に離宮に帰ったときに会ったのだけれど」
「ああ……ポワルセル士官学校に通っているという」
シュナイゼルの話に出てくる唯一の他人だ。
おそらくはカノンよりもずっと心をひらいているであろうシュナイゼルの話に出てくる心優しい女性騎士。
すでにシュナイゼルは国内向けのものばかりであるが公務に出ている。
その公務への同行が認められている紅い長い髪の少女騎士はすでにブリタニア国内でも知られており、シュナイゼルの専任騎士候補として他の騎士候補たちを圧倒的に上回っているという話だ。
凛々しく釣り上がる青と緑色の瞳はテレビで見ている限り、シュナイゼルが言うような優しい雰囲気は感じられないのだが、シュナイゼルは「あれは、相当頑張って作ってるんだよ」と笑う。
おそらくは、シュナイゼルにしか見せない、シュナイゼルの言うような少女らしい姿があるのだろう、とカノンは想像する。
とはいっても、カノンが知るアスナという少女騎士はテレビの中の、美しい白い皇子を守る凛々しい黒い騎士としての姿がほとんどであったので、可愛らしいところなど微塵も想像がつかなかった。
シュナイゼルは少しだけ首を傾げているカノンに笑う。
「確かに最近は、騎士らしいのが板についてきたように思うよ。さすがはヴァルトシュタイン卿が指導しているだけはある」
ヴァルトシュタイン卿といえば、ビスマルク・ヴァルトシュタイン―帝国最強の騎士である、ナイトオブワンである。
彼から直接剣の指導や騎士としての作法を習っているのなら、それは上辺だけとは言わず中身も立派な騎士になっていてもおかしくはないだろう、とシュナイゼルは考えて、少しだけ考えを払拭した。
(どうしても、騎士になりきれないところがあるからね)
良く言えば優しい。
悪く言えば甘い。
アスナはあの年で、すでにブリタニア正規軍の軍人たちが束になってかかってきたとしても相手にならない。
それこそラウンズクラス―先日は、ナイトオブツーであるミケーレ・マンフレディがアスナの相手をしていたがそれでもアスナは苦戦していたとはいい難い。
マンフレディ卿は稽古が終わったあと、殿下は良い騎士をお持ちになられましたな、と快活に笑って声をかけてきたくらいである。
だが―アスナは人を殺したことがなかった。
シミュレーターの結果はナイトオブシックスであった現皇帝妃マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアと同等の結果を叩き出しており、実力もあるだろうとシュナイゼルは贔屓目なしで頷くことができる。
その一つ。
たった一つ、命を奪ったことがあるか、ないかの差は歴然としており、マンフィレディ卿はアスナと対等に戦ってみせたが、しかし、そこには確かに壁があった。
アスナの剣は捕縛を前提としたもの、アスナは誰かを傷つけることを嫌っている―その事実を、ヴァルトシュタイン卿は快く思っていないのだ。
いずれ、大公爵位を継ぎ、ナイトオブサーティーンになった時に―いや、自分のところへ嫁ぐアスナにその可能性が低いとして、騎士となり、戦場に出たとき、その甘さはアスナを追い込むことになるだろう。
そう考えているのかもしれない。
シュナイゼルは彼らの言い分も考えも理解できるが、アスナに甘さを棄てて、戦いに心血を注ぐような人間になって欲しいかといえば答えはNoだった。
確かにアスナは甘いかもしれないが―それがアスナらしさというか、いいところだ。
抜けているところもあるし、甘いところもある。
しかし、それは、自分が戦略でカバーすることができるところだろうとシュナイゼルは考えていた。
と言っても、それを口にすることはしない。
遠くない未来に自分も従軍経験―指揮経験をつまされることになるだろうが、そこにアスナの随伴は決定事項だ。
そもそも、そのためにポワルセル士官学校に通っていて、アスナはすでに後方部隊とはいえ従軍の経験すらあるのだから―いざとなれば、アスナは剣を持って戦うことのできる人間だとシュナイゼルは信じている。
(できるなら、彼女が戦わないほうが好ましいのだろうけれど)
シュナイゼルはふと、表情を緩めて、あの薔薇園で出会う赤い髪がなびく姿を思い浮かべた。
遠く空を見つめることが増えたのは―恐らく、少しだけ彼女が大人になろうとしているのだと思うと寂しく感じられた。
「そういえば、今度、その少女騎士の誕生日パーティーが盛大に開かれるのですね」
カノンの声が耳に入ってきて、ああ、とシュナイゼルは頷いた。
「毎年、伯父上が盛大に開くからね。父上も臨席されるようだよ」
シュナイゼルはなんてことのないようにいうが、カノンからしてみれば驚き以外の何でも無い。
皇帝陛下が公の場に降りてくることなど殆どないというのに、いくら姪・甥の誕生日会とは言えど、国内のものしか招かないパーティーに臨席されるなど畏れ多いことである。
カノンはいくら貴族とはいえど、ノーザンブリアでシュナイゼルと接点を持たなければ、皇族と関わりができるなんて考えたこともなかったくらいなのだから、皇帝陛下など正しく天上のお人になるのだろう。
「アスナ殿は大切にされているのですね」
「どうだろう」
カノンの言葉を意外とあっさりシュナイゼルは返した。
「父上はアスナを大切にしているとは思えないな。……ただ、体のいい道具ではあるだろうけれど」
シュナイゼルはふと目を細めた。
アスナが皇帝に謁見している姿は何度も見たことがあるし、その都度、アスナへ用向きを伝える姿を見ている。
そもそも、自分の息子や娘たちにすら大した興味のない父親だ、姪であるアスナに対して態度は一貫しているようにシュナイゼルには見える。
「まあ、それはいいんだ。プレゼントはどうしようかな」
「殿下から贈られるのですか?」
「もちろん。私の誕生日には万年筆を贈られてね。使い勝手が良くて、愛用しているんだ」
シュナイゼルが朗らかにそう話すのを聞きながら、ああ、そういえばとシュナイゼルが日々使っている有名ブランドの万年筆のことを思い出した。
確かにものに頓着しないタイプであるシュナイゼルにしてはずっと使っているので気になっていたがこれで納得がいった。
大切にしているのにはそれ相応の理由があったのだな、とカノンは少しだけ表情を緩めた。
「あまり彼女も物欲があるタイプではなくてね。何を贈っても喜んでくれるんだが―ああ、こういうのは弟のクロヴィスの方が思いつくんだ。去年もクロヴィスが用意したプレゼントをとても喜んでいてね」
シュナイゼルは口元に指を当てながらうん、うんと頷いている。
クロヴィスというのは、シュナイゼルにとっては最も年の近い弟に当たる第三皇子殿下である。
彼は学業面でももちろん優秀ではあったが、だからといってシュナイゼルほどであるかと言われればそうではない。
容姿もそれなりに整っているし、穏やかな人柄があるのだろう万人受けしそうではあるし、どうやら芸術面に興味があるようですでにいくつもの絵画コンクールで賞をもらっているようであった。
そういう人間性もあるのだろう、クロヴィスが去年アスナに贈った美しい装飾の施されたとある国の伝統工芸なのだというガラス細工にとても喜んでいた。
負けた、とはシュナイゼルは考えていなかった。
最終的に、誰からのプレゼントを一番喜んでいたかといえば、やはりシュナイゼルから贈られたものだったのだから。
弟がアスナと仲良くしていることをあまり快く思っていないのでは、と聞かれることが多いが、シュナイゼルはあまり気にしていなかった。
そもそも、アスナは剣がなければ芸術方面にとても興味があるタイプで、暇を見てはピアノを弾いたり、絵を描いてみたり、時間があれば美術館やオペラの鑑賞などにも出向いていくのだ。
そういう意味で、クロヴィスとアスナの相性はいいのだろうし、クロヴィスもそういうアスナを慕って「姉上」と呼んでいた。
クロヴィスはもちろんだったが、アスナはマリアンヌ皇帝妃の寵児、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとも十分に親密であったし、彼はシュナイゼルやアスナと同じく頭がきれるタイプだったので、アスナは彼にチェスを教えているのだという。
「いつ追い抜かされるかわからないから、楽しみだ」と笑うのはいつもアスナだった。
「意外と大変なんだよ、弟たちと被らないようにプレゼントを選ぶのは」
「ああ……なるほど」
弟たちもクロヴィスやルルーシュのみならず、上を言えば、兄で第一皇子のオデュッセウスや、第一皇女ギネヴィアのプレゼントのこともある。
すでに学業を終えている彼らは、今年から軍に入るであろうアスナへ祝いを兼ねて盛大にプレゼントを贈るつもりだ、とオデュッセウスが話していたのをシュナイゼルは思い出した。
―さて、どうしたものかな。
あとでいろいろとカタログでも眺めてみようかな、とシュナイゼルが言えば、それがよろしいでしょうね、とカノンが返事をする。
カノンはアスナのことをよく知らないので、どんなプレゼントが喜ばれるのかあまり見当がつかないところだったし、そもそもシュナイゼルはプレゼントを本当はもう決めているのではないかと思ったのだ。
「ああ、そうだ」
なにか考えていたはずのシュナイゼルは顔を上げて、カノンに向かって手紙を差し出した。
黒い封筒に―紅い蝋封。
「これは?」
「シュヘンベルグ大公爵の一人娘―アスナからだよ。私が君の話をしたら是非、君に会ってみたいと言い出してね」
でも、接点がないから招待状を渡しておいてくれ、と頼まれたんだ、とシュナイゼルは笑う。
カノンはそれを受け取って、ついシュナイゼルの顔と見比べてしまったがどうやら本物らしく、当日皇宮に入り、パーティーに参加するためには必要なのだと説明された。
「まあ、気を楽にしていて大丈夫だと思うよ」
アスナはいい子だから、とシュナイゼルが言うとそれ以降、その話は持ち出されず、カノンはこの話はすでに打ち切られたのだと理解した。
二人の間で、この話が終わったものだと判断されると話題は速やかに切り替わる。
途端に学校でのことや、寮のこと、学校でのクラブ活動のこと。
さらに話題が広くなってくると昨今の国際情勢や、政治情勢など―到底学生がするにはレベルが高い会話であっただろうが、このノーザンブリア寄宿舎では決して珍しい光景ではなかった。
***
ブリタニアの多くの学校では、フェンシングという競技が盛んに行われている。
元々、騎士たちが持って戦っていた伝統ある武器が剣であったことに起因するのだろう。
今でも多くの騎士たちは剣を持ち、戦う。
故にその実戦感覚を養うための一環として騎士になる子女・子息たちの間ではフェンシングの嗜みは必須教養とされていた。
―もちろん、アスナも幼い頃からフェンシングをやってきた。
競技フェンシング専用の武器、エペが相手の有効面にしっかりと決まると剣先に入っている通電システムが起動し、電気審判機のライトが一つ点灯し、審判が旗を上げた。
互いに敬礼が済むと、ピストと呼ばれるフェンシング専用のフィールドから選手二人が出ていき、試合は終了した。
選手たちが互いの健闘を称えるため、ピストの外で握手を交わすために向かい合う。
そのために、片方の選手がマスクを外すと赤い髪が重力に逆らわずこぼれ落ちる。
数度首を振ってその髪をならすと、赤い髪の少女騎士―アスナは柔らかく微笑んで相手へ手を差し出した。
「やはり、お前には勝てんな」
そう言って困ったように笑ったのは第二皇女―コーナリア・リ・ブリタニアである。
皇女ではあるが、士官学校に通うといい出したときはどうなることやら、とアスナも年頃の近い従姉妹のことを心配していたのだが彼女は決して音を上げることなく、この士官学校で二位の成績を収めていた。
二人共、フェンシングクラブの花形であり、二人の対決の際には学年、男女問わず多くの生徒がクラブスタジアムに集まるため、観客席は常に満員状態なのだ。
コーネリアも頭を振って、髪の毛を落ち着かせると固く握手した手をそっと話し、ため息をつく。
少年のような凛々しさを持つ彼女の美しさに、会場中の乙女たちがほうと息をついたが、それは本人たちまでは届かない。
「今日はいいところまで行ったと思ったが」
「コーネリアはわかりやすいし、熱くなると冷静さを失うからね。もう少し、落ち着いて戦況を見ないとね」
「……兄上にと同じことを口にするんだな?」
コーネリアは肩をすくめる。
「仕方ないなぁ、一番過ごす時間が長かったのはシュナ……イゼル殿下だから」
流石に人前で、シュナイゼル第二皇子をあだ名呼びすることは憚られたのだろう、アスナは多少の違和感はあるものの、どうにかこじつけるかのように殿下の敬称をつけた。
―しかし、コーネリアに対してはまったく殿下をつけようとする気配がないのに対して誰も茶々をいれないのは、二人が従姉妹であり、親友であり、戦友として学校全体に認識されているからなのだろう。
二人は次の試合が控えていたこともあってか、クラブスタジアムの試合ブースから離れ、スタジアム内の更衣室へ向かって歩き出していた。
「兄上と先日お会いしたのだろう?」
「うん。元気そうで良かったし、今度、シュナも従軍があるみたい」
「ああ……軍部の方から相当無理難題を引っ掛けられたらしいな」
E.U.の攻略戦にシュナイゼルの軍略をお借りしたい、とユーロ・ブリタニアの白ロシア前線基地から要請があったらしいという噂はコーネリアも聞いていた。
かねてより侵略に時間がかかっていたところで、中華連邦の国境線も近いその前線基地での、陣頭指揮に当たれと皇帝から直接命令が下るのはそう遠くない話なのだろう。
「お前も同行するのか?」
「許されれば。試作機のKMFの騎乗許可も必要だろうし」
「……あれはまだ実戦配備されないのではなかったか?」
KMFは第三世代型ガニメデの演舞が執り行われたばかりであり、それに騎乗したのは元ナイトオブシックス―皇帝妃マリアンヌであったことは世を騒がせた。
閃光のマリアンヌと呼ばれた彼女の演舞は、それはもう素晴らしいもので、コーネリアは正しく彼女に憧れを抱いて騎士になる道を選んだのだ。
そんな、KMFが実戦配備されるなんて話はまだまだ耳にも入っていないことだったので、コーネリアとすれば寝耳に水だ。
「いや、ガニメデじゃなくて……もう一方で開発してる方。脱出ブロックのついた―グラスゴーだったかな。そっちの方を父上が支援しているみたいで。ちょうどいいから、軽くデータとってこいってこの間……」
なるほど、とコーネリアは納得すると同時に、苦笑した。
アスナと同じ赤い髪を長く伸ばしている目鼻立ちの通った麗人と呼んで差し支えのない伯父を思い出したのだ。
いくら士官学校に通っているとはいえ、いずれ皇族に嫁ぐ立場の娘に好き好んでKMFに乗せてデータ取りをしようとするなんて、彼以外コーネリアには思いつかなかった。
「伯父上も相変わらずだな」
アスナは良く、傍若無人が服を着て歩いているような存在だと口にするが、確かに元皇位継承権が上位だっただけはあるなという言動を常々される方なのだ。
しかし、コーネリアからすると実の父親よりも、伯父の方が密接に関わってくれた大人であったし、ボワルセル士官学校への入学を母の実家に猛反対されたときには、後見人になり、寮に入る手はずまですべて整え、実の娘、息子とともに送り出してくれたのは伯父、クロスであった。
「今度、コーネリアの近況も聞きたいから離宮においでってさ」
アスナがコーネリアの考えを察したように笑いかけた。
それぞれの皇子、皇女を支援している貴族は多数いるし、コーネリアの母の実家は大貴族だったということもあってか支援者たちは多かったが、誰一人としてコーネリアの士官学校入学は認めてくれなかった。
入学前は母の親類たちが毎日一人ずつ、コーネリアの説得にくる始末。
しかし、それでもコーネリアが折れるつもりがないことを知ると、全員が匙を投げた。
どうせ、どこぞで諦めるとでも思われているのだろう。
だが、アスナの父は違った。
アスナの実家、シュヘンベルグ家は皇族近縁の家であったためか、どの皇子や皇女の実家にも分け隔てなく支援や協力を惜しまない特徴があったので(そもそも、シュヘンベルグ家は皇帝の騎士の家系であるのでどこを支援しても文句が出にくいのだった)コーネリアの後見人になる際にも伯父はあっさりとしていたし、反対されることがわかっていたようで伯父はコーネリアのもとに話を持ってきたときには大半の準備を終わらせていて、アスナたちとともに受験を受けさせてくれたのだ。
「ああ、是非。伯父上には感謝してもしきれないからな」
「そう思うなら、卒業後はブリタニア軍で戦場の花になって、その姿を見せてくれ、って言ってた」
アスナはからからと笑う。
「お前は、ブリタニア軍には入らないのか?」
「一応入る予定だけど……多分、第二皇子の親衛隊に行くための実務経験でしかないよ。最低限五年は軍で勉強しないといけないみたいだから」
アスナはそう苦笑する。
「シュナは私をあんまり戦場に出したくないみたい」
やはり、アスナの道はすでに決まっていたか、とコーネリアは思う。
日頃からあれだけ絆の強いところを見せつけられてしまうとあてられるが、でも、兄上―シュナイゼルの傍にアスナがいるのは非常に納得の行く未来だと思った。
卒業してから五年も立てばシュナイゼルは学業を終えて、政治・軍略方面で父から仕事を賜っているだろうし、その補佐として専任騎士が必要となるのは確かだったから、アスナの考えは決して間違っていない。
少しの間の離れ離れに耐えることができれば、アスナはシュナイゼルの隣に立つという名誉を手にすることができるのだ。
いや、アスナはそんなことをしなくてもいい。
シュナイゼルの婚約者という立場で、騎士になろうとしているのだからこの士官学校でもアスナの存在は十分に浮いていた。
いずれは、后となり離宮にこもることになるのがわかっていて、敢えてアスナはシュナイゼルとは違う道を選び、違うことを学ぶことを選んだ。
同じことを学んでも、同じことしか考えられなくなるからという、アスナなりの考えもそこにあったのだろうが、コーネリアはあまり深く考えなかった。
アスナは、名実ともにシュナイゼルの支えになろうとして努力しているのだけが事実なのだ。
そんなアスナの姿勢は士官学校でもちゃんと認められているし、今では多くの生徒が支援者といっても過言ではない。
「シュヘンベルグ家にはラーズもいることだしな。お前が当主になることに伯父上がこだわっているようにも思えん」
シュヘンベルグ家には三人の子供がいる。
長女にして長子、その卓越した剣の実力と身体能力、その頭の良さも相まってすでに当主候補として世間から見られているアスナとその双子の弟ラーズ。
ブリタニアでは双子は忌み子とされているが、シュヘンベルグ家では代々、双子を篤く迎えており、ラーズもアスナも双子でありながら、ブリタニアの貴族たちの間では受け入れられている。
ラーズはアスナと同じくボワルセル士官学校に通う学生であり、その剣の実力はアスナにこそ一歩遅れをとるものの、すでにナイトオブラウンズに近いのではないかと称されるほどであった。
その末の弟に当たるのが、二人にとっては異母の弟に当たる、十三も年下のレオルグである。
レオルグはシュヘンベルグ家にとっては正妻となるアイネアス・ミア・クラウンの息子であり、本来正当なシュヘンベルグ家の後継者は彼でなくてはならないはずだった。
だが、皇帝陛下からの覚えもめでたく、優秀な第二皇子、第二皇女から信頼も得ている年長のアスナを、と周りが考えるのも致し方のないことで、アスナは現実、そのプレッシャーに対して誠実に応え続けている。
「まあ、ラーズはもしかしたら継ぐ気ないのかもだけど」
「ありえるな」
二人で笑いながら更衣室から出ると、スタジアムの方でわずかに歓声が聞こえてきた。
聞こえてくる音をひろうと、「ラーズ様」と女性の黄色い歓声が聞こえてくるので、アスナは苦笑した。
顔だけはいいのだ、顔だけはと思いながら、今試合をしているだろう双子の弟を思い浮かべる。
ラーズもアスナもどちらかといえば父によく似ていると言えるだろう。
目鼻立ちはしっかりとしており、涼やかな目が特徴的で父は緑一色であるが、ラーズとアスナはそれぞれ青と緑を反転させて埋め込んだ瞳である。
特にそっくりなのは赤い髪だろう。
燃えるような焔を写し取った赤い髪は、クラウン家の血統によく出やすい色であったし、それは異母の弟であるレオルグも同じく―赤い髪であった。
「ラーズは実力があるが……少し軽薄ではないか?」
「仕方ないよ、どっちかっていうと父上に似てるし」
アスナは諦めも混じった口調でコーネリアに対して見解を述べた。
父、クロスもどちらかというと軽薄なタイプである。
家にはめったに帰らず、ほとんどの時間を愛人たちの家で過ごしているのだ。
それでも真面目に皇宮に出仕しているのだから、それだけは褒めてあげたいが、それは彼の最低限の役割であるのでアスナもコメントはいつも控えている。
むしろ、愛人たちを優先して、置いてきぼりにされる継母であるアイネアスが哀れでならないとアスナは思う。
念願の男児を遅くに生むことにはなったが、クロスの興味はどちらかといえばアスナやラーズの方に向いているので、まだ子供で稽古事をはじめたばかりのレオルグは母にせっつかれるようにして幼い手で剣を握らされている。
継母であるアイネアスの露骨な態度にもアスナは別段気を悪くするつもりはなかったし、当然のことだと思う。
正妻として、夫が突然自分の子供だからと連れてきた子どもたちを受け入れ難かっただろうし、自分が漸く後継者たる子供を生んだというのに夫の興味がそちらにないというのはたまらないものがあったことだろう。
とはいっても、アスナはシュナイゼルの妻になることが決まっているので、別の意味で心労が絶えないだろう継母が実は、シュナイゼルとの縁談がなかったことになればいいと思っていることをアスナは知っている。
アスナやラーズが社会的な立場を持つことが、アイネアスにとっては苦痛なのだ。
ボワルセル士官学校に通うので寮に入りますと言ったときのアイネアスの顔と言ったら、寂しいですねと口にしながらも早く出て行けと言わんばかりだったのを双子の弟と苦笑し合ったのはもう二年も前の話だ。
「しかし、レオルグではまだ幼かろう。確か、私の妹、ユーフェミアよりも年下だったな」
「そう。マリアンヌ様の第二子と同い年」
コーネリアに話を振られながらアスナは廊下を歩いていく。
二人が歩くだけで相当目立つものがあるのだが、二人共目立つことには存分に慣れていたし、皇族ともなればカメラを向けられることだってあるから向けられる視線もあまり気にしていなかった。
これが敵意をあり、害意があるのならば考えものだが―今はそういうものはなく、学校でも有名な二人を見ようという興味本位が殆どであったため、声をかけられれば手を振るなどの対応は心がけた。
コーネリアはそういったことが得意ではないのか、少し困ったように笑っていて、アスナはついそれに笑ってしまう。
笑ったのがバレると、コーネリアは顔を少しだけ赤くしてアスナを小突いてさっさと進んでいってしまう。
待って、と声をかけて、少し駆け足でコーネリアを追いかけた。
学校内にあるテラスはちょうどクラブ活動中ということもあって人はまばらだったし、適当に飲み物を注文するとアスナとコーネリアはテラスの一席にそれぞれ腰掛けた。
「そういえば、コーネリア、来週の誕生日パーティー来るの?」
「当たり前だろう。お前とラーズの誕生日だぞ。正式に招待状も受け取っているし、何よりユフィが楽しみにしているのだ」
来週の六月二十日には二人と双子の弟であるラーズは一時帰宅という形でブリタニア皇宮に帰ることになっていた。
誕生日パーティーのためである。
皇帝陛下臨席の元で開かれ、皇族の殆どが顔を出すということもあってか学校側もあっさりと許可を出したのだ。
アスナとラーズからすればこんなに大々的にする必要性を感じておらず、毎年この時期が憂鬱になってしまうくらいの気分で、今も正直気が向かない。
アスナが唯一、パーティーで楽しみなことがあるとすればシュナイゼルのことくらいだ。
以前話していた学友に招待状を渡してほしいと頼んであるし、中々会うことができないシュナイゼルに会うのが楽しみではないはずがないのだ―と考えたところで、アスナの肩にずしりと重みがかかり「まぁた」と自分とよく似たしかし、変声期を迎えた男性の声が聞こえてきてアスナは顔を上げた。
「シュナイゼルの事考えてたのか?」
「―せめて人目があるところでは、殿下をつけたらどうなんだ」
写し鏡であるかのようにそっくりだが、髪の毛の長さも目つきの雰囲気もまるで違う男がそこにいる。
「ラーズ、お前、試合は終わったのか?」
「もちろん! お姉ちゃんの名に恥じず、今日も勝ったよ」
にこやかに笑うそれはアスナとよく似ているとコーネリアは思いながら、ラーズとアスナのやり取りを見る。
ラーズはコーネリアへ視線を向けると、貴族らしく皇族に対しての礼をしっかりととり、膝をついた。
従兄弟であってもという姿勢があるのか、それともからかいが混じっているのか―おそらくは後者だなと思いながら、コーネリアはラーズが自分の手を取ってその指先を額に向けたのをそっと見ながら思った。
「コーネリア殿下にはご機嫌麗しゅう。我が姉が殿下に不敬を働いてはおりませんか?」
「心配はいらんよ、お前も楽にするといい。―今は人も少ないからな」
コーネリアが周囲を見回して一言言うと、ラーズは礼を解いて、同じテーブルの席に腰掛けた。
「何の話してたん?」
「来週の誕生日パーティーの話だ。―大変だろうな、お前」
アスナの言葉にラーズは思い切りうげぇと顔をしかめて、嫌悪感を隠そうとはしなかった。
パーティーが年々と憂鬱になってきているのは結婚適齢期が近づいてきている証拠で、年頃の子息・令嬢に引き合わされるのは明白だった。
ラーズは外見もさることながら、アスナとは違い、懇意にしている異性の皇族がいないこともあり、なおかつまだ大公爵位はラーズになる可能性があるためか、貴族の令嬢や資産家の令嬢たちはラーズの恋人になりたいと必死なのだ。
うまく行けば、皇族の近縁家に入ることができ、いずれラーズと自分の間にできた子供が、ひょんなことから皇族や外の王族に見初められでもすれば……と考えているのかもしれない。
「はぁ……帰りたくねぇな」
ラーズの言葉を聞いたコーネリアはくすくすと笑う。
「お前は正直者だな」
「シュヘンベルグ家は代々、正直者の家系だから」
「よく言うよ。お前も父上も、さして正直者じゃないだろう」
ラーズとアスナは互いににらみ合いをすると、なにおうと取っ組み合いにまでは至らずともそのまま喧嘩を始めてしまう二人を見て、コーネリアは苦笑するばかりだが、この二人のやり取りは見ていて嫌いじゃない。
姉弟で存分に仲がいい二人は今でも一緒にいる時間は長いし、距離が近すぎて誰かが禁断の近親相姦なのではと盛り上がっていたのをコーネリアも耳にしたがそれはないだろうなと、すぐに思ってしまう。
(兄上とアスナの方がもっと距離が近いように見えるからな)
シュナイゼルとアスナが話をしていたときのことをもいだして、コーネリアはふと笑った。
シュナイゼルはずいぶんと露骨に示していることにコーネリアが気づいたのは、ポワルセル士官学校に入ってから初めて出席したパーティーでのことだった。
久方ぶりに会った兄は挨拶もそこそこにアスナを探しており、アスナもシュナイゼルを見つけると満面の笑みを浮かべ、話しかけてきていた同じ年頃の子息を断ってシュナイゼルの元へやってきた。
アスナとしては親しい幼馴染のシュナイゼルを見つけたことによる嬉しさが優先されただけだろうが―シュナイゼルは明確にアスナと話していた男に向かって笑みを浮かべた―見せつけるように。
ああ、兄はアスナのことが、と思うとこれまでの距離の近さなどに全て合点がいってしまって―。
婚約者だから、というわけでもなく、深くつながっている二人の間柄がコーネリアにはとてもうらやましく見えた。
(ラーズには悪いが、私は兄上の味方でな)
これをいうとラーズが盛大に拗ねてしまうのは目に見えていたのでコーネリアは敢えて何も言わずに、二人がじゃれているのを見守っていた。
***
皇暦2005年―六月二十日。
数日降り注いだ雨もこの日ばかりはピタリと止まり、薄曇りだった空はパーティーが開始される夜半には美しい星を瞬かせることとなった。
神聖ブリタニア帝国帝都ペンドラゴンのセントダーウィン通りの奥、シュヘンベルグ大公爵の住まいとなっている離宮―ライブラ離宮の双塔の城は、日頃の慎ましやかな、しかしどこか陰鬱とした雰囲気をはねのけて、あらゆる人が出入りし、明るく、人の声や、ダンスのための音楽で溢れかえっていた。
特にお客様を出迎えるためのエントランスではすでに多くの貴族や皇族、皇帝妃たちが集まっていたこともあって、社交の場としては大きな賑わいを見せている。
その奥の控室で、アスナは大きくため息を付いた。
「ねえ、どうしてもだめ?」
目の前に立っている黒い執事服の男は長年アスナに仕えているガリオン・フォーレストである。
彼は執事ではあるが、名誉騎士侯の称号を持っている騎士の一人であった。
ガリオンは薄紫色の髪を男性にしては長く伸ばしており、その髪は首裏で二つに結ばれている。
それを少しだけ揺らして振り返ると、困った顔をして笑ってみせた。
そんな彼が手に持っていたのは黒いドレスだった。
「お嬢様、これは旦那様からのご命令でございます。―ドレスは女性の公でのドレスコードとしては最適ですよ」
たしなめるようにアスナに向かって言ったガリオンにアスナは端正な顔の眉間に思い切りシワを作って、ふいと顔をそらしてしまった。
アスナはドレスをあまり好まない。
動きづらいし、そんなものを着たって女の子らしく着飾られるわけではないし、と頬を膨らませてしまう。
「きっと、シュナイゼル殿下はお喜びになりますよ」
ぴくり、
わかりやすいくらい肩がはっきりと動いたのを見て、ガリオンは主人を前にして、やってはならないことであったがつい吹き出してしまう。
この愛らしい主人の想い人であるあの人は、きっとアスナのドレス姿を手放しで称賛してくれるはずだ。
アスナも少しだけそんな姿を想像したらしい。
散々悩んだ結果、やはりシュナイゼルに褒められるのを選んだらしいアスナはゆるゆると立ち上がり、メイドたちに連れられるまま美しい黒いドレスに着替えるために奥へと入っていった。
パーティー会場のざわつきが一瞬にしてなくなったのは、皇帝シャルル・ジ・ブリタニアが上座に備えられていた玉座に腰掛けた瞬間であったことだろう。
全員が歓談をやめ、上座に向かって同様に礼を取る。
シュナイゼルも父に向かって礼を取る。
伯父であるクロスがシャルルの座る玉座の近くに立つとマイクが渡され、彼は会場全体を一瞥した後、朗々とした声で話しだした。
「この度は愛する我が子であるアスナとラーズの誕生日パーティーへお越しいただき誠にありがとうございます。
そして、我が弟、敬愛すべき陛下のご臨席を賜りまして、恐悦至極。この席をお借りしまして、深くお礼を申し上げます」
クロスは少し仰々しく一礼した。
彼の狂言じみた話し口や立ち居振る舞いはいつものことであるので、皇帝も、周りの貴族たちも大きく何かを言うことはなく、シャルルは片手を上げて異母兄へ合図をする。
目配せし、それから視線をそらして、再び会場をみやったクロスはシュナイゼルを見つけると笑った。
「さて、私の挨拶など、誰も耳に留めてはいないでしょうから、長々とするつもりはございません」
クロスがそう言うと、周囲からにじみ出る笑いのようなものがあった。
彼はそれを気にすることなく、会場の入口、一番大きな木製のドアを示して、笑ってみせる。
「私の愛おしい双子たち。アスナとラーズでございます、皆様、よろしければ盛大な拍手でお迎えくださいませ」
会場中の拍手がドアの外側にも聞こえてくるのがアスナにはわかった。
マーメイドタイプの体型を隠さないスラリとしたドレスには女性らしい愛らしい大きなフリルがたっぷりと使われている甘いデザインであるのにもかかわらず、足元のスリットは大胆に開かれていて、恐らくアスナが歩く都度に白い足を、レースの付いた黒いストッキングで隠しているのが見えることだろう。
そんな大人っぽいドレスを握って、アスナは緊張した面持ちでいる。
隣のラーズはといえば、よくあるタイプの黒いタキシードに紅いスカーフタイをしていた。
彼はあまり緊張していないのか、それともあまり気にするタイプではないのか拍手の音を聞いて、自分たちが入場することになったのだと悟ると、姉の前にす、と白い手袋に包まれた自分の手を差し出した。
「大丈夫だって。俺がついてる」
「……うん」
黒いレースのイブニンググローブに包まれた手をそっと重ねられたときに、重たいドアが軋みを上げて開く。
パーティー会場からの照明に目が眩みそうになるのをなんとかこらえて、アスナはラーズにエスコートされ、一歩ずつ紅い絨毯の上を進んでいく。
会場の中には見知った貴族や、父の知り合いであろう人間も多く見受けられ、視線の先、玉座には叔父、シャルルが座っているのが見えた。
まずはそこに挨拶をしに行かなくてはならない。
アスナが一番緊張しているのはそこかもしれない。
皇帝陛下の眼下までくると二人共揃って膝をつく。
おそろいのように仕立てたタキシードとドレスを着ている双子はまるで人形のように美しく、飾り立てられている。
こういった場で口上を述べるのは姉であるアスナの方だった。
アスナは静かに皇帝へ隣席の礼を述べ、より一層、ブリタニアのために戦えるよう鍛えていくことを約束した。
緊張して、手に汗が滲みそうになるのを必死で耐えながら、話していたので声が震えていなかったか、など考えている暇はなかったが、すべてを言い終わったあと顔を上げてみれば、父が優しい笑顔を浮かべて拍手をし、その隣には皇帝陛下を守るためにやってきていたビスマルクが満足気に頷いているのが見えたのでアスナは漸く胸をなでおろすことができた。
「シュナイゼル殿下」
挨拶が終われば、アスナは漸く解放され、客たちも再び歓談へと戻っていった。
パーティーの主役であるはずのアスナは貴族たちへの挨拶もそこそこにシュナイゼルの元へと歩み寄ってきた。
ドレスが見合うようにアスナは楚々とした態度でシュナイゼルの元へ歩み寄ると、貴族の令嬢らしい挨拶をしてみせた。
「シュナイゼル殿下、本日はわたくしとラーズの誕生日パーティーにご出席いただきありがとうございます」
ドレスの裾を持ち上げて優雅に礼をしてみせたアスナを見て、シュナイゼルは優しく微笑んでその手をそっと掴んで、手の甲にキスを落とした。
「こちらこそお招きありがとう。美しい貴方の誕生日をこうして祝うことができてとても光栄だよ」
シュナイゼルの方が一枚も二枚も上手だったようで、アスナは一気に頬を赤らめた。
その後は人目を気にしつつ、他愛のない話をするだけだ。
アスナは主役であったし、シュナイゼルは第二皇子であるからどうしてもパーティーの場では悪目立ちしてしまって話したいことも話せないのは仕方のないことだった。
婚約者と言っても、こういった公の場では当然、控えなくてはならないことだってたくさんある。
しかし、こっそりと耳打ちするようにアスナはにこやかに笑った。
「ありがとう、シュナ」
パーティーに来てくれたことももちろんだが、おめでとうと言ってくれたことが嬉しかったから、アスナはお礼を言う。
ちゃんと自分の口で、シュナイゼルにお礼をいいたかったから、こうやって二人で話せる時間が取れてよかったとアスナは笑った。
耳打ちをするためにどうしても距離が近くなってしまったがシュナイゼルはそれを咎めることなく笑顔で、「こちらこそ」という。
そのとても朗らかで仲睦まじい様子に、貴族たちからは好感も得ているのだが、アスナは知らないのだった。
シュナイゼルの異母兄であるオデュッセウスがやってきたときにはアスナは兄のように慕っているオデュッセウスが祝いに来てくれたというのが嬉しかったのか、朗らかに笑うオデュッセウスに何度もお礼を述べていたし、
小さなユーフェミアが姉のコーネリアに連れられてやってきた時はついついアスナも頬を緩ませて、花束を差し出してくれるユーフェミアに合わせて膝を地につけて屈んでいた。
クロヴィスが今年プレゼントとして選んだものは壁に書けられるタイプの花時計であり、プリザーブドフラワーはアスナをイメージしていたのか、赤と黒で統一されており、ラーズのものも同様だった。
双子でおそろいのものを贈られて二人は見せあって笑っていた。
パーティーも終盤に入ってくれば、大人たちの時間になってくれば本人たちはそっちのけで、ビジネスやら、最近の軍の動向などきな臭い話もたくさん出てくる。
アスナはため息を付きながら、シュナイゼルに手を引かれるままバルコニーへと出てきた。
外の風が心地よく、アスナは目を細める。
流石に沢山の人に囲まれることとなったアスナは肩が凝ったのだろうバルコニーに出るなり腕を伸ばして、バルコニーの装飾の施された柵の元まで歩み寄った。
「マルディーニ卿はいい方だったね。シュナが気にいるのもすごくわかる」
アスナはここでは人目がないこともあったからか、直ぐに口調を崩してシュナイゼルに話しかけた。
それに合わせてか、シュナイゼルも少しだけ方から力を抜いてバルコニーの柵に手をかけた。
「会わせることができてよかったよ」
アスナが楽しんでいるようで何よりだと思ったし、シュナイゼルやアスナが思っていたよりもずっとお見合い目的でアスナに近づく人間が少なかったことは上々だっただろう。
アスナはそのことだけで、少し機嫌が良かった。
「ラーズは大変そうだけどね」
早々にシュナイゼルのもとに避難し、更にはその仲睦まじげな姿を晒して、卒業後には結婚することすら視野に入っているのではないかと、意識を根付かせたアスナとは対照的にラーズは様々な女性たちに囲まれている。
バルコニーからでもわかるそれを二人で眺めながら、そっと手の甲が触れ合うとシュナイゼルとアスナはどちらとも言わずに手をつないだ。
「ラーズには申し訳ないことをしてしまったね」
「ふふ、あんまり思ってないくせに」
二人きりになれてよかった、とかその程度のことだろうとアスナは思う。
アスナもシュナイゼルと二人きりになれてよかったと思う。
まるで、夢のよう。
嬉しそうに微笑んだアスナはシュナイゼルの手を握る力をそっと強める。
離れたくない。
そういう意思が込められているような気がして、シュナイゼルも少しだけ握る手の力を強めて、アスナと見つめ合った。
この時間が少しでも長く。
ただ、たまらなく幸福で、心地が良かった。
中から聞こえてくるワルツの曲にシュナイゼルが気づくと、するりと一度手を離した。
それに驚いたアスナは目を見開いて、シュナイゼルを見上げようとして、それよりも早くシュナイゼルが膝をついて、アスナの前に手を差し出した。
「―よろしければ、一曲お相手していただけますか?」
本当に絵本の中から飛び出してきたような王子様にアスナは胸が高鳴った。
心臓がひどくうるさい。
ぎゅう、と胸元で手を固く握りしめたあと、ゆっくりと手を伸ばしてその手に、重ねようとしたところで―
―すべての照明が落ちた。
突然のことに会場は騒然となり、小さな子供の泣き声が響くように聞こえてくる。
会場の中でクロスは周囲を見回すも、完全に暗闇に包まれておりそろそろ簡易照明が戻ってきてもおかしくない頃合いだというのに未だにどこの明かりも灯らない。
ビスマルクとともにシャルルを守りながら―一人の男が近づいてくるのを感じた。
視線を送ってみれば、いたのはガリオンの父であるオズワルド・フォーレストであった。
オズワルドはこそりとクロスに耳打ちするように顔を近づけた。
「非常用電源が破壊されております。主電源もサーバーダウンしており、復旧には……」
なるほど、手の込んだことを、とクロスは思いながらもオズワルドには復旧を急がせるように手配させ、暫くの間の演出とするためにランタンを大量に用意してくるようにと伝えた。
彼はそれらを理解すると直ぐに走り出し、それぞれの使用人たちへ指示を出していた。
それを見送ったあと、クロスは弟であるシャルルに頭を垂れた。
「陛下は一度下がられるべきかと。―どうやら、人為的なものであるようだからな」
うむ、と低く唸った皇帝は椅子から立ち上がる様子はなく、クロスは困ったように笑いながらもそれを許した。
いざとなれば、自分とビスマルクが戦えばいいだけだ、と思い、それを実行するために徐々に暗闇に慣れてきた瞳はビスマルクを捉え、ビスマルクは小さく頷いて腰に下げていた剣に手を伸ばす。
その次の瞬間には―白煙が立ち込めていた。
床の下から現れたのではないかと錯覚するほど下から上へと盛り上がるような白煙は一気に会場中を包んだ。
会場全体に、甲高い女性の悲鳴が響き渡ったのをきっかけに、一気に狂乱状態へと陥った会場をあざ笑うようにして煙は周囲を包み込んでしまい、あっという間に視界を奪い去ってしまった。
白煙からは煙特有の、火薬が焼けたようなむせ返る匂いがしてとっさにクロスはハンカチを取り出して口元を塞ぐ。
どういうことだ、と叫ぶ貴族たちを制するように、使用人たちに客の避難を優先するように檄を飛ばしている。
シュヘンベルグ家の使用人たちは迅速であった。
主人の声を聴くよりも早く、それぞれがお客人をどう逃がすのが適切あるか判断し、煙の排出作業と同時に皇族から順に避難するように勧めているのがクロスの耳に届いた。
それらを確認すると、日頃の使用人の教育が間違っていなかったと満足げに頷き、次に確認しなくてはならないことへ移った。
息子と娘の行方を調べておかなくては―。
「ラーズ! ラーズはいるか!!」
「いる!!」
ラーズの声が会場の中から聞こえてきた。
彼はその腕にルルーシュとナナリーを抱えており、まだ幼い彼らを避難させようとしていたらしい。
その隣には同じようにユーフェミアを抱えたコーネリアがクロヴィスとともに立っているのがクロスの目で確認できた。
他の皇族たちもそれぞれ護衛として連れてきている騎士たちと行動しているのが見て取れたが―アスナの姿が見えなかった。
「……アスナは。誰か、アスナとシュナイゼルは見なかったか?」
クロスの声には誰からも返答がなく、二人の姿がそこにはないことがわかる。
普段であれば煙など、あっという間に換気口が開いて排気するはずであったが、電源が落とされてしまっていたため煙は中々なくならない。
クロスはこれではアスナとシュナイゼルを探そうにも、と周囲へ視線を巡らせながら舌打ちをする。
とりあえずはここから避難することを息子に伝え、回廊へ続くドアを開けさせ、煙の排出を急がせるのと同時に、皇族が無事であるかどうか確認する。
その過程で、シュナイゼルの級友だというカノン・マルディーニが、最後に二人がバルコニーに向かうのを見たとクロスへ伝えてきた。
(……何が目的なんだ)
停電もした。
煙も出てきた。
しかし、どこかに火が上がっているなどという使用人の報告もなく。
確かに被害は殆どないが―被害らしい被害といえば、この離宮内に不逞の輩を潜り込ませたという意味でシュヘンベルグ家の評判が少し下がるくらいのものだ。
クロスは明かりが灯り始めているエントランスまで客の全員が避難していることを確認して、やはりアスナとシュナイゼルの姿がない。
エレオノール皇妃が、シュナイゼルは、と叫んでいる声が聞こえるが、恐らくアスナの所で間違いないはずだ。
自分たちとは別経路でシュナイゼルを安全な場所まで誘導しているはずだ。
そういう意味ではクロスは娘の実力は疑っていない。
特にシュナイゼルが関われば問題はみじんもないだろうと思いながら、しかし、それは捜索しないこととは話が別だった。
数人の使用人たちにバルコニーから続く庭の捜索を刷るようにと声をかけたところで、その声は突如聞こえてきた。
「アスナ!」とシュナイゼルの声が耳に入った次の瞬間に、ぱん、ぱん、と乾いた銃声が二つ聞こえ―クロスは剣を掴むと駆け出していた。
ときはほんの少しだけ遡る。
中からは「照明はどうした!」「直ぐに非常用電源に切り替えろ!」というラウンズや父の声が聞こえてきて、皇帝の安全を確保しようと動く大人たちの足音や怒号が飛び交っている。
アスナとシュナイゼルはバルコニーで照明が落ちた瞬間とっさに、アスナはシュナイゼルをかばうようにその腕をひいて、バルコニーの入り口に当たる窓の方を見て、アスナは警戒していた。
今はすぐにここから動かないほうがいいとさすがのアスナでも判断がついた。
シュナイゼルが後ろにいるか確認して、シュナイゼルの手が繋がれているのをしっかりと感じ取って、それまで柔らかな少女をしていた瞳は釣り上がり、騎士の瞳となっていた。
今、ここでシュナイゼルを守ることができるのは自分だけだという自負がアスナを突き動かしていたが、その体はわずかに震えていた。
シュナイゼルは細い肩を震わせているアスナを見下ろして、しかしかけるべき言葉が見つからず、きゅと唇を結んだ。
しばらく会場に電気が戻ってこないことから、非常用電源にも何かしらの異常があるのだとわかった。
漸く、喉の渇きを感じられるようになって、アスナは自分が緊張して震えているのだろうと気づいた。
でも、それはシュナイゼルにばれないようにしなくては。
できるだけ声が震えないように努めながら、声を潜めた。
「シュナ、避難しよう」
「……その方が良さそうだね」
シュナイゼルもアスナの意見には賛成だった。
いつまでもここにいても、相手の目的がはっきりと見えてこない上に、取り残されれば危険であると判断できる。
停電までさせたのだから、相手の目的は中にいる人であったことは容易に想像できたからだ。
そして、その人物は―皇族か、それとも皇帝本人だったのか、今のアスナたちには判断するには情報が足りなかったが、シュナイゼルだって狙われる理由を持つ一人だ。
―もしかしたら、アスナだって。
「このバルコニーから外に出たほうが良さそう。電源が落ちてるのは中だけで、外の方は明かりがちゃんとついてる」
アスナは視線をバルコニーの外に向けて、シュナイゼルはそれを追いかけるようにして、シュヘンベルグ家が誇る庭園をみやった。
薔薇の庭園を美しく照らし出されるようにライトアップされているそれらの電源は落ちていないようで、アスナの言うとおりに電源に支障があるのは建物の中らしい。
「―……仕方ないね。伯父上たちには心配をかけるだろうけれど」
シュナイゼルは困ったように笑っているが、承諾の返事をもらったため、手を握り直し、バルコニーから外に出るために走り出していた。
―嫌な予感がする。
とんでもなく嫌な予感だった。
中の人たちのことも気がかりだが、父もビスマルクもラーズも、他にも優秀な騎士たちが何人もいる。
きっと中の人達にはなにもないはずだ、とアスナは信じて、シュナイゼルの手を強く握った。
シュナイゼルを守らなくては、と思う気持ちから少しだけいつもより強く力が入ってしまうが―シュナイゼルは何も言わなかった。
「……こちらの方は静かだね」
薔薇園の方まで逃げ出してくると、離宮の喧騒はたしかに耳に入ってくるし、窓から煙が漏れ出しているのをアスナは黙って見つめていた。
だが、火の手が上がっている様子はなく、煙だけが見える状態だ。
「大丈夫かい、アスナ」
シュナイゼルが優しく肩を叩く。
ここまでくれば大丈夫という安堵もどこかにあったのかもしれない。
「そろそろ、離宮の方に移動しよう。伯父上たちもエントランスの方に避難しているはずだよ」
うん、とアスナは頷いて、生垣に潜めていた体をそっと持ち上げて、周囲を確認する。
やはり、誰の気配も感じない静かな父のお気に入りの薔薇園がそこにあるだけだ。
少しでも人の多いところへ合流するのはシュナイゼルの安全を守るためには必要なことだったし、アスナはゆっくりと立ち上がるとシュナイゼルに手を差し出した。
「戻ろうか」
―まるで、昔、二人でかくれんぼをしていたときのような。
アスナの困ったような笑顔が、わずかにこの場における緊張が解かれたのだとシュナイゼルは感じて安心した。
だからかもしれない、後ろに現れた影に、わずかに反応が遅れてしまったのは。
シュナイゼルの表情が一変するよりも早く、アスナは背後に感じた男の気配に振り返った。
振り下ろされる剣をシュナイゼルの手を引っ張って躱すと問答無用で走り出した。
薔薇園から離宮のエントランスまで走りきれれば―という考えは読まれていたのか、目の前には更に数人の男たちが人垣を作るようにして並んでいた。
安心してしまった自分を責めた。
外に出たからといって安全になったわけじゃないのにと、アスナは唇を噛み締めて走った。
先程まで影も形もなかったくせに、とアスナは考えながら恐らく、彼らはプロだ―暗殺の、と理解した。
目的はシュナイゼル、いや、一撃目は確実に自分に向かって振り下ろされていた。
(……私が、目的?)
男たちの目は自分に向いていた。
「こいつだ」「赤い髪、青と緑色の瞳」「嚮主様たちが探しておられた子だ」
男たちの目的は自分らしい、と気づくとアスナの行動は早かった。
「殿下、どうか、先におゆきください。私が道を開きます」
「アスナ……っ」
「こいつらの目的は私です。―どうか」
「だめだ、君を置いてなんて……」
「“殿下”!」
―アスナが立場を強調するときは、自分に余裕がない時だ。
普段はシュナイゼルの、親しく有りたいという気持ちを組んでくれるアスナだが、今はそういうときではないと瞳が言っていた。
貴方は生き延びなくてはならない、とアスナは言っている。
「貴方は皇族だ。私は騎士だ。そもそも、私が目的の連中を相手にするのに貴方を巻き込むなんてできない」
「でも、君は、私の―」
シュナイゼルの言葉を遮ったのは、アスナの指だった。
優しく、シュナイゼルの唇に当てられた指にシュナイゼルは言葉を紡げず、ただ、アスナを見る。
アスナは緩やかに笑った。
「大丈夫。必ず、貴方のところに帰ります」
シュナイゼルの手を握りしめていた手がするりと離れていく。
―後にシュナイゼルはこの日の行動を後悔することになる。
彼女の手を離さなければ良かった、と。
アスナの体はドレスを纏っているとは思えないほど身軽に力強く男の一人を蹴り飛ばすと跳ね上がった。
男たちが持っていた剣を奪い取ると、そこからは大立ち回りだ。
殿下、とアスナがシュナイゼルに合図をするとシュナイゼルはアスナを逃がすために今度は自分が人垣となり、道を塞ぐ。
シュナイゼルがなにかいいたげに自分を見たのがわかったが、今はこれが最適解であることを互いに理解している。
シュナイゼルは頭が切れるが実際に戦闘ができるかと言われればそういうわけではないのだから。
アスナは柔らかく微笑んだ。
シュナイゼルが自分の後ろ、離宮側へ向かっていくのを音だけで確認するとアスナは武器を構え直した。
「お前たち、何者だ」
アスナはじろりと男たちを睨みつける。
だが、男たちは返答しない。
雇い主を言うことなどないとはわかっている。
互いにそれ以上は言葉はいらないと武器を構えたところでシュナイゼルの叫び声が聞こえた。
「アスナ!!」
乾いた銃声が二つ。
体を蝕むじわりとした熱は急激に全身へと広がっていき、特にその中心である右脇腹の痛みが尋常ではなかった。
呻くよりも早くアスナの体は倒れていく。
シュナイゼルにはその光景がまるでスローモーションのように見え、銃を使った男が生垣の奥にいるのが見えた。
美しい新緑の芝生が二つの赤に染まっていく。
駆け寄ろうとした足が止まったのは、アスナがわずかに起き上がって、シュナイゼルに笑ってみせたからだった。
「行って」
お願いだから。
早く、貴方だけでも。
アスナは起き上がった体の手を無理やり掴まれる。
強制的に動かされる体は、銃弾が通ったせいで異様なほどに痛み、軋み、呼吸が荒くなり、自分の体ではないくらいに動かない。
抵抗できない自分が悔しかった。
「貴様ら―!」
父の声が聞こえる。
男の一人がアスナを担ぎ上げて、他の男達に指示を出しているのをアスナの耳は声としてではなく、音としてでしか認識できなかった。
(父上、私のことはいいから)
アスナは薄らとなっていく、意識の中で、必死で思い浮かべた。
優しくて、でも、どこかいつも欠けてしまっている。
(殿下を……シュナを)
―私の大好きな人。