1、私は、あなたを守りたい


 帝都ペンドラゴン―インバル宮。
 皇帝を守護する最強の十二騎士―例外を含めると十三騎士が日頃の拠点として使われているのがこのインバル宮であった。
 十四年前にあった血の紋章事件からラウンズの数は激減した。
 生き残ったラウンズは三名。
 一人はかつてのナイトオブファイブ―現在はナイトオブワンであるビスマルク・ヴァルトシュタイン。
 もうひとりは、皇帝の腹違いの兄にして、シュヘンベルグ大公爵、クロス・シュヘン・アリア・クラウン―当時はまだ、クロス・アリア・ブリタニアの方が、通りが良かった。
 最後の一人は、すでに亡くなってしまわれたが第五皇妃となった、ナイトオブシックス、閃光とまで称された騎士、マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアである。
 マリアンヌは皇帝妃となり、ラウンズからその名前を消して、二年前の事件でその短くも鮮烈な人生を終えた。
 クロスは存命ではあるものの、その地位を早々に娘に明け渡し、今は軍のオブザーバー的な立ち位置となり、未だ宮廷の中でも強い発言力を持ち、シュナイゼルやコーネリアといった有力な皇子・皇女のスポンサーを務めている。
 故に、ほんの数年前まで、ラウンズとして権力を有していたのはビスマルクだけであった。
 アスナもラウンズではあるものの、その立ち位置は特例中の特例であるのが通例。
 クロスのように、ビスマルク、マリアンヌとともに皇帝を守護していたほうが例外だったのだ。
 その空席が僅かに埋まり始めている。
 皇帝直下の十二騎士は早めに揃っていたほうがいいと、クロスがシャルルに進言したことから始まったことであるが、アスナは基本的に本国を離れ、他国侵略のための準備を整えていることが多かったため、それを知ったのは約半年ぶりに本国の土を踏んだ時のことであった。
 インバル宮へ足を踏み入れると、双子の弟の姿が見えた。
 「よ、」と非常に軽く片手を上げた双子の弟とじっくり顔を突き合わせたのは実に二年ぶりぐらいのことだった。
 日本侵攻戦が終わってからもアスナの仕事が終わることはなく、シュナイゼルの親衛隊に属していたラーズとはめっきり顔を合わせることが減っていたのだ。
「殿下はどうされた」
 久しぶりに弟と対面したというのに、アスナの口調はひどく厳しいものであった。
 ラーズは肩をすくめる。
 眼の前で赤い髪を揺らす姉の服装はラウンズの正装ではなく、リバリーズであった。
 古来、騎士及び地方豪族の臣下たちが着ることが許された特別な制服がリバリーズである。
 近代のブリタニアにおいてリバリーズは皇族の専任騎士の特権となり、その数と種類は激減した。
 基調とする色には重要な意味があり、高貴とされるのが金色、赤色。続いて、白、青、紫などだ。
 門閥派閥を含めて、その皇族の帝国内での権威を知るには、専任騎士のリバリーズをみればわかると言われるほど。
 つまり、より高貴な色を纏っている騎士の主君こそ帝国内でより強い権力を持っている。
 ―が、シュヘンベルグ家とラウンズはこれの例外である。
 陛下のラウンズは基本的に、タキシード系のスーツ(改良はいくらでも加えていいので、すでに原型がないものもいるが)で、インナーにはブリタニアの権威の象徴たる、皇族の紋章が刻まれている。
 シュヘンベルグ家に関わる騎士とナイトオブサーティーンはラウンズとしての衣装の他にその権威を象徴したリバリーズの着用が許可され―その色は黒と決められていた。
 黒は高貴な色とは外れて考えられており、不吉の象徴などとも言われているため、騎士たちはこれを纏うことを嫌うことが多かったが、シュヘンベルグ家はこれを好んで着用した。
 自分たちこそ―皇族の影である誇り。
 白の美しい皇族たちの影となり、お守りする。
 その誇りの現れなのだと、アスナは語った。
 ラーズもラウンズの制服は本来白であるはずなのに―黒いものを着用し、アスナと同じ濃紅のマントを羽織っていた。
「今日付けで、ラウンズに任命された」
「親衛隊であったお前が?」
 アスナは顔をしかめた。
 シュナイゼルは宰相として手駒は多かったし、多くの騎士団や正規軍を配下に収めてはいたが、親衛隊というか側近にはラーズぐらいしか置いていなかった。
 「お前が殿下をお守りするからこそ、俺はここでやっていたのに」と言わんばかりに顔をしかめて、ラーズを睨みつけたアスナはその隣を通り抜けようと足を勧めた。
 どういう形であり、シュヘンベルグ家が騎士として有力なのは昔からのことで、ナイトオブサーティーン以外にもラウンズとして選出された例はいくらでもある。
 ―まあ、双子でラウンズというのは初かもしれないが。
「席次は」
「ナイトオブツー」
 ラウンズには、一応席次が用意され、ナイトオブワンがトップであるとされているが、実質それ以降の数字で大きく優劣がつくものでもなく、上下関係は存在しない。
 とは言っても、出身や戦での功績なども十分に考慮されてその席次は決定されるため、シュヘンベルグ家の当主の弟であり、シュナイゼルの親衛隊の隊長を務め、戦果を上げてきたラーズには妥当といえる場所だっただろう。
 元々ツーの地位についていたミケーレ・マンフレディは今、ユーロ・ブリタニアの一員となっていたし、その次に任命されていたベアトリス・ファランクスは、皇室の警護全般を担当する帝国特務局の特務総監であり、皇帝の主席秘書だ。
「シュナイゼル殿下はお許しになられたのか」
「……俺、元々、シュナイゼル殿下の専任騎士じゃないから」
 ラーズは力なく笑った。
 そう。
 シュナイゼルの専任騎士ではなく、周りが親衛隊として呼んではいたが、実際には親衛隊とは専任騎士を中心に組織されるものなので、ラーズはあくまでも、シュナイゼルの私兵というだけのこと。
 その中のひとりが、皇帝のラウンズの召し上げられることにシュナイゼルは特段の抵抗感も示さず、ラーズの栄進を送り出したのだろう。
 執着のないシュナイゼル殿下らしいな、とアスナは弟の隣をすり抜けて歩き出した。
「それに、殿下に頼まれたから」
 ラーズがそれに追随した。
「―アスナを助けてやってくれって」
 シュナイゼルの手には未だ、アスナに渡すはずだった専任騎士の証―騎士章がある。
 ラーズがあれほど傍で守りながらも、それが渡されることがなかったのは、シュナイゼルの中にアスナへの未練が残っていたからだろう。
「殿下が……?」
「うん。それにこれは俺の意思でもある。カーリオン騎士団とコーンウォールを俺とアスナの連名の親衛隊にしてもいいって陛下から直接許可をもらってきた」
 アスナは顔をしかめる。
 カーリオン騎士団はラウンズの一人が持つにはあまりにも強大な騎士団となり、一部の皇族や貴族から危険視されていたのは耳に入っていた。
 コーンウォールはラウンズに許される特権―独自のKMFの開発機関として、カーリオン騎士団の内部組織としてアスナが運用していた。
 ―ラーズとアスナが連名でそれを運用するのは確かにアスナとしては権力の集中とか、強大な戦力を持ち過ぎという周りの懸念を遠ざけることができる。
 双子である二人がこうして共同戦線を結ぶことは何もおかしいことではないのだから。
「それは一向に構わん。どうせ、お前のことだ、騎士団長と筆頭騎士を兼任している俺を案じていたのだろう」
「筆頭騎士は俺が引き受けるよ。現場にも俺が行く」
「……なるほど、指揮官席で座っていろということか」
 アスナは弟の意図に笑ってみせた。
「まあ、止めても無駄か」
 気さくに、少しだけ肩から力を抜いたアスナはラーズの肩に手をおいた。
「ありがとう」
「どーいたしまして」
 姉の気の抜いた顔なんて、久しぶりに見たな、と思ったラーズはこの後、ラウンズの控室へと足を運んで起こる事態にすぐにその安心した気分をかき消されてしまった。


「どういうことですか、ヴァルトシュタイン卿!」
 アスナの怒声に、新参だったナイトオブナイン、ノネット・エニアグラムは肩を震わせた。
 彼女はアスナにとっては士官学校時代の先輩に当たるがコーネリアやベアトリスとは違って比較的縁の薄い先輩だった。
「何事だ……?」
 ノネットは正直な話、アスナのことは士官学校でもあまり会わなかったこともあってか、テレビの中のアスナしか知らない。
 世にも美しいとされるブリタニアの白薔薇、第二皇子シュナイゼルの護衛に入っていた少女騎士が、皇帝のラウンズとなり、その国外での活躍は言うまでもなく、今となっては彼女を英雄視し、その活躍がテレビで流れないことはない。
 ―インバル宮で会った時に、接点のない先輩であったノネットを覚えていたアスナに感動したものだ。
 アスナとしては、コーネリアがよく彼女のことを話していたのを覚えていて、それなりに人となりを知っていたというだけのことだったが。
 ノネットの疑問に答えたのはラーズだった。
「ああ、何でも、アスナが担当することになっていたプランをそのまま第二皇子殿下が持っていくことになったらしくて」
 アスナが担当していたのは、エリア12方面軍の統括と、領地拡大のための侵略軍の指揮である。
 これはエリア11侵略後から、アスナが着々と準備を進めていたもので、カーリオン騎士団を始め、シュヘンベルグ家の私兵も動かしての大掛かりのプランで、後は数日後の出兵式を待つばかり―という状況だったのだ。
 それが、ここに来て、皇帝陛下からの勅令。
 ―この第十二方面軍は之を以て、軍機構統括に当たる宰相、シュナイゼル・エル・ブリタニアの指揮下とし、現在之にあたっているナイトオブサーティーン、アスナ・シュヘン・ガル・クラウンはしばらくの間本国待機を命ず。
 それを伝えられたアスナは相当激怒した。
 別に手柄が取られるとかそういう問題ではない。
 手柄などいまさら気にしないし、準備に相当の手間がかかっていたこの計画をごっそりとシュナイゼルに持っていかれたことも気にしてない。
 ―問題だったのは。
「殿下が戦場で直接指揮を取られるというのに、どうして私が―私が、戦線から外されているのですか!」
 厳密にはアスナだけではない。
 カーリオン騎士団ごと、アスナは、ラーズとともに戦線から遠ざけられてしまったのだ。
 まあ、元々、ラウンズが戦場に何度も何度も駆り出されているというのも軍部としては体面がなかったのだ。
 アスナとしても察してはいたが、動き出されるのはまだまだ先だと高をくくっていた。
 ブリタニアはまだまだ他国を占領するための力を必要としており、自分はその力を有している。
 現実、ここに来るまでにいくつのエリアを作ってみせたことだろうか。
 その功績を全て無視しての采配。
 事もあろうに、それを行ったのが―第二皇子シュナイゼルだったという事実がアスナの心に漣を立てた。
「詳しいことは宰相府に赴き、殿下に聞かれよ。我らは間違いなく皇帝陛下の剣ではあるが、陛下は軍部を現在、宰相閣下にお預けになれているのだからな」
「……私は軍機構からも、ラウンズからも外れた存在だと思っておりましたが」
 苦虫を噛み潰したような顔をして、アスナはぎりぎりと歯ぎしりをした。
 まさか、シュナイゼル殿下に、自身を否定されるとは。
 あの方が誰かに祀り上げられて、自分を排したなどとアスナには考えられなかったので、おそらくこれは、シュナイゼルが自分自身の意思で行ったのだ。
「ヴァルトシュタイン卿に話しても無駄だということだけはわかりました。―私はこれにて失礼する」
 アスナは存外あっさりとここでは剣を収めて、くるりと踵を返した。
 ラーズはそんな姉にかける声もなく見送り、ため息を付いた。
(―やり方が、ずるいんだってシュナイゼル)
 何をやろうとしているのか、察していると言わんばかりの表情でラーズはため息をつくと、これからの姉とシュナイゼルの間に起きるだろう冷戦を思って、憂鬱になった。

 ブリタニアではいくら皇帝の権力が絶対であるとはいえど、今後の対策などを考えるときには会議が開かれる。
 最終的な決議を出すのは皇帝であり、それが有する国璽の印がなくては不可能だが、今日催されている会議には第一皇子オデュッセウスを始めとして、成人し、国政や軍事にすでに深い関わりを持っている皇族は当然のように集められていた。
 シュナイゼルは数日後の出兵式を控えていたという事もあって、呼び出されている。
 元々アスナが担当していたプランだ。
 無理もなく、大きな不備など当然のように見つけられず、戦場におけるアスナの多彩さにはさすがのシュナイゼルも手放しで称賛したが、今回ばかりは彼女の才能が憎かった。
 こういった存在でなければ、彼女はここまで登用されなかった。
 アスナの心の深淵を覗いてしまったシュナイゼルはただただ、その才能が悲しい。
 戦うことを余儀なくされる環境が苦しい。
 あの日から、アスナは本国にいる間は毎日のようにシュナイゼルの元で眠った。
 手をつなぎ、涙を流し、シュナイゼルの存在がなくては眠れなかった。
 時に慰めるように抱くことだってある。
 ますます、アスナは自分の離宮から足が遠ざかっていたが、誰もアスナがシュナイゼルの離宮に出入りしているということを、その離宮の人間以外は知らなかった。
 これで、しばらくシュナイゼルは戦場にかかりきりになるためにアスナの元で眠れなくなってしまうが―それも仕方のないことだった。
 アスナが戦場にゆくよりはずっといい。
 もう、二度とあんな顔を見なくて済むのなら。
 会議も終盤に差し掛かってくると、皇帝が臨席していても空気が少しばかり和んでくる。
 話題といえば、シュナイゼルが戦場で実際に指揮を執るということだったが、シュナイゼルはそれに笑顔で応じていた。
 ―すると、ドアの外が少しばかり騒がしい。
「しゅ、シュヘンベルグ卿! お待ちくださいませ!」
「離せ、私はシュナイゼル殿下に用事があるだけだ」
「まだ中では会議が開かれております……もうしばらく」
「駄目だ、私はこの後急用が入っている。殿下はこちらにおられるのだろう」
 外の兵ではもはや止められなかったのだろう、重厚なドアが勢いよく開かれると、リバリーズに身を包んだアスナが黒のインナーガウンのたっぷりとしたフィッシュテール状のフリルを揺らして現れた。
「…………御前失礼致します、陛下」
 アスナは上座に皇帝がいることだけはちゃんとわかっているのだろう、一度膝をついて礼をする。
 会議への乱入は本来あってはならないことだったが、彼女なりにそこは譲歩したのだろう。
「……殿下」
 アスナがそう呼ぶのは―シュナイゼルだけだ。
「何かな」
 何の話をしに来たか知りながらシュナイゼルは敢えて知らないふりをした。
 その態度に気付いたのだろう、アスナは柳眉をしかめた。
「なぜです」
「だから、何が、かな」
 二人の間にただならぬ緊張が走ったのを感じたのだろう、全員がぐと押し黙った。
「なぜ、あなたが直接指揮をされる戦場で私が除外されているのですか」
 ―正直、シュナイゼルも面を食らった。
 アスナが怒りに来たとするなら、シュナイゼルがアスナの長い期間をかけて準備してきたプランを横取りした挙げ句、それを数日前に勅令として出したことだと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「君が怒っているのはそちらなのかい? てっきり、君は手柄を取られたと怒るのかと―」
「そんなもの、どうでもよろしい。殿下の手柄になるのなら喜んで捧げましょう」
 シュナイゼルの言葉をピシャリと否定したアスナはシュナイゼルの声を辿って、シュナイゼルの座る席の近くまでやってきた。
「元々は私が立てたプラン。当然、私が戦力にいることを前提としております。私ならば、殿下のお役に立つことができます。―どうか、どうか殿下。改めて、私を殿下の指揮の元で計画に携わらせて頂きたく……」
 アスナは膝をついて懇願した。
 確かに、シュナイゼルもプランを見直して思ったが、アスナがいることを前提としている作戦が使われていたし、アスナも指揮官の立場など早々にユイフェイに投げ出して、自分はとっとと戦場に出るつもりだったのだろう。
 丁度、新型の試作機が開発されたのだとも聞いている。
 戦場を駆ける彼女は美しいと―思っていたが。
「駄目だ」
 シュナイゼルがここまでアスナを突っぱねたのを、会議に臨席していたコーネリアは初めて見た。
 なんだかんだと、シュナイゼルはアスナに甘かったので大抵のことは許したのだ。
 シュナイゼルの明確な拒絶にアスナは顔を跳ね上げた。
 その瞳は大きく見開かれて、まさか突っぱねられるとは思っていなかったらしく驚きが表情を支配していたが、次第に指先が震えた。
「……それは、如何なる理由でしょう。わ、私は―殿下の勘気に触れるようなことをいたしましたか。成果ならば十分に上げております、なぜ、私が、殿下のお傍で戦えないのですか」
 声は震えていた。
 それは哀れだと思えるくらいに震えた声でシュナイゼルに訴えかけた。
 短気を起こしたアスナを追ってやってきたビスマルクとラーズがそこにたどり着いて、その光景である。
 ラーズは頭を抱えたくなった。
 姉が―ある意味、痛烈なコンプレックスとして感じているところを、今までは表層化していなかったそれにシュナイゼルは思い切り触れた。
「もう、十分じゃないか、アスナ」
 そういうシュナイゼルはアスナを見ることができなかった。
 恐らく、見てしまうとほだされてしまう気がしたのだ。
 アスナの涙に押し負けて、自分のもとで戦うことを許可してしまいそうな気がした。
 だから、声が震えているのを知りながら視線は向けなかった。
「君はもう十分戦ったよ」
 シュナイゼルはそれだけしか言わなかった。
「殿下、殿下、私は、ブリタニアの剣です。ナイトオブサーティーンは、皇族の、皆様の盾であり、剣であり、影でございます」
 アスナはシュナイゼルの椅子の肘置きに手を添えた。
 その顔は―すでに騎士の仮面は外れていた。
「そうだ、君は剣だ。―だが、君が振るわれなければならない時期は過ぎた。君は皇帝陛下を守護するという名目で本国に残り、君がいると各国に思わせるのが仕事になる」
「それは……それは、私に飾り物の剣になれと! そうおっしゃるのですか!」
 アスナは必死にシュナイゼルに言い募った。
 ただ、置いていかれることに怯える表情をしていて。
「そうだ。それの何が悪いと言うんだい?」
 シュナイゼルは努めて冷静になろう、と声を出していた。
「抑止力というものは必要だ。だが、その抑止力が直接介入するような場面は今後減っていく、ただそれだけのことじゃないか」
「私は、戦いしかできません。私には、戦うことが全てです。私は、飾り物になどなれるわけがございません。それを、それを否定されてしまったら、私は―」
 その言葉は、完全にシュナイゼルの触れてはならない部分に触れてしまった、とラーズは思った。
 アスナが「戦いしかできない」などと言ってはならなかったし、シュナイゼルはずっとそれを否定し続けてきたのに。
 シュナイゼルにとっては―アスナはそれ以上の存在だったというのに。
「くどい!」
 会議場に響いたその声に、その場の全員が凍りついた。
 いつも優しい微笑を浮かべているシュナイゼルの姿はなく、荒らげられた声は恐らく兄妹であっても、それくらい長い付き合いのあるアスナでも初めて聞いた。
 ―ラーズだけは、一度、アスナがいなくなったことに勘気を起こしたシュナイゼルから聞いたことがあったので、黙って立っていたが。
 アスナが完全に凍りついてしまったことに、シュナイゼルは漸く気付いたのだろう。
 声を荒げてしまった自分の顔を隠すようにして、手を添えた。
「……戻りなさい、シュヘンベルグ卿」
 今日ははじめてのことばかり起こったな、とラーズだけが冷静に考えていた。
 シュナイゼルがどういう形であれ、アスナを「騎士」という形で取り扱った。
 シュヘンベルグ卿と呼ばれたアスナは、それを望んでいたはずなのに―ひどく傷ついた顔をした。
「この際だ、はっきりと言っておこう」
 もう、ここまで来たら、何を言ってもアスナを傷つけることはわかっていたがシュナイゼルにも譲れないことがあった。
「私は、私のいる戦場で君を使うつもりは微塵もない。今後、君は皇帝陛下の元で運用されることになるだろうが―その役割も次第とコーネリアへと移ってゆくだろう。いい機会だ、休暇を取るといい。長らく、失明しているのに酷使しているというのがおかしい状態だったのだから」
 多分、その言葉は半分も耳に入っていないだろう。
 アスナにとって、最もショックだったのはシュナイゼルに使うつもりがないと言われたことだった。
 ―アスナは皇帝の剣だが、心はシュナイゼルの騎士だった。
 あの日の約束に、アスナは生きている。
 恐らく、この場に六年前、アスナがどういった思いであの地獄を抜けてきた知っているものがいたとするなら、全員がアスナへの死の勧告に等しいと思っただろう。
 間違いなく、アスナは今、泣くのをこらえていた。
「…………私は、私は……」
 ―許されないのですね、と小さく呟いた。
 その声は恐らく誰の耳にも届かず、シュナイゼルも普段なら聞き逃さなかったのかもしれないが自分がアスナに声を荒げてしまったショックから耳には入っていなかった。
 アスナはすく、と立ち上がった。
 表情はわからなかった。
 紅く、長い髪がアスナの顔を覆い隠してしまう。
 だが、わずかに覗き見えた唇が震えている。
「お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。―これにて失礼いたします」
 足取りも確かなままアスナは会議室から出ていったが、その出入り口ですれ違ったラーズとビスマルクは見てしまう。
 シュナイゼルの前だからと必死にこらえようとしていた涙が、早歩きになる勢いのままにこぼれ落ちてしまっているのを。
「―殿下、泣いていたよ」
 ラーズが小さくつぶやくように告げると、その肩がわずかに震えて、そして、長い前髪をかきあげるようにしたシュナイゼルは弱々しく首を横に振った。
「これでいいんだ。―これで……」
 ラーズは別にシュナイゼルの味方ではないから、シュナイゼルを応援するつもりもない。
 アスナとシュナイゼルがくっつくなんて、昔は大層嫌で何回邪魔をしに行ってやろうかと思っていたくらいだ。
 今だって、基本的には変わらない。
 だが。
 今回の件は流石にまずいのではないかと思った。
 アスナを戦場から遠ざけようとしてくれるのはうれしい。
 ラーズだってアスナに戦ってほしいと思ったことは一度もなかったし、アスナが傷つくばかりなのを見ているのはもう辛かった。
 ラーズではアスナを戦場から遠ざけることはできない。
 だから、ラーズはアスナと同じ位置に立とうとした。
 せめて、火の粉の盾になれるようにと。
「ラーズ、アスナを頼んでもいいかな」
「……わかった」
 本来なら不敬ものだが、イエス・ユア・ハイネスは使わなかった。
 だって、今の彼は皇子として言ったわけではないから。
 ラーズはシュナイゼルに背を向けて、アスナを追った。
 双子がいなくなり、シュナイゼルは漸く息を吐き出した。
 まさか、声を荒げてしまった自分に驚かざるを得ない。
 周りの視線が痛くてたまらない。
「シュナイゼルよ」
 父王に呼ばれ、シュナイゼルは顔を上げた。
 それの表情からは何を考えているかは読み取れなかったが、シュナイゼルはアスナが戻ってきた日の伯父の姿を思い出した。
 力なく、憔悴した彼を見たのは後にも先にも今のところはあれ一度だけであった。
 よく見れば、二人の顔立ちは似ていないこともない。
 当たり前だ。
 母親が違うとはいえ、先代ブリタニア皇帝の息子であった伯父と父が似ていない理由がないのだ。
 ―恨むな、と伯父には言われた。
 ―恨みなど、抱きようもない。
 だが、彼がアスナを戦場に駆り立てているのは確かだった。
「あれを人とみなすか」
 その言葉に、シュナイゼルはわずかながら苛立ちを感じて柳眉をしかめた。
 アスナを何だと思っているのか。
 都合よく動く駒などではない。
 いや―一人の軍略家として考えるのなら、アスナは戦場で最も華々しく駆け抜けるナイトだ。
 だが、その裏でどれほどアスナが傷つき、嘆き、絶望しているのかと思えば、シュナイゼルはアスナをチェスの駒のように単純に動かすことはできない。
「それが逆にあれを追い込むこともあり得るぞ」
「……それは、いかなる意味ですか、父上」
 一人で苦悩して、戦いに打ち震えるアスナを知らないからそういう事を言うのではないか。
 こればかりは父の真意を測りかねた。
 シュナイゼルが意図を読みかねていることがわかったのか、それとも単純に会議が終わったが故なのか、シャルルは立ち上がる。
 それが会議の終了の合図となり、一人、また一人と会議室を後にしていく。
 ―最も多忙であるはずのシュナイゼルが唯一人、会議室に留まり続けていた。
 ただ、言いようもない気持ちは消化しきれなかった。







***

 あの日に血に染まってしまった手は何度洗っても綺麗にならないような気がした。
 撥水の良いタイルに覆われている華美ではないが造りの良い浴室には大きな浴槽があり、傷だらけの身体を晒して浸かっていた。
 赤い髪が湯の中に浮かび、湯の中には無数の薔薇の花びらが漂っている。
 湯の中で、ぼんやりと視線を泳がせているアスナはどこか虚ろであり、壊れてしまった人形のようにも見える。
 目の見えないアスナのために控えている二人の侍従が心配そうにそんなアスナを見ているのだが、彼らのことなどアスナの頭の中には入っていないのだろう。
「……殿下」
 ―どうしてなのですか。
 浴室の中に、一つ嘆きのようなものがこぼれ落ちた。

 あれから、半年。
 アスナは皇帝陛下からの勅令で戦場へ出ることがあったがシュナイゼルの予告どおりに、彼が指揮をする戦場に駆り出されることはなかった。
 二人は皇宮にて顔を合わせても、以前のような気安さは感じられず、皇子と騎士のよそよそしさがそこに存在しており、古くから知る臣下たちを当然のように混乱させたし、シュナイゼルの妻の座を射止めたい令嬢たちは浮足立った。
 これまではアスナが邪魔で仕方がなかったのだ。
 大公爵とはいえど、汚れた騎士の分際で世にも麗しい殿下のお傍を射止めていたことがおかしかった。
 元は確かに婚約者だったのかもしれないが、自ら大公爵となってその座を蹴ったのはシュヘンベルグ大公爵自らであったくせに、未だにシュナイゼルの傍にあるなどと―。
 その陰口はアスナとシュナイゼルの距離が離れれば離れるほどに大きくなっていき、半年も経てば宮廷中でささやかれることとなっていた。
 もちろん、女性ばかりではなく、今までアスナが宮廷内で跋扈して歩くことに不満をいだいていた爵位を持つ貴族たちも同じであった。
 これまでは皇帝の姪であり、優秀な第二皇子にも期待されているアスナに大きな権力におびえていただけで、不満は募っていたのだ。
 皇帝は未だ騎士としてアスナを登用したがるが、シュナイゼルがアスナを見捨てたのならばその芽はないと思ったのだろう。
 シュナイゼルは宰相、しかも、あまりにも優秀であるせいで次期の皇帝として皆が期待しているのだから。
 噂が広まれば、広まるほどアスナの肩身が狭くなるかとも思われていたが、アスナの心臓は毛が生えているどころか鋼でできていたし、そもそもの功績があったのもあってか、厚顔と如何に周りに囁かれようとも―いつもと変わらぬ出仕をしていた。

 だが。
 あの日以降、シュナイゼルとアスナの間に会話は一度も見られず、目があうこともなかった。

 この手の冷戦は放って置くに限るというのがカノンの心情ではあったが、日に日にため息が増えていく主を見ていると側近としては少しばかりなにかすべきなのではないかという思いに駆られる。
 シュナイゼルはどうあっても、外では完璧な第二皇子であった。
 どれだけ心情が優れなくとも、優美な笑顔が崩れることは一度もなかったし、仕事に差し支えが出ることはまったくなかった。
 だが、ふとした瞬間にシュナイゼルは誰かを探すのだ。
 ―いや、誰かなどと遠まわしに言う必要はない、アスナを探しているのだ。
 仕事がなくては会わなくなってしまった二人にはもどかしさを感じざるを得ない。
 カノンにとっては、アスナとの付き合いが始まったのはシュナイゼルの側近としての道が決まった時だ。
 それ以前はただ伝え聞くだけだった彼女のことを、詳しいとは言えない。
 それでも、二人の気持ちは同じなのだと信じていた。
 シュナイゼルはたしかにアスナを必要としていたし、アスナもシュナイゼルを必要としているように見えていたのだが。
 気持ちなど、簡単にすれ違ってしまうということなのね、とカノンは手持ちの書類を揃えて嘆息した。
 書類を提出するために、カノンは皇宮内を歩いていた。
 昔に比べてデジタルも増えたが、未だに重要な書類は手書きのサインや捺印を必要としていたし、こういったものは形式をとても重んじるので皇宮内ではまだまだ当たり前のように紙の物が多かった。
 シュナイゼルはまだ多くの案件を抱えていて宰相府から出られそうもなかったのでカノンが引き受けたわけだが、その道中で噂の渦中の人物に出会った。
 ―赤い髪が焔のように揺蕩い、その瞳は憂い気に皇宮内に見える庭園へと向けられていた。
「……―マルディーニ卿か」
 彼女に声をかけたわけでもなければ、特段近いわけでもなかったのだがアスナは静かにそう呼んだ。
 その声は落ち着きすぎていて逆にこちらが動揺してしまい、え、あ、としばらく言葉にならない声を発してしまうほどだった。
「お、皇宮へ用事が?」
「……いや、宰相府に軍運用計画書を提出しなくてはならずどうしようかと悩んでいたところだ」
 アスナは少しだけ困ったように笑って、手元の封筒をカノンに見せた。
 軍機構の最終責任者は宰相だ。
 ラウンズとはいえど、騎士団を一つ運用しているアスナはその行動計画は定期的に宰相府へ提出する旨が義務付けされており、そういえばそろそろ提出が来る頃だとカノンも思い出した。
「直接出しに行かなくてはならないのだが、どうにも宰相府には踏み入りづらくて」
「それは―あの、殿下のことで?」
 カノンも少しだけ言葉を濁した。
 アレほどまで懇意にしていた二人が今では殆ど会話もないなどということは宮廷内では当然のように広まっていることだが、アスナがそれをどう思っているか測りかねたため、そうした。
 アスナはそれが正解だと言わんばかりに嘆息した。
「……私は、殿下の勘気を買うようなことをしてしまったのだろうか」
 そこに―ブリタニアの英雄とまで言われた騎士の姿はなく、ただ、大切な人に嫌われてしまったのかと怯える一人の少女がいるだけだった。
 カノンは少しだけ首を傾げた。
「てっきり、私はあなたのほうが殿下の行動に腹を立てているのかと思いましたわ」
 その言葉にアスナはふと笑った。
 小さく、その唇で「まさか」という。
「私が殿下に腹を立てるなどないよ。殿下のお考えはいつだって先を見通しておられる。ただ、殿下のお気持ちが今は見えないんだ」
 これまでも全てわかっていたわけではないけれど、とアスナは少しだけ泣きそうな顔をした。
 ずっと一緒にいたのだと、シュナイゼルから聞いた。
 二人が刻んできた時間は何よりも重い。
 故に互いの気持ちが見えなくなると途端に不安になるのかもしれないとカノンは気付いてしまったが、今、敢えて言うことは何もなかった。
 そんなカノンを見ることもなく、アスナは少しだけ口を開いた。
「私は、皇帝陛下の騎士になる前までは、殿下の―シュナイゼル殿下の専任騎士になるために励んでいた。お側で殿下を守ることが私の務めだと、皆にそう言われていた」
 アスナは静かに握りこぶしを作る。
「それを疑いもしなかった。婚約者と言われてもあまり自覚がなかったし、騎士というのはすごくわかりやすい目標だった。―まあ、おかげで騎士としての勉学や、レディとしての嗜みを同時進行で勉強させられたわけだが」
 スパルタだったよ、とアスナは少しだけ遠い目で話した。
 確かに立ち居振る舞いは騎士の如く研ぎ澄まされたものも感じるが、その奥には女性らしいどこか柔らかな雰囲気がある。
 徹底した騎士教育と、シュナイゼルの妻になるべくして身につけられた教養というやつなのだろう。
「私は、ただ、殿下をお守りできればよかった」
 その声はあまりにも小さく消えそうだった。
「……では、なぜ、殿下のお傍から離れたの?」
 それこそ、専任騎士にでもなれば一緒にいられたはずだし、婚約が有耶無耶になって微妙な立場に置かれることだってなかっただろう。
 アスナはわずかに顔を上げた。
「それもそうだな。……でも、そこでは私は殿下を守りできないんだ。―もう、私の手は」
 そういいかけた口はきゅ、と固く結ばれてしまった。
 泣きそうなその顔は虚ろに虚空を見つめるだけ。
 多分、その光すら捉えられない目の先にいるのはシュナイゼル殿下なのではないかとカノンは思った。
「申し訳ないが、マルディーニ卿、これを殿下に渡しておいてくれないか」
 そう言って封筒を押し付けた。
 ルールでは完全に違反というか、厳密として重要書類は自分で提出に行くのが基本だ。
 だが、アスナはシュナイゼルに会うことを避けた。
「―今、私は殿下がわからないから」
 会っても、自分の感情をぶつけてしまうのが怖い。
 騎士であることのできない自分が嫌い。
 カノンが封筒を受け取ってくれたことに気付いたのか、アスナは笑って「ありがとう」といい、踵を返した。
「シュヘンベルグ卿」
 そう言って声をかけたカノンに対して、アスナは足を止めると少女のような笑顔で言った。
「アスナでいいよ。その方が気は楽なんだ」
「じゃあ、私もカノンでいいわ。……殿下は、あなたのこと」
 思っている、と言おうとして言葉を止めてしまったのはその答えをすることをアスナが怯えているように見えたからだ。
 小さな子供が一人でいることに怯えているような笑顔を浮かべながらアスナはそれじゃあ、と片手を上げて去ってしまう。

 きっと、彼女は殿下のことを心から愛している。

 たとえ、いくら道が違うとも、心の奥からシュナイゼルを思い、慈しみ、守ろうとするからこそ彼女は戦いを望んでいるのだろう。
 シュナイゼルの指揮下で、彼のもとで戦えたらきっと彼女は望外の喜びなのだろう。
 ―でも、それをシュナイゼルが望んでいないのはカノンでもわかる。
 シュナイゼルはアスナに戦ってほしいと願ったことなど一度もなく、ただ、自分の隣に立ってそばに居てくれる人として彼女を望んでいた。
(ああ……こじれてしまっているのね)
 互いが大切すぎて、何も見えなくなってしまっていて。
 アスナの不安は恐らく、自身の目が見えないことからも来ているのかもしれない。
 いくら感じ取れるとはいっても、正しいとは限らない。
 シュナイゼルの表情が見えなくなってしまって、目の前の人がわからなくなってしまって。
 ―きっと、今、彼女はシュナイゼルが自分の目の前にいることすら気づけないままなのかもしれない。

 言えば済むことを、言わないままでいる。

 アスナはふと、薔薇園へ足を運んだ。
 シュナイゼルと逢瀬によく使っていた、あの薔薇園である。
 仲違い―というか、口論のようなものをしてから半年ほど足を踏み入れてはいなかったが、手入れは相変わらずされているようであったし、警備がしっかりとしているらしい。
 彼らはアスナを見つけると敬礼をした。
「しばらく、一人にしてくれ」
「……承知いたしました」
 それ以上は何も聞かない彼らに感謝して、アスナは四阿へ一歩踏み入れた。
 薔薇のチャペルで囲われているそれの中は思ったよりも寒く感じられ、全て覆っているはずの肌の上を刺すような風が通り抜けていき、身を震わせた。
 もう冬が近づいている証拠で、後ひと月もしないうちに雪でも降るだろう。
 ひんやりとした石のベンチに腰掛けて、アスナはふと目を閉じた。
 今日の仕事はとりあえず決着がついた。
 もしかしたら、シュナイゼルから連絡が入る可能性もあるが今のところは皇帝からどこかへ侵略しろと言われることもなく、訓練も一通り終わっているアスナは身軽だった。
 部下たちの教練が行われているはずであったが、そちらはラーズが朝から張り切っていたので心配もない。
 最近は随分と周りがゆとりのある仕事を組んでくれるようになった。
 昔のように詰め込むだけ詰め込んで、寝る時間などいらないというようなスケジュールは一切なくなり、国内で顔見世の公務も出てくるくらいだ。
 だが、それはアスナにとって不本意だった。
 ―眠る時間を与えられるたびに怖くなる。
 ―ふと、物思いに耽る時間ができると、思い出す。
 アスナはこうして、一人になって、考える時間ができてしまうと少しだけ怯えてしまう。
(殿下は……もう私のことなど必要とされておられないだろう)
 コーネリアも主戦力として揃いつつあったし、それ以外でもKMFの配備が進んでゆく都度、アスナという存在はお飾りになる。
 シュナイゼルに言ったとおり、アスナは置物の剣になりつつあるのだ。
 そこにあるだけで皇帝の権威を象徴するものになれ、というシュナイゼルの言葉通りに。
(……こんなことのために、私はあの地獄を乗り越えたと)
 数多の命を奪った。
 祝福されるべき人たちの未来を奪った。
 己のエゴで多くの人を穢した。
 許されざる者が、お飾りとなり安穏と生きることを誰が認めるというのだろう。
 アスナは熱狂的な、という程ではないがクリスチャンであった。
 そもそも、国は多く、教会とのつながりがあり、アスナも父、クロスも大公爵職を辞してからは、姦淫をやめ、教会への奉仕やミサへの出席を惜しまなくなっている。
 アスナも幼い頃からミサへは必ず出席するようにしていたし、何かあれば教会に説法を聞きに行っていた。
 もしも、この世界に神がいるとするならば―。
(真っ先に私は天罰が下るのだろう)
 フランスの旗振りの聖女は魔女と罵られ、火刑に処されたのだという。
 ならば、今すでに魔女と呼ばれる自分は火刑よりもひどい目に遭って死ぬのだろう、と思ったらアスナはすとんといつも納得がいくのだ。
 司祭たちはいつもアスナの懺悔を心優しく聞いてくれた。
 だが、アスナは天国になど縁がないと思った。
 目が見えないから余計に思うのだ。
 手も、足も、今歩いている道ですら、全て血に染まっているのではないか―などと。
 疲れているのですよ、と一人の司祭はアスナを慰めた。
 休暇を取りなさい、少しだけ気持ちを切り替えなさい、と皆が口をそろえていった。
 だが、一人になれば、休暇をとって時間ができれば、仕事から離れれば、怨念が聞こえてくるのだ。
 自分が殺してきた数多の人間たちの声。
 恨みつらみ、足を絡め取る無数の人の手のような錯覚。
 アスナを苛むそれらはきっとどれだけの月日が経とうとも消えることがないのだろう。
(……そんな、私が殿下のお側になど烏滸がましいことだったのだ)
 かつてのような木漏れ日で。
 あの人と柔らかな日々を過ごすことができたらなんて、所詮は夢のようなことなのだ。
 だって、自分たちは明確に変わってしまった。
 アスナは騎士として、人を殺す。
 シュナイゼルは宰相として、多くの人を救わねばならない。
 アレほど一緒だったはずの人が、一番遠くなってしまった。
 それがとても寂しくて、悲しくて。
 でも、活躍している彼を見ていると少しだけホッとする自分がいて。
 世界で一番大好きな人。
 自分がいなくて済むのなら、それに越したことはない。
 いずれは彼の元から去らなければ、ならなかったのだから。
 じわり、じわり。
 自分は陰をゆくもの。
 浮かんでは、こぼれていくそれは暖かくて、切なくて、悲しくて。
 剣は朽ちることはなく。
 時とともに、錆びて折れるだけ。
 はらはらと落ちていくそれを拭ってくれる人はおらず、嗚咽も上がらない涙は誰にも気づかれないまま。
「……殿下」
 この言葉を口にするだけで、少しだけ救われる。
 少しだけ、生きようと思える。
 たとえ、あなたが私を必要としていなくても。
 たとえ、この世界が私を嫌っていたとしても。

 ―今はまだ、私はあなたのために戦いたい。

 瞼の裏に焼き付いた、シュナイゼルの影が少しだけ許すようにして笑った気がした。
 コーネリアはいつもユーフェミアに言った。
「今はあの二人もああだが、昔はもっと仲が良くて、毎日いっしょにいても飽き足らないような感じだったのだ」
 ユーフェミアは幼かったのであまり覚えていないが、アスナは昔、誘拐されている。
 その時に、一度、アスナは死んだのだと、コーネリアがユーフェミアを抱きしめていった。

 すごく、すごく悲しかった。
 お葬式にも参列させてもらった。
 アスナが帰ってこないと、一番悲しいのはシュナイゼルお兄様なのに、お兄様が一番平然とした顔をしていた。
 悲しくないの?
 そう聞いたら、お兄様は困ったように笑った。
「とても、―とても悲しいよ、ユフィ」
 お兄様のその表情はとてもよく覚えている。
 なんだか、なんにも感じていないみたい。
 悲しい、と口にしているのに、どこか虚ろで、なにもないみたいで。
 お兄様は本当にアスナがいなくなって悲しいのだろうかと、少しだけ考えてしまって―でも。
 でも、お兄様は。
 アスナが大切にしていた薔薇園を毎日訪れた。
 どれだけ自分が忙しくなろうとも、皇宮にいる間は必ず薔薇園を訪れて、その薔薇の手入れをした。
 アスナが見つかるようにと最後まで尽力していた。
 多分、あの時の、あの表情は―どうしようもなかったのだと気付いた。
 お兄様は、アスナがいなくなったから、どうしていいかわからなかったと。
 アスナがいなくなってしまったから、感情を出しようがなかったのだと。
 だから、アスナが帰ってきて一番嬉しかったのはお兄様のはずなのに。
 ―二人はいつも悲しそうな顔をしている。
 どうしようもならないこともあるんだよ、ユフィ、とお姉さまは言うけれど。

 ユーフェミアはとてももどかしかった。
 だって、二人が愛し合っているのは誰もが気付いていることなのに。
 どうしても、二人を認めたくない貴族たちがヒソヒソとアスナに陰口を叩いているのを聞くのはとても悲しかった。
 それを気にしていないというアスナは今日もどこ吹く風で、シュナイゼルもそれを気にしている様子はなくて。
 ―どうして言わないのだろう。
 と、ユーフェミアは思ってしまうのだ。
 シュナイゼルがアスナに対して声を荒げたのだという話はユーフェミアも耳にしている。
 その話を聞いて、とても悲しかった。
 あんなに仲が良かった二人が、喧嘩をして、半年も口を利いていないという事実が悲しい。

「私にだって、うまくいかないことはたくさんあるよ」

 コーネリアに用事があって訪ねてきたシュナイゼルを捕まえてユーフェミアは聞いてみた。
 ―アスナと仲直りしないのか、と。
 眼の前の兄は一瞬面を食らったような顔をして、とても寂しそうな笑顔を浮かべるとそういうのだ。
 ユーフェミアにとってシュナイゼルはコーネリアと並んでとてもすごい人だという認識があった。
 ゲームでも、勉強でも、何でもいつでも一番で、ユーフェミアにとっては一番身近だったルルーシュよりもいつも何でもできた。
 だから、そんなシュナイゼルからうまくいかないことがあると聞いてとても驚いたのだ。
「どうして? アスナのことでしょ?」
 ユーフェミアの純粋な疑問に、シュナイゼルは再び困ったような笑みを浮かべたままだった。
「アスナのこと、だからだよ」
 ユーフェミアはわからない、というように首を傾げた。
 確かにアスナは難しい顔をすることが多くなったし、ユーフェミアを殿下と少しだけよそよそしく呼ぶことが増えたけれど、その本質が変わったとは思えなかった。
 昔のようにおてんばをするユーフェミアを抱き上げて、優しくお話をしてくれたし、お花を摘めば花冠を作ってその頭の上に乗せてくれる。
「大人になってうまく伝えられないことばかりなんだよ」
 シュナイゼルは紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
 隣ではコーネリアが神妙そうな顔をしている。
 最近では姉、コーネリアが外に出て仕事をすることが増えていて、久しぶりに帰ってきたのだが、彼女にもアスナとシュナイゼルの仲違いの話は耳に入っているのだろう。
「お互いに譲れないんだよ、ユフィ。私はアスナを守りたい。大切な人だから、戦ってほしくない」
 シュナイゼルはそういいながら紅茶の水面を見つめた。
 あの光のない目で、凄惨な戦場を歩き続けることは過酷であろう。
 少しでも、彼女が安心して、落ち着いて暮らすことのできる場所を。
 そのためにはまず、彼女を戦場から遠ざける必要があって。
 と、考えていたシュナイゼルは目の前でユーフェミアが首を傾げていることに気付いた。
「ユフィ?」
「どうして、お兄様もアスナも難しいことばかりなのかしら?」
「え?」
 シュナイゼルは少しだけ目を見開いた。
 難しいことというほどのことはないと思うが。
「だって、いえばいいじゃないですか。君が大切だから、君に笑顔でいてほしいから、戦ってほしくない、守らせてほしいって」

 ―目からウロコが落ちるような気分だった。
「だって、アスナには伝わっていませんよ? きっと、アスナは自分がシュナイゼルお兄様に嫌われてしまった、って思ってると思うもの」
 シュナイゼルは少しだけ、驚いてしまった。
 いや、本当に当たり前のことなのに、失念しまっていたというか。
 甘えていたのだ、アスナに。
「うまくいかないのは、ちゃんと伝わってないから、か」
 シュナイゼルは小さく呟いた。
 アスナなら、わかってくれる。
 そんなことを思って、肝心なことを言わないでいたのではないかと。
 自分の気持ちを彼女は理解してくれている、なんて、どうしてそんな酷いことを考えてしまったのだろう。
 自分が一番わかっているじゃないか。
 人間である以上、自分が他者になれない以上、完全に他者の気持ちをわかることなどありえない。
(ああ、なんてことだ)
 こんな簡単なことに気付かないまま。
 シュナイゼルは少しだけ微笑むと、立ち上がった。
「すまない、コーネリア。私はこれで失礼するよ」
「え、ああ、それは構いませんが……」
 仕事の話はとうに済んでいて、ユーフェミアにせがまれてお茶会に参加しただけのことだったのだ。
 用事を思い出した、と言わんばかりの兄を引き止める理由はコーネリアにはない。
 それに、アスナのことならば引き止めるだけ無駄だと知っていた。
「ああ、ありがとうユフィ。君のおかげで少しだけわかったよ」
 それじゃあ、と足早に近くにいた従僕に声をかけて去ってしまうシュナイゼルの背中をコーネリアとユーフェミアは視線で追いかけて、その姿が見えなくなると顔を見合わせた。
「なんというか、兄上はアスナが絡むと周りが見えなくなるな」
 呆れたような、しかし決してそれを嫌ってはいないのだろう微笑ましさのある口調でコーネリアは言った。
 昔から一緒にいすぎて、近くにいすぎて見えなくなってしまった相手を漸くシュナイゼルは見つけることができたのだろうか、と思えば少しだけ嬉しくなる。
 コーネリアにとってシュナイゼルは尊敬する兄であるし、アスナは大事な親友であり、戦友だ。
 二人がなにか思い悩んだ顔をしているくらいなら、笑っていてほしいと思うのはすごく自然なことで、特に二人が揃って笑っているのが一番いいと思える。
「お兄様も意外と不器用なのね」
「ふふ、きっとアスナだからだな。あれはこの国で最も頭の切れる男ですら振り回す女だったということか」
 コーネリアが楽しそうに笑った。
「ねぇ、お姉様、次はアスナと一緒にいらっしゃるかしら」
 ユーフェミアがにこにこと笑うので、コーネリアは柔らかく微笑んで、その頭を撫でた。
 結局の所、あの兄を決心させたのはユーフェミアだ。
「もちろんだ。二人で来てくれるだろう」
 その言葉に、ユーフェミアは嬉しそうに頷いた。
***

 呼びつけようと思えば、いくらでもアスナは自分の前に現れるということぐらいシュナイゼルもよくわかっていた。
 アスナは騎士である以上、いくら皇帝が至上の存在であったとしても、宰相であるシュナイゼルの立場も重んじていたし、昔からアスナは心だけは自分の騎士でいてくれた。
 そんなアスナだからこそ、甘えていた。
 自分についての何もかもを理解してくれていて、自分がどうしてアスナを戦場から遠ざけたのかも、理解してくれているのだと思っていた。
 ―当然、ただの願望だ。
 だからこそ、アスナがあそこまで拒否を示したことが信じられなかった。
 どうしてわかろうとしてくれないのか、そればかり考えて、自分の考えを押し付けてしまった。
 アスナがどうしたかったのか、考えもしないまま。
「ああ、すまない。誰か、アスナを見かけなかったか」
 皇宮の廊下で数人の兵士を呼び止めて聞いてみると、彼らは一様に驚いた顔をした。
 あの宰相閣下自ら探しているなんて、という表情で一人の兵士が「よろしければ、こちらで探して宰相府までとお伝えしますが」と言ってくれるが、それでは意味がないのだ。
 シュナイゼル自身が、自分の意志でアスナに会いに行かなくては。
 しかし、どの兵士たちに聞いてもアスナの姿は見かけていないという。
 カノンに書類を渡してから、幾分かの時間は経っているとはいえ、おかしいな、とシュナイゼルは考えつつも、自然と足は薔薇園へと向いていた。
 ―ここにアスナがいるのではないか、と期待を込めて。
 薔薇園を守るように命じられているのは、アスナの旗下にある騎士団だ。
 彼らはシュナイゼルを見つけると、静かに礼をし、四阿へ視線を向けた。
 どうやら、シュナイゼルの願いはかなったようで、アスナは四阿の中で一人、ベンチで眠っていた。
 兵士たちには下がっているようにと命じる。
 彼らは一瞬困惑したような顔をしたが、頼むよ、とシュナイゼルが告げると何かあれば呼び出してくださいとだけ伝えて、下がっていった。
 薔薇のチャペルの中で、静かに眠っているアスナを見つけて、少しだけホッとした。
「……アスナ」
 その頬は涙で濡れていた。
 目尻には涙の跡が残り、丸まって眠っている姿はまるで夜に怯える子供のように見えた。
 その頭をそっとなでた。
 昔に比べて、ずっと伸びた赤い髪は相変わらず艶もよく、シュナイゼルの指をするりと通り抜けていく。
「……ん、で……んか……?」
 寝ぼけた声で、シュナイゼルを呼ぶ声。
 シュナイゼルは優しく、うん、と答えるとアスナの目が大きく見開かれて、そしてシュナイゼルの手から逃れるように体が大きく跳ね上がった。
「で、殿下?」
「そうだよ。おはよう」
「……あ、お、おはよう、ございます」
 困惑しているようだった。
 アスナはどこか、虚ろにシュナイゼルを見上げていて。
 半分くらいはまだ、夢の中にいるような心地だったのだろう、そっとシュナイゼルの方へと手を伸ばしてきて―そして、その手を握った。
「……殿下、だ」
 シュナイゼルの存在に気づき、安堵した表情を浮かべ、アスナはそっとその手に擦り寄ろうとして―意識が目覚めたらしい、慌ててその手を離すと飛び退いた。
「で、殿下!?」
 どうして、ここに、と叫びかけた言葉は発せられることなく、離したはずのシュナイゼルにもう一度手を繋がれたからだった。
「なんだか、すごく久しぶりだ」
 細い指の一本一本を確かめるようにして、手をなぞりながらシュナイゼルはそう言って微笑んだ。
 半年もろくに顔を合わせず、目も合わせず、話をしたとして仕事のことばかりだったのだ。
 あの一年もすごく長く感じたシュナイゼルだったが、この半年はあの一年に負けず劣らずに長く、苦しいものだった。
 ―自分から突っぱねておいて、何を言い出すかと言われればそこまでのことであったが、シュナイゼルには耐え難い半年だったのだ。
「……あの、ご用事があったのでは。何も、殿下から赴かれなくとも、私がまいりましたのに」
 手を振り払う真似はせず、アスナはできるだけ声を抑えた。
 でなくては、動揺がシュナイゼルに伝わってしまいそうで怖かったのだが、シュナイゼルはアスナの硬い表情を前にして少しだけ表情をこわばらせたが、すぐに優しい笑顔へと戻った。
「うん、呼べば君は来てくれる。知っているよ」
 でも、それでは駄目なんだ。
 シュナイゼルの言葉が理解できない、と言わんばかりに首を傾げてアスナは目を見開く。
 恐らく、意識はしていないのだろうがそこには僅かな不安が滲んでおり、その表情からは騎士の仮面が外れていて、シュナイゼルのよく知る少女の顔をしていた。
「久しぶりに、ゆっくりと話がしたかったんだ」
 アスナを優しく見つめるその瞳にアスナは何も言えなかった。
「隣に座ってもいいかな」
「……ええ」
 いつもなら対面に座って話をするところだが、シュナイゼルは敢えてアスナの隣へと腰掛けることを選んだ。
 アスナは少しだけ場所を詰めて、シュナイゼルが座れるように隣を開けると、シュナイゼルが腰掛けるのをじっと待った。
 ―薔薇の香りが妙に心地よく、しかし、妙に心をざわつかせた。
「静かだね」
 シュナイゼルの声に、アスナは小さくそうですね、と答えた。
 宮廷の中はいつでも色々な音や声や雑音が耳について離れないが、この薔薇園の中はいつでも静かで、互いの声がよく聞こえてきた。
 ここだけはどんな喧騒も入り込んでこない特別な場所だった。

「私は、君が大切なんだ」

 まるで独白であるかのようにつぶやかれた言葉にアスナは目を見開いた。
「幼い頃から共にいてくれた。何かがなくとも、隣にいてくれた。―私は君が隣にいてくれると信じて疑わなかった」
 シュナイゼルがアスナの手を強く握った。
 いつの間にか手の大きさはこんなにも差がついてしまった。
 アスナはシュナイゼルよりも遥かに小さい背丈で、肩もずっと細く―初めて出会った頃に比べて、ずっと女性らしく、ずっと美しくなった。
 青と緑の宝玉のような瞳がシュナイゼルを見上げている。
「少なからず、私は父上を―うまく言い表せないのだけれど、妬いているのだろうと思う。君を取られたような気分になったのかもしれない」
 シュナイゼルが困ったように笑った。
「ああ、わかっているよ、これは間違っている。―むしろ、君の栄進を喜ぶべきだったんだと。でも、あまりにも、君が無理をして戦っているように私には見えたんだ」
 錯覚だと思いたかったのかもしれないし、そうではないかもしれない。
 シュナイゼルの記憶にある、アスナの手はいつでも震えていた。
 幼い頃から戦いを嫌い、剣を嫌い、草木を愛し、平和を慈しんだ。
 アスナが望んだ優しい世界は、アスナが戦うたびに遠ざかっていくのをシュナイゼルは一日進むごとに感じていた。
 戦場へ赴く度に、アスナが剣を握る度に、その笑顔が、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がして。
「私では君を守るのに、力不足だろうか」
 握りしめられた手が震えている。
「私は君を守りたい。君が大切だから、君に笑っていてほしい」
 悲痛な声だった。
「私は君の笑顔を心から愛している」
 その声は確かにアスナの心を打ち鳴らし、届いた。
(ああ、なんて、私は愚かな)
 どうしてこの人の思いを汲み取ることができなかったのだろう、とアスナは握られた手を強く、握りしめることしかできなかった。
 こうやって、触れあえば通じていたかもしれないのに。
 ちゃんと早く伝え合えば変わっていたのだろうか。
 自分が起こした行動で、彼女を傷つけてしまうなんて。
「すまない、アスナ。私は、いつも君を悲しませてしまう。もっと良いやり方があったかもしれないのに、君を無理やり戦場から遠ざけてしまい、君にあらぬ誤解を与えてしまった」
 置物の剣で良いなどと、今考えればとんでもなく失礼な発言であったことだろう。
 シュナイゼルが詫びる言葉にアスナは静かに首を横に振った。
「違います―違うのです、殿下。私が、私が殿下のお心を察することができず、一人で走ろうとして」
 シュナイゼルはただ、静かにアスナの言葉に耳を傾けた。
「殿下、私は―私はあなたを守りたい」
 絞り出されたような声に、シュナイゼルは目を見開いた。
 懇願するようなその表情に、それまでシュナイゼルが握っていたはずの手はいつの間にかアスナに握られていた。
「私も同じです。私も、いつも殿下を悲しませてしまう。私は、ただ、あなたの笑顔が見たいだけだった。あなたの隣にいたいだけだった」
 たったそれだけの願いだった。
 たった、それだけのことなのに、すれ違ってばかりだった。
 アスナは静かに涙した。
「どうか、私を許して下さいますか、殿下」
「許すも何も……もとを正せば、私が」
 君を泣かせているというのに。
 シュナイゼルはそっとアスナを抱きしめた。
 また、少しだけ痩せてしまったように感じるとすごく切なく感じる。
「ただ、殿下、私はあなたを守りたいのです。あなたの剣となり、盾となり、あなたとともに―」
 半年前も同じことを言われた、とシュナイゼルは苦笑した。
 だが、それとは少しだけ意味が違うように聞かれた。
 アスナは「シュナイゼルのために」戦いたいと告げているのだ。
 シュナイゼルと共に生きたいと思うから、戦いたいと告げるその唇にシュナイゼルは衝動的に口づけを落とした。
「……でん、か」
 驚いたように呆然と口と目を開けてシュナイゼルを見上げるアスナの顔が、あまりにも騎士とかけ離れていて、シュナイゼルはついつい笑ってしまい、そのままアスナを抱きしめて、肩口に顔を埋めた。
 甘く、香るアスナのフレグランスの匂いがシュナイゼルの心をそっと鎮めていく。
「―私のため、か」
 彼女の言葉を繰り返して、シュナイゼルはたまらなく嬉しくなった。
 多分、少しだけ父上にやきもちを妬いていたのだ。
 皇帝陛下の剣となり、その全てが皇帝のものになってしまったのだろうと思えば、チリチリと焼け付くような気分になって、アスナを見ていることすら辛かったというのに。
「ええ、そうです。私は殿下のための剣です」
 シュナイゼルの意図を理解したのだろう、アスナはそっとシュナイゼルに腕を伸ばして、その頭を抱いた。
 頬を擦る感覚がとても心地よくて、アスナが目を細めた。
「だからこそ、殿下に振るっていただきたいのです」
 優しい声でアスナは言った。
 あなたのための剣があなたに振るわれないなど。
「困ったな」
 シュナイゼルは顔を上げて、アスナの額に自分の額をあわせると笑った。
 その表情は困った、といいながら些かも困っていない。
「殿下?」
「うん、すごく嬉しい。ああ、今すぐにでも君を抱きしめて、閉じ込めてしまいたい」
 シュナイゼルは感情の赴くままにそう言って、再びアスナに腕を回すと強く抱きしめた。
「私は君に戦ってほしくない、という思いは変わりないよ。ただ、父上が君を使うくらいなら、私が君を使おう。私の目の届くところで、私の指示の通りに。―もちろん、全てがそのとおりにとは行かないかもしれないが、できうる限り、君の希望に沿おう」
 ―実際、宰相となって現場で指揮を執るようになれば、ラウンズを運用することだって十分にありえる。
 皇帝の剣ではあるが、戦場に行けば、現場指揮官に全てが委ねられるのは仕方のないこと。
「それでいいかな」
「……妥協点はそこでしょう。もちろん、全てが殿下の指揮下とは行かないでしょうが―陛下からの仕事も確かに減っておりましたので」
 アスナは苦笑しながら、シュナイゼルの頬へ手を回す。
 愛おしく頬をなでて、アスナは優しく微笑んだ。
「……ユフィにお礼を言わないとなぁ」
 シュナイゼルがつぶやくようにそういうのを聞いてアスナは首を傾げた。
「ユーフェミア様?」
「うん。―ユフィがね、アドバイスをくれたんだよ。ちゃんと伝えないと、って」
 君に甘えてしまっていたんだね、私は。
 そう言って、シュナイゼルは一度アスナから離れた。
 細い肩。
 まだ少しだけあどけなさの残る顔に入った傷。
 先程まで自分を撫でていた指も細い。
 シュナイゼルはふくりとしている唇に再び、口づけた。
 今度は触れるだけではなく、少し長く。
 閉じられた唇を舌で撫でると、アスナがふるりと震えて、少し怯えたようにしながらも口を開けた。
 そこに舌を入れて、アスナを味わうように何度も角度を変えて口づけた。
「ん……っ、ふ、んんっ……」
 シュナイゼルは薄っすらと目を開けた。
 固く閉じられたまぶたからわずかに涙が滲んでいる。
 白い頬は蒸気して、赤くなる。
 少しずつ、少しずつ、慣れてきたのかアスナはおずおずとシュナイゼルの舌に自身のそれを絡ませてきた。
 その頃には、まぶたはゆるゆると開き、涙でうっすらと滲んでいる青と緑色の瞳がシュナイゼルの前に現れた。
(かわいらしい)
 少し戸惑ったように回された腕がシュナイゼルの服を掴むと、シュナイゼルは嬉しそうに目を細める。
 騎士と皇子。
 本来なら許されるはずもないだろうと思うが、ブリタニアでは決して例がないわけではない。
 そもそも、皇帝シャルルは自身の騎士である、ナイトオブシックス―閃光のマリアンヌを后に召し上げているし、皇女たちの中には異性の専任騎士と結婚したというものもいる。
 そもそも、アスナとシュナイゼルは婚約者であった。
 アスナが爵位を持ったせいで有耶無耶になってしまっただけの話。
 シュナイゼルはそっとアスナをベンチの上に押し倒した。
「で、殿下、なりません……っ」
 アスナが漸く慌てだしたのを見て、シュナイゼルはくすりと笑って、その額にキスをした。
「まさか、外ではしないよ。―護衛の人たちもいるしね?」
 シュナイゼルの言葉に一気に顔を赤くしたアスナが、殿下、と叱責にも似た声を上げたので、つい声を上げて笑ってしまう。
 「―ああ、でも」ゆっくりと体を起こしながら、アスナはシュナイゼルへ顔を向けた。
 シュナイゼルはそんなアスナの耳元にそっと顔を近づけると柔らかく微笑む。
「今晩は私の添い寝をしてくれるのだろう?」
 脳に直接響きそうな甘く蕩けそうな声にアスナは肩を震わせて、シュナイゼルを見る。
 きっと―眼の前の彼はとても楽しそうな顔をしているのだろうと思うと、少しだけ憎たらしい気分になったが、そもそも、断る理由がなかった。
 ―アスナだって、シュナイゼルを必要としている。
「殿下が、それをお望みならば」
 せめて、騎士の矜持は守らせてもらおう、とアスナは少しだけつれない返事をして微笑んだ。


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