ハッピー・オレンジ・デー


 夜も更けてきた頃、ジェレミアは作業中のパソコンからそっと顔を上げた。農園の管理データが並んでいるパソコン画面から顔を上げて目頭を抑えた。疲れるを感じる身体ではないが、長時間同じ姿勢、同じ作業を繰り返しているのはやはりどことなく気分的に疲れてしまうのだろう。ジェレミアは凝り固まってしまった身体を解きほぐすように腕を伸ばした後、肩を回して椅子から立ち上がった。夕暮れ時に農園――オレンジ畑の作業を切り上げてきて戻ってきた後からしばらく時間が経っているようで、外はもう薄暗かった。そろそろ夕食の声がかかるだろうか、とジェレミアはそのまま階下のリビングへ降りようと思ったところで、少しだけリビングが賑やかなのを、サイバネティクスされ特殊な耳がついている左耳が捉えた。
 この家にいるのはジェレミアの妻であり、医療サイバネティクスの権威として国内外に名前を知られているイブニングと、一応戦犯であるジェレミアの監視役としてブリタニア軍から派遣されている元ラウンズのアーニャの三人しかいないはずで、もちろん声もその二人のものだった。しかし、イブニングは学会の発表があるからとエリア11の片田舎であるこの山奥から、先週本国に向けて出発したばかりであり、帰宅の予定は数日後のはずだった。予定が早まったなどという話を耳にしていなかったジェレミアは首を傾げながらも、静かに階段を降りてリビングへと向かうことにした。

「アーニャちゃん、どうでしょう。うまく行ってますか?」
 オーブンを覗き込んでいるアーニャに向かってエプロンを付けているイブニングは柔らかく問いかけた。アーニャはいつもどおりの無表情のままこくりと頷くので、イブニングもほっとしたように笑ってまな板の上に乗っている野菜を切り分けていく。
「ジェレミアはまだ仕事中。こっちももうちょっとで完成」
「はい。後はミートローフが焼き上がって、スープが出来上がれば完成ですからね!」
 先週、イブニングは本国へ向けて出発し、数日後の帰宅予定としてジェレミアに伝えていたが、午前中にこっそりと帰宅し、こっそりと準備を整えさせてもらったのだ。――八月二日、今日はジェレミア・ゴッドバルトの誕生日である。彼のことだから忘れている可能性もあるが、イブニングにとってはそちらのほうが都合がいい。昔、貴族だった頃の彼であれば誕生日に大勢招いてパーティーをしていたが、今となってはそうも行かない。なら、せめてイブニングやアーニャの身近な人達でお祝いしてあげたいと思って、こそこそと準備を進めてきたのだ。
 ケーキも焼いた。お料理もいつもより頑張ってみた。本当は食事を必要としない身体であるのは、日々のメンテナンスをしているイブニングがよくわかっていることであったが、彼にはまだ味覚が残っていて、食べることも可能なのだから誕生日ぐらい――と思うのはイブニングのわがままだろうか。決して、ジェレミアの誕生日にかこつけて騒ぎたいわけではない。
(……いらない、って言われたらどうしよう)
 これだけたっぷりと作っておいて、今更何を言っているのだろうと思わないわけではないが――ジェレミアは日々のメンテナンスさえ欠かさなければ食事なんて必要のないもので、それこそ皇帝ルルーシュの元で働いていた頃はあまりに多忙で朝食だけは欠かさずイブニングと食べてくれていたが、昼食や夕食は殆ど食べていなかったと、その頃共に戦ってくれていた咲世子さんからイブニングは聞いたことがあった。今だって、朝食はアーニャやイブニングに付き合ってくれるが、あまりしっかりと食べている様子はない。――だから、イブニングは少しだけ怖い。
「大丈夫」
 アーニャの声にイブニングは顔を上げた。無表情ながらに、どこか穏やかなほほ笑みを浮かべるアーニャにイブニングは何も言えずにただ、アーニャを見つめた。
「イブの気持ちはちゃんと伝わるから」
 なんだか、アーニャに言われると本当にそうなる気がするからイブニングにはとても不思議だった。そうだったらしいな、と強く思う。ジェレミアに少しでも、自分の思いが伝わったらいい。いつだって、優しく、自分を導いてくれた年上の夫を、誰よりも大切に思っていて愛しているのだと伝わってくれたらいい。優しく微笑みながら、イブニングは胸元に手を当てて、頷いた。
「ね、ジェレミア」
「うむ」
「え?」
 イブニングが慌てて振り返ろうとすると、足をもつれさせてしまい倒れ込みそうになったところをジェレミアの腕がすばやく抱きとめた。
「……そろそろ夕食かと思って降りてきてみれば。お前の帰宅は明後日だと聞いていたが」
「あ、え、えっと、その」
「私、テーブルに色々置いてくる」
「アーニャちゃんっ!?」
 いつの間にか焼き上がっていたミートローフを盛り付けたアーニャはさっさとキッチンから退出し、二人きりになってしまう。コンロにかかっているミネストローネのたっぷりと入った鍋を見て、ジェレミアは少し呆れたように――しかし、嬉しそうな顔を浮かべて笑った。
「帰ってくる時は連絡がほしい」
 そういって、イブニングの頬にそっと手を当てる。ジェレミアがイブニングに触れる時はいつも右手だった。彼に残された本来の身体で優しく頬をなでて、微笑む。
「君の出迎えにいけんだろうが」
 とは言っても、ジェレミアは基本的に自由にこの土地から出ることは赦されていない。迎えに来ると言っても、この街にある唯一の駅の入り口ということになるわけだが――それでも、出迎えに行くのと行かないのとでは違う。いつも待たせる側だったジェレミアは、イブニングがどんな気持ちで戦場に出る自分を見送り、出迎えていたかなど創造もつかないが――待つのはひどく寂しいものだと知った。これを数ヶ月も続けてきたイブニングに少しでも返せるとしたら、彼女がでかけた時に見送り、出迎えてあげることしか無いと今は思う。
「……そんな、あの。ごめんなさい……」
「謝るな。……嬉しかった、君が、アーニャがこんな風に準備をしてくれていたのは」
 嬉しそうに微笑んだジェレミアを見上げて、イブニングはたまらず泣きそうな顔をした。喜んでもらえたことが何よりも嬉しくて、つい感極まってしまっただけだったがジェレミアは少しうろたえたような顔をして、そっとイブニングの涙を指で拭った。
「ほら、アーニャが待っている。行こう」
「はい……」
 イブニングが笑っている。ジェレミアはそれに少しだけ安堵して、息をついた。
 ――イブニングが子供だった頃、イブニングはいつも不安そうで、泣きそうな顔をしていて、従姉妹である大公爵の足の影に隠れているような子供だった。環境を考えればどうしようもなく仕方のないことで、しかし、ジェレミアはいつでもイブニングに笑ってほしくて、色々試行錯誤した。ちゃんと笑えるようになったときには嬉しかったものだ。子供がいつでも、不安そうに、泣きそうな顔をして我慢していることに耐えられなかったのだ。
「イブニング」
「はい?」
「――ありがとう」
 あのお方が残した明日に、君が残ってくれてよかった。

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