は来ずとも遠からず


 手紙が来たと従者がやってきた割には彼の表情はどことなく浮かばれないものであり、パルス北方の農耕地帯を収めている諸侯シャフルダーラーンであるキルスはわずかに瞠目して、愛用品である絹の国セリカ伝来品である煙管を僅かに弄んだ後にその手紙を受け取って、差出人を見て、訝しげに眉をひそめた。――珍しいこともあるものである、と素直に思ってしまうような相手からのものであった。大陸公路の中央に位置する王都エクバターナで、国王シャーオから認められた栄誉ある十二人の騎士が一人――クバードからの手紙であった。年齢はつい最近、二十六となったばかりであり、キルスと同い年である。屈強で大柄な男で、剛毅、快活という言葉がまさしく合うような性格で、いささか難があるものの、用兵・武芸どちらをとっても万騎長マルズバーンに相応しいと思われる。だが、彼の性格を鑑みるに、手紙を好んで送ってくるような男ではなく、どちらかというと突然ふらりとやってきては、キルスと酒を楽しみ、翌日にはいなくなるような、そんな根無し草のような男なのだ。一体、何事かあったのだろうか――そう考えながら、キルスは手紙を開いた。

 その手紙が届いてから一週間も経たないうちに、クバードは馬に乗って現れた。黒い外套を身にまとい、鎧はなく平服でやってきた彼は馬上からキルス気安く手を上げて挨拶して見せた。キルスもそれに同じように答えて、彼の腕の中の存在にふと目を向けた。クバードの外套の内側の夕日をこぼしたような色に馴染んでしまうような夕日色の髪を長く伸ばした少女が僅かにぐったりとした様子で眠っていた。クバードはそれを起こさぬように慎重に馬から降りて、少女を抱え直した。
「それが件の子かァ?」
「ああ……すまんが、医者を呼んでくれるか。一応、向こうで見せたのだが」
 ――珍しい、覇気がない。
 キルスはクバードの頼み通りに医者を呼ぶように近くにいるものに指示をするとクバードとその少女を邸の中へと案内した。ぐったりと眠っていた少女は来客用の部屋を開けさせ、その寝台の上に寝せた。背中を寝台につけようとすると、ひどく顔をしかめ魘されるためクバードはうつ伏せにはならないようにに横に向けて寝せていた。クバードの男らしい大きな手に比べて、彼女の体はひどく細く、髪の隙間から見えた白い肌は――いや、白い肌ではなかった。焼けただれたような、そんな痛々しい傷痕がはっきりと残っているどす黒い肌が目に入り、キルスはわずかに顔をしかめた。クバードが布団をかけ、すまなかった、とキルスに一つ謝罪を入れると、気にするなという旨を伝え、クバードを応接室へと案内した。
 農耕地帯とはいえ、パルスの農産物の四割ほどを出荷している領地を預かる諸侯シャフルダーラーンの応接室はひどく整えられており、敷かれている絨毯には多種多様の文様が施され、芸術品と行っても差し支えはないものだと思われた。クバードは贅を尽くしているわけではないが、一つ一つにその人間の感性が見て取れる趣味の良い部屋にほう、と嘆息して整えられている髭をそっとなでた。キルスに勧められるまま、クバードは絨毯に腰掛けて、差し出された美しい細工の施された瑠璃杯グラスを受け取り、それに注がれる美しい紅色の葡萄酒ナピードを眺めていた。
「あの子が手紙の子か。思ったよりも幼いなァ」
 キルスが見た印象をままに口にした。手紙の印象ではもう少し年上かとも思っていたようだが、外見はまるきり子供のそれと同じ。両親がいたのならばさぞや可愛がられただろうと思う。クバードが連れてきたのは、奴隷の少女だった。その顛末は手紙で知らされているがあまりにも悲惨、閉口してしまいそうになるようなものだった。あえて、口頭ではなく手紙を送ってきたクバードの気持ちもあの少女を見て、キルスは納得がいった。ほら吹きと称される目の前の男がいつにも増して口数が少ないのも、それの証拠であった。

 少女は奴隷だった。――ただの奴隷ではなく、その生命を見世物として扱われる剣奴隷であった。闘技場コロッセウムの主に飼われていたあの少女は、十歳からの数年を奴隷として過ごし、多くの屈強な奴隷達と戦い、そして、その生命を奪い生きてきた。それも、全ては自分と同じように奴隷にされた双子の姉を救うため。闘技場コロッセウムの主は少女に甘く甘く囁いたのだという。
 お前が、千人の剣闘士たちを倒すことができたらお前とその姉を自由にしてやろう――と。奇しくも、クバードがやってきたその時の戦いが千人目だったようだ。その約束は守られることはなく、本来一対一で行われるはずの戦いは、彼女を確実に負けさせ、新たに戦わせるために数多の邪魔がされ、罠が張り巡らされ――そして、少女の姉はすでに亡きものにされていた。数多の男たちの慰み者にされその結果、殺されたのだ。少女の無念は、怒りは相当なものだっただろう。彼女は百人近くいた剣闘士たち、闘技場コロッセウムの主の私兵たちを相手取り――生き残った。だが、その代償はあまりにも大きく、その小さく細身の少女が背負うには過酷すぎた。それを表すかのような焼けただれた背中、見えなかったが剣で斬られた大きな傷まであるのだという。

「エクバターナの俺の邸で休ませようとも思ったのだがな……人が多すぎるのも、あれには過酷だろう」
 自分を抑圧してきたような人間がエクバターナにはたくさんいる。今、傷と共に、彼女の心があまりにも脆くなっていることをさすがのクバードも察している。戦も片付き、クバードの隊には急な召集さえなければ休暇が与えられており、クバードもそれを使って、パルス王国の北方にあるこの地まで足を運んだというわけだ。長旅は傷だらけの少女には過酷であっただろうが、エクバターナで落ち着かない環境を強いるよりはましだった。いつもならば、一昼夜もあればつけるところを、三日もかけてゆっくりとやってきたクバードは葡萄酒ナピードを飲み干して、息をついた。ここらは良い葡萄がとれ、それを使った葡萄酒ナピードはとても良い。王都でも人気だという噂をクバードは耳にしたことがある。
「そうだなァ……あれほどとはなァ……ここらは戦とも無縁の農耕地帯だ。心を休めるには十分だろォ」
「……すまんな。ミスルの動きが怪しくてな、また呼ばれるやもしれん」
 クバードは忌々しそうにつぶやいて瑠璃杯グラスを置いた。
「あれを戦に連れて行くわけにはいかんからな」
 そこには確かな決意が見て取れて、キルスは意外そうにまじまじとクバードを眺めやった。その視線を受けて、クバードはわずかに眉をひそめた。
「何だ……」
「いやァ……女遊びで有名なクバード卿がなァ」
 ――まるで恋でもしているような顔じゃないかァ、といえばクバードは更に顔をしかめて、葡萄酒ナピードを一気に煽った。キルスが言わんとしていることを察しているのだろう、居心地の悪そうな顔して、キルスを睨みつけていた。
「……美しかったさ、あれが戦っている様はな」
 命をかけて、その花は舞っていた。散ることを恐れて、他のものの生命を喰らい、一歩ずつ、前へ、前へと進んでいくその様はあまりにも痛烈にクバードの目に焼き付いた。まるで夕日をこぼしたような橙色の髪が、まるで炎のように揺らめいて、全てを燃やし尽くす。気づけば、クバードは少女を殺そうとしていた剣闘士たちの間に割って入っていたし、少女とともに大立ち回りを決めていた。あたりが人血の臭いで埋め尽くされ、クバードも少女も息を上げて肩で呼吸していたが、すでに二人しか立っていなかった。少女は全てを切り倒し、殺した後に、虚しさばかりが残り呆然としていた。
 ――ついてくるか、といった自分に驚いたものだった。
「それほど、あの子に何かをみたってわけだねェ」
 くつくつと面白そうに笑う悪友にクバードは視線をそらす。反論できる隙がなかったからであったが、とてつもなく悔しい。自分を感情を認められぬほど幼いわけではないが、それを誂われるのは決して面白くはない。そんなクバードの心情まではっきりとわかっているのだろうキルスは煙管の中身を詰め替えて火をくべた。僅かに煙が立ち上った後、ゆっくりとそれを吸い込んで、ゆったりと吐き出した。それはまるで蛇のようにとぐろを巻いて天井へと登っていく。手紙からも感じ取ることができたが、これは本気だった。本気でクバードはあの少女を愛し、慈しみ、守ろうとしていた。戦いから遠ざける場所を選んだのも、あの少女に必要なものが時間であることをわかっているからだ。
「しばらくの間、あの子はおれが預かるさ」
 友からその言葉を聞き出せて、クバードは緩やかに目を細めた。
「すまんな」
「おォう。明日は槍でも振ってくるかもしれんなァ」
「……程々にしておけよ」


* * *



 ティルダードは困り果てていた。
 つい数日前まで、一週間ほど滞在していたクバードが軍に招集され、迎えにやってきた部下たち共に王都エクバターナへと戻っていったのは記憶に新しく。その前に目覚めた少女――リーヴはクバード以外にはなかなか心を開かなかった。必死に警戒し、必死に己の身を守ろうとし、言葉もままならない場所で、誰も知らない人間ばかりで不安なのだろう。目を覚ませばクバードの姿を探し、クバードを見つければ安堵し、その傍から離れようとはしなかった。そんな彼女を、クバードはキルスのもとへ置いていった。確かにひどく傷だらけの彼女を、戦場へと赴くクバードが連れて行くわけにはいくまい。しかし、彼女は不安も口にしなければ、不満も口にせず、クバードを見送った。涙をこらえた翡翠色の瞳をクバードはいかほどの気持ちで見つめたのか、「帰るから、お前はここで待っていろ」と告げて彼はさっさとエクバターナに向かっていった。
 ティルダードが困っているのはその少女が原因である。ティルダードは兄キルスより少女の世話を頼まれた。年頃が近いのがティルダードだったのもあるが、親友より預けられた少女を信頼できるものの手に委ねたいと考えたキルスの考えがあった。世話係を命じられたのはいいものの、ティルダードが朝の食事を届けに来てみれば、寝台はすでにもぬけの殻。たくさんの布に包まれたリーヴがまるで手負いの獣であるかのように警戒した目をティルダードに向けるのだ。
「食事だ、少し食べなければ」
 少女はクバードが発ってから、何も食べていない。クバードがいた頃から食が細く、なんとかクバードが苦心して食べさせていたのだ。怪我の治療のためにもしっかりと食べて、しっかりと休ませるべきだという医者の意見を無視するわけにも行かず、自分に目線を向けてくるリーヴにゆっくりと警戒させぬように近づいて、その前に食事の乗った盆を置いた。ナンと柔らかいひよこ豆のスープだ。甘やかな匂いがとても食欲をそそるのであるが、リーヴは布から出てこない。何かを訴えるような目線を向けてくるが、彼女は未だパルス語が不自由であったため、伝えたいことをなかなか口に出来なかった。おそらくは自分を拾ってくれたクバードがいなくて不安であることを訴えているのだろうとティルダードは思っているが、それが真実であるかもティルダードには測りかねた。
「……置いておくから、少しでも食べるんだぞ」
 夕方からは医者の検診もある。このまま食べ続けなければ彼女はどうなってしまうだろう、とティルダードは考えてしまう。リーヴのことは兄から聞いた。悲しい出来事だ。必死で信じて、姉を救うために戦い続けてきたのに、その希望はあっさりと打ち砕かれ、どれほど絶望したのだろう。自分なんて死んでしまいたい、いなくなってしまいたいと思う気持ちもわからなくはない。だからこそ、そんな自分に手を差し伸べてくれたクバードに絶対的な信頼があるのもわかる。そんな人が、自分を置いていってしまった不安はティルダードには想像もつかなかった。

「そうか、今日も駄目かァ」
「……クバード様は?」
「ミスル国境線の警備に駆り出されているらしい。後、一月は戻れんだろォ」
「そんな」
 ティルダードは絶望的な表情を浮かべた。ふむ、とキルスも考え込む表情を見せた。リーヴの現状はあまりにもひどい。生きることを拒絶しているようにも見えなくはないが――。
「まあ、もう少し様子を見てみようぜェ。どことなくだが……死にたがっているとは見えんなァ」
 賢明な兄がそういうのならば、そうだろうとティルダードは少し引っかかるところはあるものの頷いた。

 キルスはその夜、いささかの違和感を肌で捉えた。どこがおかしい、と聞かれるとそんな大したことではないが――ここは北方地帯であるがゆえに夜になるといささか冷える。この晩もいつもと同じように少し冷えており、上着を一枚羽織ったところで――窓の外に人影が見えた。門庭のところ、僅かな小さな人影である。
「――リーヴ?」
 親友からの預かり人であった。彼女は上着もまとわない寝間着姿で門庭に座り込んでいる。慌てるわけでもないが、上着をひとつ手に取ると門庭に向かってキルスは向かった。外に出ると、空気が冷えており少女は身を震わせるわけでもなく、ただ、じっと外を見つめていた。
「クバードはもう少しかかるそうだァ」
 後ろから声をかけても彼女は驚きもしなかった。きっと気配を掴んでいたのかもしれない。穏やかな凪のような翡翠の瞳が、警戒心も見せずにキルスを見上げていた。小さく頷いた彼女はまた、外へ向かって視線を向ける。どうやら、クバードが戻ってこれないことは薄々感じ取っているらしい。言葉は不自由であるが理解力がないわけではない、しっかりと周りの人間の言葉や雰囲気を感じ取っているようではある。キルスはそんなリーヴの肩に上着をかけて、隣に腰掛けてみた。かけられた上着を返そうと手を伸ばしたが、キルスは笑ってそれを制した。傷はまだまだ良くなっていないのだから、といえば上着にくるまった彼女は再び外を見る。クバードを待っているのか、何を考えているのかいささか読めない表情をしている。
「……リーヴ、」
「うん?」
 漸く声を聞いた。クバードがいたときも、声は聞かなかったなと思うとキルスは目を見開いた。
「クバー、ドさま、もど、る、いう。きず、なおす」
 要領得ない言葉だ。辿々しい発音で、子供が話しているよりもなお聞きづらい言葉だった。
「がん、ば、る」
 ああ、なるほど、そういうことか。
「食事取らないのは、どういうことだァ?」
「……はたら、いてない」
「そうかァ、やっぱりかァ」
 キルスは今までの行動に納得がいった。食事を取らないのも、寝台で眠ろうとしないのも傷が酷くて、言葉が不自由でろくに働けないことを気にしていたのだろう。夕日色の髪を少し乱雑に撫でると、その体は流れに逆らわずキルスの手の動きに合わせて前後左右に揺れた。
「今は傷を治すのが一番だなァ。その後、畑を耕したり、育てたりを手伝ってもらうとしようかァ」
「…………」
「その為には食べんとなァ。クバードも心配するぞォ?」
「……くばーど、さま」
 少し思案した顔をする。
「柔らかなベッドで寝て、暖かな格好をして、食事をしっかり食べて、そして傷が治ったらクバードの役に立ってやりゃァいい」
 きっとクバードもそれを望んでいるはずだ。奴隷だった少女は、働かなければ与えられないことを知っていた。働けないものに未来がないことを知っていた。彼女は戦うという方法でなんとか食いつないできたからこそ、今、自分が安穏とした生活を受け入れきれないだろう。キルスは笑顔で、立ち上がるとリーヴに向かって手を伸ばした。
「さ、今日は寝るぞォ。明日からは少し動けるようなら、おれの手伝いをしてもらおうかァ」
 彼女がそのことを気にするというのならば、できることを与えてやろう。クバードもおそらくはそうして、なんとか彼女を食べさせてきたのだろうから少しでも彼女の気持ちを察してやらなければならない。ついでにクバードが来たときに驚かせてやろうと決めたので、彼女にパルス語を教えてやろうと決めた。言葉が流暢になれば、きっと彼女自身も楽だと思うし、できる仕事も増えるだろう。リーヴはしばしキルスを不思議そうに眺めた後、その手を見つめて、ゆっくりと微笑んで、その手をとった。


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