良薬、口に


 とある日の、王都エクバターナ。大将軍格エル・エーラーンのクバードの邸宅には久しぶりにクバードとその従僕であるリーヴが帰参した。東のはて、ペシャワール城から王都への帰参は実に半年ぶりであり、手短にアルスラーン陛下へ報告を済ませるとクバードはペシャワールでの疲れを癒やすため、一週間ほど王都への滞在を決めていた。留守は千騎長のモフタセブが守ってくれているし、何かあればすぐに連絡が来るであろう。さて、妓館へでも出向こうか、とクバードが重い腰を上げた時、部屋にリーヴがやってきた。杯の乗った盆を持って現れたリーヴは自分の主人が腰を上げかけていることに気付いて、胡乱な瞳を向ける。
「……どちらにゆかれるかは承知しておりますが。――夕刻より、陛下のご主催で宴会が開かれます。今日はお控えなさいませ」
 緩やかに伸びはじめたくせのある夕日色の髪をリーヴは首の裏で一つに束ねていた。今年でちょうど二十三を数える年になるが未だに十代前半の幼さとあどけなさをもった顔立ちで、胡乱な表情を見せられるとさすがのクバードも腰を上げるつもりにはならず、すとんとカーベッドの上に戻り、リーヴから差し出された杯を受け取った。暖かな茶であるが、どことなく独特な香りがしてクバードは目を細めた。
「甘茶です。本日は大いに呑まれるでしょうから、先にどうぞ」
「うむ……」
 ずず、とちょうど好みの熱さで入れられている薬茶をクバードはすすった。これはリーヴの趣味のようなものだ。薬草や薬の知識に幼い頃から通じていたリーヴは環境が整うとあっという間に、宮廷の薬師も顔負けの技術を身に着けた。材料さえ揃っていれば大体の薬は作ることができるし、幼い頃の経験から毒への耐性も強い。サームが進んでリーヴに学問を身に着けさせたおかげで、医学に十分通じていたので従軍中に医者の役割を果たすこともできた。そのリーヴが飲め、と進めてきた薬茶の効能は言うまでもなくクバードが知っている。自分の目の前で、リーヴも同じように茶をすすっている。
「甘茶は久しいな」
「ペシャワールでは、中々材料が入ってきづらいのですよ」
 リーヴはそう苦笑しながら、クバードの前に茶請けを差し出す。天日干しして、砂糖をふりかけた果物で生の果物が中々届きづらいペシャワールではよくよく口にしていた。リーヴは生の果物も好むが、どちらかと言えばこちらの乾燥させた果物の方が手軽で食べやすいと好んでいる。こっちの方が栄養価高いのですよ、とリーヴは些か真顔でクバードをたしなめるが王都に来たのなら素直に生の果物を食べればよかろうに、とクバードはリーヴを見つめる。両手で果物を抑えて食む姿はまるで栗鼠のようにみえて、つい頬を緩ませた。
「あ、そう言えば」
 リーヴは顔を上げて、いそいそとクバードの膝下へ上がると唇を耳に近づけて話しかけた。部屋には二人きりなので、あえて話し声をひそめる必要性は無いのだがリーヴは話し終わると、クバードにいかがですかと問いかけた。クバードはしばし思案した後、ニヤリと笑った。――面白そうだ、という主人にリーヴは緩やかに目を細めた。



* * *




 陛下主催の酒宴は国事とまでは行かなくとも盛況で、武官、文官問わずに宴席を埋めており、リーヴはいつものようにクバードのすぐ後ろに控えながら人の多さに正直辟易とした。陛下の即金に当たる――いわゆる、十六翼将たちはおよそ上座に腰掛けており、十六翼将の中でも最年長に当たるクバードは大将軍エーラーンキシュワードに次ぐ席であった。
 リーヴはせっせと働いた。クバードに女官が寄るのはまだ年若い陛下にとっては情操教育上よろしくない、とクバードにとっては年下の同僚である黒衣の騎士ダリューンが常々顔をしかめているので女官の代わりにリーヴが動くしかなかった。酒盃が空になれば注ぎ、瓶を寄せ、料理を寄せ、とその働きようにキシュワードが自慢の髭を撫でながら微笑んだ。
「クバード殿はよい嫁子をもらいましたな」
「よく言われる。羨ましかろう」
 とは言っているものの、実際に結婚しているわけではない。実情を知っている十六翼将たちからは苦笑がこぼれ落ちたがクバードはさして気にした様子もなくリーヴが差し出してきた酒瓶から酌を受けると一気に煽った。二人はすでに形のある関係にこだわってはおらず、今、互いが見える範囲にいるだけで満足しているのだ。
 リーヴはクバードの戯言もいつものことである故に気にすることはなく、黒衣の騎士とそのとなりに赤衣の騎士であるルクサーナの元に新しい葡萄酒の入った瓶を持って近づいた。
「おお、すまんな」
「リーヴは気が効くなぁ、こっちへおいで」
 ルクサーナの頬が軽く赤くなっているところを見て、酔い始めているのはみるからにわかったがリーヴは気にせず呼ばれたとおりにルクサーナの近くへ足を運び、腰掛けた。膝を揃えたあと頭を差し出すと、おお、よしよしと女性にしては少しばかり大きな手でリーヴの頭を撫で回した。撫でられるのは嫌いではないので、おとなしくそれを受けて、リーヴは微笑んだ。中々表情が動きづらい、というか中々他者に心を開けない性質であるためこうして頬を緩めさせるのはクバードか、北方領地の義兄たちか、イスファーンか、クバードからの古くからの友人であるルクサーナくらいしかいなくなってしまった。
「あ、そういえば、ルクサーナ卿」
「んん? どうした?」
「これ、差し上げます」
 リーヴは懐から紙で包んである何かを差し出した。ルクサーナの手にそれを乗せて、リーヴは緩めていた表情をもとに戻して言い放った。

「マンネリ化防止にどうぞ」

 それに対して吹き出したのはダリューンの方で、当のルクサーナは意味がわかっていないのだろう首を傾げて、ぽかんとリーヴを見ていた。面白そうに周りの視線が集まっていることをリーヴは十分に感じ取っていたがあえてそれらには何一つ取り合わず、注意事項をつらつらと上げた。
「味はよろしいですが、できるだけダリューン卿とお二人きりになってから、夜が好ましゅうございます。多く食べすぎてはなりません。多くて――三粒までがよろしいですね」
「うん……? うん、気をつけて食べることにするよ」
「ええ、ええ。しかし、管理はダリューン卿に任せる方がよろしゅうございます」
「そうなのか?」
「ええ。その方が、ダリューン卿も安心するでしょう」
 リーヴは完全にルクサーナが意味を理解していないことを承知していたがこの注意事項はほとんど、ダリューンに向けて発しているものであったため気にしなかった。後ろでは面白がって喉を震わせているクバードが耐えかねて身を悶えさせていたし、ふとルクサーナの隣に腰掛けているダリューンへ視線を向けてみれば、顔を赤らめて身体を震わせていた。
「一粒召し上がってみますか?」
「いいのか?」
「ええ。何かあっても、ダリューン卿がおられますし」
 清々しいほどまでのいい笑顔など、初めて見たと友人たるイスファーンが思うほどにその日のリーヴの笑顔は素晴らしいものであったらしい。ルクサーナは紐を解いて袋の中身を開けてみると、おお、と感嘆の声を上げた。香ばしい香りに混じる甘い香りに目を細めた。そして、一粒手で摘んで口の中へ放り込むと、酒の香りと共に独特の苦味と香りが突き抜けてルクサーナは表情を緩めた。
「んん〜〜、おいしいな!」
「西からの伝来品である加加阿というものを砂糖と油脂を混ぜて固めたものです」
 甘いでしょう、とリーヴはルクサーナの視線が自分から外れたところで、ダリューンをちらりと見て、呆然としている手に白い薬包を乗せ、握り込ませた。声を確かに潜めつつ、しかし、ダリューンの耳にはしっかりと届くように言う。
「食べてから、およそ五分ほどで効いてまいります」
「は、はあ!?」
「もう、お察しとは思いますが――いわゆる媚薬でございます。……今、ダリューン卿にお渡ししたのは強壮剤と精力剤を混合させた薬です」
「お、おまえ……っ」
「実は先程、お渡ししたお酒の中に入っておりましたので酒精と相まって効いてくるのはもう少しといったところですね」
 なんという手際の良さか。ダリューンが言葉を失っていると、隣に座っていたルクサーナの様子がおかしい。彼女も相当酒精を摂取していたので、薬の効きは普段に比べればずっといいだろう。そもそも、加加阿は血流促進の作用が高く、加加阿を固める際にも少し強めの酒精を混ぜてあるため媚薬の効きもずっとよくなっているはずだ。そのふくよかな身体でダリューンに撓垂れ掛かるそのルクサーナの表情は少しぼうとしており、酒精による顔の赤みとは違う熱が確かにダリューンに伝わってくる。
「ご安心を、危険な薬ではございません。臨床実験済みですから」
 至極まっとうな顔でリーヴが言ったのを最後にダリューンはアルスラーンにあわてて席を辞することを伝えて、ルクサーナを軽々と横抱きにしてあらゆる人達の好奇な目にさらされながら、宴席を辞した。ドアが閉まるのを見て、クバードがもう耐えかねると言わんばかりに笑いだした。
「リーヴ、見たか! あのダリューンの顔を!」
「お人が悪うございますよ、クバード様」
「それで? ダリューンには本当に精力剤を渡したのか?」
「お酒に少々混ぜましたが、ダリューン卿にはさほども効かないでしょう。渡したものは単なる強壮剤――まあ、栄養剤です」
 リーヴはしれっと言い放って、クバードの前に戻ってくると差し出された銀盃に先程までダリューンが傾けていた酒を注いだ。
「貴方やダリューン卿がお召し上がりになられても大した効能は得られません。これっぽっちでは」
「ほう。それも、実験済みか?」
 クバードの言葉にリーヴは緩やかに微笑むだけで、追加の酒を持って参りますというに留まった。

 翌日、城へ出仕したクバードとリーヴに詰め寄る黒衣の騎士と赤衣の騎士がいたとかいないとか――。

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