ルシオン・デイズ



 その日アレスは頬を膨らませていた。別段それ自体は珍しいことでもなくなってきたヴァリアーの玄関先、任務へ向かおうとするスクアーロの長い脚に縋り付いて離れないアレスの頬はここ最近で一番のふくれっ面だ。オモシレー、と眺めていたベルもあまりに変わり映えしない光景にいい加減に飽きてこの場からすでにいなくなってしまっている。スクアーロはさてどうしたものか、と思いながらアレスが縋り付いている足を大きく揺り動かしながら一向に離れようとしない紅い髪の少女を眺めた。
「アレスぅ」
「い・や・だっ!」
 すでにこのやり取りも何回目だろうか。数えるのは5回まででやめてしまって、恐らくは両手で数えられる数も超えているだろうか。振り払おうとすれば全力で払いのけることはできるが、恐らくそれをすればまだまだ9歳の体のアレスは簡単に傷を負ってしまうことだろう。これまでのスクアーロであれば、子供であっても大人であっても自分の邪魔をするものに対して容赦しないのだろうがアレスに対してはためらいが出てくる。それもこれも、あのめんどくさい、あの紅い髪の女の、遺言のせいだ。
 ――そうだ、あの女はいつだって身勝手で。



「お茶がしたくなってね」
 ヴァリアーの緊急の任務中に入ってきた連絡。慌てて任務を終わらせてクラウンファミリーの本拠地へ赴いてみれば、優雅にガーデンでお茶をするあの女の姿が目に入った。何だっていうんだ、と声を荒げそうになるが、けらけらとまるで少女のように笑った女はスクアーロに椅子を勧めて、微笑んで見せた。すると、アスナの能力で浮いたティーカップとティーポッドが近づいてきてスクアーロの目の前に紅茶を注ぎ入れた。非現実な、日常が確かにここにあった。スクアーロはそれを眺めることもなく、ただ目の前でへらへら笑い続ける女を見つめていた――というよりはにらみつけていた。
「相変わらず顔が怖いよ、ルビ」
「うるせぇ、生まれつきだぁ!」
「声もうるさいな」
 ああ、耳障りなのにそのけらけら笑う声は耳に残る。残響して、昔の事なのにまるで今の事のように思い返させられるそれに、スクアーロは顔をしかめた。
「ほら、ケーキを食べよう。今日は俺が焼いたんだ」
 うまくできているだろう、と笑いながらケーキを差し出す。イチゴの乗ったショートケーキはベターなものだが、チョコレートの細工を飾ってあるちょっと凝った一品だった。甘いものがそこまで得意でもないスクアーロに笑顔で差し出してくるあたりが、彼女の性格が伺えるが、スクアーロは何も言わずにフォークを手に取った。きっとこの女は食べるまで帰すつもりなんてないのだから。
「おめでとう、ルビ」


 なんで、こんなこと、今、思い出したのだろうか。
 アレスが夜になり、眠くなった頃を見計らって半日遅れで任務に出発することのできたスクアーロは城に潜入しながら、ふと思い返した。任務途中だというのに、頭の中は彼女の中でいっぱいだった。あの時、確かに彼女はおめでとう、といって笑っていた。あの日は何か祝い事でも、そこまで思考が向かって、無線に声が入る。作戦開始を待つ幹部たちの声。今日の任務のパートナーはレヴィとマーモンだった。幻術であたりをかく乱するマーモンに指示を出しながら、スクアーロはターゲットに向かっていく。外の護衛はレヴィに任せておけば何一つ問題はないだろう。レヴィの電撃によってショートして電源が落ちた。

 ――そういえば、あの女は暗いところが嫌いだった。
 ――雨が大好きで、暗いところが嫌いなくせに、晴れるのを好まなかった。

 ああ、くだらない思考が頭によぎっては消えていく。何だって、今日に限って、こんなことを思い出すのか。相手の首を左手につけた剣であっさりと落とせば、作戦は終了する。余計な事はする必要はない。次に電気がつくころには、死体を確認した悲鳴が響き渡るだけ。幻術でフォローしてもらいつつ、スクアーロは戦線を離脱して、そして、外で待機していたマーモンと合流した。
「さすがだね、スクアーロ」
「う゛お゛ぉい、こんなもんで言ってんじゃねぇぞぉ!」
 夜の、ぽっかりと何かが抜けた落ちたように黒を丸くくりぬく月が上がっている。高さからしてすでに日付は変わっただろうか。
(あいつ、寝てんだろぉな……)
 眠っていたのをルッス―リアに押し付けてベッドに寝かしつけておくようには言っておいたが以前に同じ手を使った時に、帰ったら玄関で一人パジャマのまま座り込んでいたこともあった。そんなことはするな、といいつけてはあるが、あまりスクアーロの言うことは聞かないような奴だ、もしかしたら今日も夜中に起きて、玄関で座り込んでいるかもしれない。

 ――そういえば、あの女も前にそうしたことがあった。

「お帰り」

 と自分を出迎える場所は、いつ帰ると、言わずとも玄関だった。例外がない限り、よほどの事がない限り、玄関でいつも出迎えていた。連絡はいつも入れないで、突然そこへ行くというのに、どうしてわかったのか。いつも、にこにこ笑って、わかるから、と答えにならない答えを述べて、スクアーロの腕を引く、細い白い指。

「アレスの事でも考えていたのかい?」
「あ゛ぁ?」

 マーモンが静かに肩に乗りながら、口を開いた。そんな顔をしていたよ、といわれて、そんなに顔に出るほどだっただろうか、と自分の顔に、右手で触れる。左で触れたところで、わからない。それでも、アレスも、あの女も、左手を掴みたがる。武器を持つ、この機械の左手を、愛おしげに、優しく、笑って。ああ、マーモンの言う通りだ。
「早く帰ってあげたら。彼女、とても楽しみにしていたからね」
「……?」
「今日、一番先に言いたいそうだから、僕らは黙っているよ」
 ほら、早く。とマーモンに急かされた。後始末なら、レヴィがしておくよ、彼女に頼まれていたしね、とまだ合流していないレヴィのことを思い出して、何のことだ、と首を傾げた。すると、携帯に入ったメール。ルッス―リアだ。
『あなたのお姫様が待ってるわよ〜!』
 お姫様って、誰のことだ。
 もしかしなくてもアレスのことを言っているのかもしれないが、正直言ってあいつはお姫様とかそんなたちじゃないぞ、決して。と頭の中で考えながら、彼らに急かされるままヴァリアーの城へ帰ってきた。なんだかあっという間だった気がしたのは、車の中で珍しく目を瞑ったからなのか、瞼の裏であいつがけらけら笑って、俺の名前を呼んでいたからなのか。今は、正直、そんなこともどうでもよく思えてきた。


「おかえり!」


 城の扉を開けてすぐ、足元へ衝撃。パジャマじゃない、おめかししたアレスが足に抱き着いてきた。動きやすそうなショートパンツだが、ベストやリボンタイがいつもの元は少し違って華やかで、髪の毛は薔薇の花飾りがつけられていた。
「……お前、起きてたのかぁ」
「うん!おかえり、ルビ!」
 にこにこと、笑っているその顔は、認めたくないが、やっぱりあの女と同じ、笑顔で。瞼の裏に映っていた笑顔が幼くなってここにあった。
「おめでとう、ルビ」
 アレスに合わせて屈むと、その小さな手がスクアーロの頭を抱きしめた。まだ平たい薄い胸板に耳を押し当てられて、アレスの手がゆっくりとスクアーロの銀髪を撫でる。
 ――おめでとう。
 あの女の声が残響のように響いてきて。そうだ、あの時も、あの女はこうして俺を抱きしめて、頭を撫でた。まるで、子供でもあやすように、愛おしそうに。その手が暖かくて、優しくて、振りほどけなくて。
「ありがとう、生まれ来てくれて」

 ――出会ってくれて。

 小さな体に見合わない大きな器で、柔らかな心音がスクアーロの耳に聞こえてくる。かすかについた返り血がアレスの服を汚しているのがわかった。でも、アレスもスクアーロも気にすることはなかった。そういう世界で生きてきたからだ。アレスの小さな体を抱きしめるように腕を回すと、そのまま立ち上がった。
「忘れてたなぁ」
「うん、ルビはいつもそうだったもの。誕生日なんて、覚えてないでしょ?」
「……なぁ、アレス」
「なぁに?」
「……一度寝て、起きたら、あいつの墓参りにでも行くかぁ」
 ここにいるけれど、アレスはアレスだ。あいつは、あいつだ。スクアーロの言葉を聞いて、アレスは小さく頷いた。ケーキとお茶を持っていこう。シートを持って、花にまみれたあのお墓の前で3人分並べて、一緒に食べよう。アレスの口からぽつぽつ零れ落ちる言葉に相槌を打ちながら、すでに眠りに入ろうとしているアレスの体を抱え直す。

「おめでとう、ルビちゃん、大好きよ」
「……ありがとうなぁ」

 彼女がいた、古き良き日を思い返して、二人は手をつないで眠る。
 起きたら満開の花を抱えて、彼女のいたあの場所へ。

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