永遠を信じてみたくなった


 心の底から、この目の前にいる女がバカだと信じてやまない龍司は、食卓の向こう側に座り、せっせと食事を口に運んでいる夕日のようなオレンジ色の髪の、典型的な童顔と呼ばれる類の顔立ちをじっと見つめた。自分よりも2つ年下の女は、もう既に30代も半ばに来ているはずだというのに、未だに20代前半、場合によっては10代後半のように見られる若さを持っていた。時に二人で歩いていれば、警察から声を掛けられることなどしょっちゅうだし、夜に一人で出歩いて補導され、身分証を提示しても信じてもらえず、龍司が迎えに行ったという話もけして珍しい話ではなかった。
 現在時刻は22時、この女にしてはひどく遅い夕食、龍司にしてはいつもより少しばかり早い帰宅だった。龍司がいつもよりも早く帰宅してみると、1LDKのリビングに置かれているパソコンの前で倒れるようにして眠っていたのだから、一瞬肝が冷えたが、パソコンの電源はつけっぱなし、彼女の生業である小説も保存されることなく開きっぱなし、とも来れば連日の徹夜も今日で限界に達したのだろうと、龍司は察した。蹴り飛ばして叩き起こすと、うぎゃ、という何とも色気のない声が聞こえてきて眉間にしわが寄ったが、食事は、と聞けば、いつから寝てたか、覚えてないです、と返事が返ってきた。まあ、要するに何も食べていないのだろう。台所も使った痕跡がなかった。ちょっと待っとれや、と仕事帰りの疲れた体に鞭を打って、仮にも嫁である彼女の為に料理を振るったのは10分前。冷蔵庫の中に入っていたありあわせの惣菜も出せば、それなりになった。
 食べている姿をじっと見つめても、あまり気にしないのか、それとも相当おなかが空いていたのか、無心で食事を運び続ける姿にどことなく小動物の姿を重ねてしまうのは致し方のないことと言える。――リス、いや、モモンガ……当てもなく、そんなことを考えていると両手を合わせる控えめな音が聞こえ、ご馳走様でした、という女――紅葉の姿が目に入った。
「すみませんでした、龍司さん」
「謝るんやったら、ちゃんとしーや」
 食器を片付けに立ち上がった紅葉ははは、と乾いた笑みを浮かべて食器を持ち上げた。台所へと向かっていく背は、自身よりもはるかに小さい。上背も無い為、一見すると本当に10代後半の、まだまだ何も知らない、でも大人ぶりたい頃の少女に見えなくもないのだが、この女は極道の世界で20年近く生き残ってきた猛者だ。酸いも甘いも、そして裏まで知り尽くしている。
 薄いセーターに隠されている背中にはその名前の通りのもみじをあしらった刺青が掘られているのを、龍司は知っている。あれは、本当に美しいと思った。刺青は人の生き様を表すと言うが、それが本当ならば、この女の生き様はさぞや美しい物であったのだろう、とも思う。左右に揺れるオレンジの尻尾を眺めていると、紅葉が台所から戻ってきた。そして、龍司の懐に入り込むようにして膝の上に収まった。どけや、と言っても嫌です、と笑顔で返してくる。肝が据わった女だ、と思うがもはやこれも一種の慣れのせいだろう。昔、この女が自分の元にやってきたときは、毎日びくびくして、それを隠そうと必死に虚勢を張って、強がって、笑っていた。今のように、心の底から笑っている顔など、ここ数年の話だった。
「龍司さん」
 しかし、この女に、名前を呼ばれるのは嫌ではなかった。むしろ、心から安堵し落ち着く。何やねん、と意外とあまえたがりな嫁を抱きしめるのもほぼ習慣になっている。頬に頬を擦りつけて甘えてくる紅葉を抱きしめる。その力加減を間違えれば、折れてしまいそうなほど細く、龍司の半分くらいしかない体を抱きしめる。いつからか、紅葉が甘えたがりなのか、それとも自分が抱きしめてほしいと思っているのかが区別つかなくなってきているような気がしているのだが、まあ、それはどうでもよかった。この女が今、ここにいて、龍司の腕の中にいるという事が重大だからだ。
「眠たいんやろ、お前」
「あは、わかりましたか?」
「ぶっさいくな、顔やな」
「ひどい」
 あはは、と笑いながら、紅葉が龍司に体重を預けてくる。といっても、大した事のない重さのそれを抱えたまま立ち上がり、寝室へと向かう。ぎゅう、としがみついてくる腕に苦しいわ、と言うと落ちちゃったら、嫌ですもの。と頬を膨らませた。そういう行動が子供っぽく見せているのだろうか、年相応とは言えない嫁に、ついついため息が零れた。あ、今、絶対に呆れたでしょとまくし立てて来るがあー、そんなことないない、と適当に返して寝室の、二人用のダブルベッドに落とした。ぼふん、と落ちて行った嫁をしり目に、龍司はTシャツを脱いだ。互いにもう、互いの裸など見慣れているからか、そこにきゃっ、などという甘酸っぱい展開など期待はしていないし、むしろあったらあったでどう反応していいか困る。横暴だ、とか、乱暴だぁ、とかベッドに落とされた紅葉からの反論が聞こえてくるが反応もしない。
 部屋着のトレーナーに着替えて、ベッドの中に入ろうとすると、ん、と両腕を伸ばして待機している紅葉が目に入った。着替えさせろ、と言っているのだろう。本日2度目のため息をこぼしながら、服に手をかける。万歳のまま、服を引き抜くと、まあ、何とも色気のないブラが晒される。そもそも、胸のないこいつにブラジャーが必要なのか、という論議については既に二人の間で交わされ、拳と木刀を交える大乱闘にまで発展したことについてはここでは詳しくは触れないでおこう。あの時ほど、鬼気迫った紅葉は後にも先にも見たことがなかった。
 ショートパンツに手をかけると、最近外に出ないせいでめっきり日焼けしなくなった、という白い足が龍司の目に入った。何見てるんですか、変態。と自分で着替えさせろと、意思表示した割には辛辣な言葉が返って来て龍司の心に波を起こしたわけなのだが、そこはぐっとこらえて、龍司は着替えを黙々と進める。
 ロングTシャツを着せると、紅葉は満足げに龍司へ腕を伸ばしてきた。はいはい、と抱きしめながらベッドに横たわり、腕枕を差し出す。硬いです、我慢せぇや、というやりとりもほぼ毎日していることだが、硬い硬い、と言う割には紅葉は龍司に腕枕され、眠るのが好きだった。龍司の熱い胸板にすり寄って来て、その手で龍司の服を掴む。おやすみなさい、と目を閉じる紅葉の額にキスをすると、くすぐったそうに笑い、そして穏やかに眠りへついた。やはり、疲れていたのだろうか、あっさりと眠った紅葉の寝顔を眺めながら、龍司は少し手持無沙汰に、紅葉の髪の毛を撫でた。そういえば、解いていないがいいのだろうか、と少し考え、ゴムを外して、髪をほどいた。くせ毛のそれをほどくと、くすぐったかったのか、腕の中でわずかながらに身動ぎする紅葉を眺める。
 こうした毎日を幸せだと、いつからか思うようになっていた。最初の出会いは、最悪な出合い方をしたものだが、今となっては紅葉がいない日はひどく落ち着かない気がするし、喧嘩をするとどうしても譲らない頑固な嫁の機嫌をどうとるか、なんて考えている始末だ。あの頃の自分からしたら、きっと想像もつかないのだろうと思う。それでも、もし過去に戻って自分に会えるのなら、言ってやりたい。出来るだけ早いうちから大切にしてやれ、と。じゃないと、きっと、この手から取りこぼしていたかもしれない。大切だと、愛していると気づけないまま、手放せば、きっと彼女をぼろぼろに傷つけていたのかもしれないし、自分以外の男の元に行っていたのではないか、と考えてしまう。醜い嫉妬心が浮かんでくることも浮かんでくるが、それ以上に彼女を手放すという考えそのものが、ひどく恐ろしいもののように感じた。そんな事、ありえないが。
 結婚は永遠の愛を誓ってするものらしい。
 政略結婚に愛も何もあったもんではないが、それでも今は紅葉が妻でよかったと、思わざるを得ない。こんな自分に最期まで付いて来ようとしているのだから。もしも、今からでも、その永遠の愛とやらを誓えるのなら、誓ってやりたいと思うし、少しばかり世間が言う永遠、とやらを信じてみたくなった。それで、紅葉がこの腕の中で眠り続けられるのなら。

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