たった一つだけの特等席


 紅葉がお風呂から上がってくるとリビングには葉夜の姿はすでになく、阿含だけがソファに座って雑誌を読んでいた。「葉夜は?」と髪の毛を拭きながら歩いていくと、部屋の方を顎で指す。電話、と短く答えられた返答にふぅんと返して、紅葉は阿含の隣に腰かけた。普段三つ編みにしている髪は水を吸って重くなり、タオルで撫でてやると少しだけ髪が軽くなったような気分だ。ドライヤーを掛けようかな、と思ったが、うん、この季節なら自然乾燥でもいいか、と紅葉はタオルで適当に水分を取ると、放置することにした。阿含が隣にいるとは言っても会話が盛り上がるか、といえばそうでもなくて。むしろ、流れる沈黙と、時計の音と、阿含が時折めくる雑誌の髪の音だけ。
 少し手持無沙汰になって、紅葉はソファの上で膝を抱えて丸くなる。何か本でも持ってこようかな、とか、なんか飲もうかな、とか考えていると隣から腕が伸びてくる。ぐい、と引っ張り上げられて落ちたのは阿含の膝の上だった。見上げるようにして顎を持ち上げて後ろを見て見れば、雑誌から視線をそらさない阿含の顔が映った。何か言うわけでもなく、何かするわけではない。ただ、ここにいろ、そういわれたような気分になって、少しだけうれしかった。
「ふへへ」
「あ゛?気色悪ぃ」
「なんでもないし」
「じゃあ、突然笑ってんじゃねえよ、チビ」
 小さくないし、と紅葉が反論すれば、俺の膝ですっぽり収まってるやつがチビじゃねえわけねえだろと頭を片手でがっしりと捕まれる。痛い、痛い、とふざけて笑って見せると阿含は黙ってろよ、といって紅葉の頭に顎をのせてきた。重たいよ、といってもうるせえよ顎置き、と返ってくるばかりで。雑誌を持ってる手と、逆の手。左手が紅葉のおなか周りに回って、紅葉のシートベルトのようになっている。その慎重な手つきが、まるで大事にされているような気分になれて。
(実際は、そんなことないのかもしれないけど)
 阿含の懐に、自分だけが入っていけている。この距離に人を置くことを、阿含が嫌がらないでいてくれている、それがどれだけ貴重な事か、阿含は気づいていないのかもしれないけれど。できるなら、このまま。例え、どこに行ってもかまわないから、時折思い出して、自分を懐に入れてくれれば、それで満足だから、と少しだけ滲んだ視界は、タオルを頭からかぶって、ごまかすことにした。

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