たとえ、世界が残酷だったとしても


 初めて出会った日。
 彼は快活な少年だった。明るく、活発で、強く、誰よりも家族を思いやる心を持っていて、アレイスティルは好ましく、誰よりも尊敬していた。彼とともに過ごす日々が、記憶を失い、何も残っていなかったアレイスティルにとってどれほど救いだったか。彼自身はきっと気付くことはないし、知ってほしいとは思わない。ただ、その側にいたかった。アレイスティルに「生きる」ことを教えてくれたその人のそばに。無くした記憶の底、ただ、この時間が幸福で、幸せでたまらなかった。


 アレイスティルはふと、目を開けた。
 祈念布を編むためにガイアスが用意してくれた部屋。暖炉の中の木が燃えて音を立てるのが静寂の中耳に入ってきて、アレイスティルは顔を上げた。ああ、眠っていてしまっていたのね、と少しだけ体を起こして、編んでいる途中の祈念布の織り機へ手を伸ばす。
 懐かしい夢だった、と幼い彼――ガイアスの姿を夢に見たことを思い出して、アレイスティルはしばし目を閉じた。もう、あの頃の平穏さが戻ってこないことを知っている。戦争が、ア・ジュールの世界がアーストを戦いへと駆り立てて、彼はガイアスになった。紅茶の入っていたポットはすでに冷めてしまっていて、もう冷たくて、飲めたものではない。アレイスティルは静かにぼんやりとしていると、鐘が鳴り響く。晩鐘である。
(ああ、もう、こんな時間)
 アレイスティルはゆっくりと窓の外を見た。オレンジ色から紫色の空がアレイスティルの目に入ってきて、時間の経つのが早いのを感じた。立ち上がろうとしたところで、部屋のドアが開いた。
「アレイス」
 声が聞こえてきて、慌てて振り返った。――ガイアスの声だ。
「あれ? は、早いね」
 少しだけ声が上ずってしまった。驚いて、動きが止まってしまったがガイアスは何も言わずに中に入ると、椅子に腰掛けた。謁見が終わるには少しばかり早い時間のような気がした。晩鐘が鳴ってすぐに彼がここに現れたのはアレイスティルの記憶を辿ってみれば、今日が初めてのことだった。祈念布の織り機を一瞥して、ガイアスはふと目を閉じた。
「……疲れたの?」
「そうだな」
「珍しいね」
 アレイスティルはそっと近づいた。
 椅子に座ったガイアスはアレイスティルの気配を感じると目を開けてその手を引いて、自分の頬に近づけた。
「……少しだけ休んだら?」
「ああ」
「おやすみなさい」
 ガイアスは再び目を閉じた。その頭を抱くように抱きしめながら、アレイスティルは静かに笑った。
 ――たとえ、世界が残酷でも。
 ――私だけは貴方のそばに有りたい。

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