二人きりのを重ねて


 ア・ジュールは昔から部族間抗争における戦争が続く国だ。このリーゼ・マクシアにある二つの大国のうち、ラ・シュガルは平定がなされ、先日全ての戦いに決着がついたとのことを風のうわさで耳にした。そして、ア・ジュールは今、たったひとりの男による平定の戦争が始まろうとしていた。
 アースト・アウトウェイ――改め、ガイアスを火を眺めながら暗い夜の闇の中へ意識を向けていた。自分の目の前に眠るのは赤い髪の少女だ。アスナ――先日、ガイアスとともに名前を改めて、アレイスティルとなった少女はガイアスよりも五歳も年下だ。十五歳になったガイアスと十歳になったばかりのアレイスティル。この戦いに味方などなく、二人は自らの名前すら捨てて、故郷を飛び出してきた。――全ては、力なき者たちが平穏に暮らせるその世界のために。
「……アレイスティル」
 まだ呼びなれないその名前をそっと口にしてみる。アレイスティル自身はすやすやと眠っていて、ガイアスの呼びかけでも起きそうにはなかった。だが、それでいい。こうしてゆったりと床につけるのも回数はもう残されていないだろう。明日――明日の襲撃が成功しても、しなくても、待っているのは過酷な日々だ。
(……アスナを連れてきたのは本当に正しいことだったのだろうか)
 それが例え、本人の意志だったとしても、まだ十歳になったばかりのアレイスティルをここへ本当に、連れてきても良かったのか。いくら精霊術に優れていて、回復も戦闘もできるとは言え、彼女自身はまだ幼い――自分も変わらないだろうが――子供なのだ。名前も、故郷すらも捨てさせて、それが正しかったのか、ガイアスにはわからない。
「……ん、アースト?」
「……すまない、起こしたか」
「ううん、そろそろ、見張り、変わるよ?」
 ガイアスも休まないと、とアレイスティルは笑った。まだ幼さの残る顔つきで、緩慢な動作で起き上がると、アレイスティルがガイアスの隣に腰掛けて、ピッタリと体をくっつけた。この寒い雪国の中、雪を遮るための洞窟の中は火だけでは確かに少しばかり寒い。ぴたりと寄り添ってきたアレイスティルの体は先程まで寝ていたからだろう、暖かい。
「明日、だね」
「ああ」
 アレイスティルは火をじっと見つめて、固く、固く自分の手を握りしめた。僅かに震えているように見えるのは彼女にとってそれが初めての戦争となるからだろう。ガイアスはその手にそっと、自分の手を重ねた。いつの間にか、自分の手は彼女の手よりも遥かに大きくなっていた。
「大丈夫だ」
 ――その言葉はまるで自分に言い聞かせるような言葉だった。
「必ず、俺達が勝利する。――そして、この国を変えるんだ」



* * *




 夢を見た。アレは確か、ロンダウ族を襲撃する前夜のことだった。アレイスティルが目を開けるとそこは暖かな暖炉に火が灯っている、大きな豪奢な部屋の中だった。ゆったりとしたロッキングチェアの上、手元には編み物用の毛糸玉と編み針が置かれている。
「……寝ちゃってた」
「そのようだな」
 部屋の隣の椅子にはガイアスが腰掛けていた。すでに鎧は外され、彼は平服だ。部屋でくつろぐときの体勢で、本を手に持っている。久しく見ていない彼の穏やかな姿にアレイスティルは目を細めた。
「ご飯は?」
「まだだ」
「すぐ作るよ」
 ごめんね、といいながら立ち上がろうとすれば、そのまま椅子へ戻された。
「今日は厨房へ頼んだ」
 ガイアスはそう言いながら、アレイスティルの肩を抑えて椅子にしっかりと腰掛けさせる。落ちた毛糸玉を拾い上げ、その膝の上に戻すと暖炉の火を見つめた。まるで、あの頃のような、でも確かにあの頃とは違うこの空気にアレイスティルは目を細めた。暖炉の木が弾けて、ぱち、と音を鳴らす。二人でそれを眺めながら、ただ、ただ、沈黙の時間を過ごす。
「なんだか、懐かしいね」
「……そうだな。だが、あの頃は」
「もっと気を張ってたね」
 アレイスティルが苦笑した。こんな風に編み物をしたり、読書へ時間を使えるようになるなどと誰が想像できたのだろう。ただ、あの頃は戦うことに、前に進むことに精一杯だった気がする。――そして、今もそうなのだろう。ガイアスは、今、ラ・シュガルとの戦争の準備をしているはずだ。そして、それもまた、ガイアスの理想のために必要であることだ。
 アレイスティルがガイアス城に帰ってきたのは、つい先日の話だ。まだまだ体調が安定しないのは、霊力野の方に原因があるとされ、日中でもあまり起きていられることは少ない。今日はたまたま体調がよかったから椅子の方へと移ってきたが……食事もおそらくは体調の優れないアレイスティルにガイアスが気を使ってくれたのだろう。
「心配するな。今は膠着状態に入っている……向こうが仕掛けない限りは挙兵も起きないだろう」
「……うん、ごめんね」
 自分が何をしでかしたのか、位はわかっているつもりだった。ラ・シュガルにいき、その中でジュードたちと関わり、彼らに興味を持ち、最終的にはラ・シュガルの軍事要塞であるガンダラ要塞へ入り、そのままラ・シュガル軍と一悶着を起こしてしまったのだ。――王、ナハティガルとも。ア・ジュールの副王である自らの立場を考えれば、そのまま開戦ということにだってなっていてもおかしくなかったのに、それを納めてくれたウィンガルとガイアスの手腕に感謝せざるを負えない。
「謝るな。――お前が無事ならばそれでいい」
 ガイアスがそういったところで、こんこんとノックされる。ガイアスが返事を返すと、給仕係のメイドが入ってくる。そして、二人に夕食の支度が整ったこと、どこで食べるのか、という話を告げて、ガイアスはアレイスティルを見やると、この部屋で食べることをメイドへ伝えた。
 メイドは一礼して部屋から出ていくと、アレイスティルはテーブルだけでも整えようと立ち上がった。たまにはメイドにも華を持たせてやれ、とガイアスが小さくは呟くが、アレイスティルはこれくらいしたいの、とガイアスに振り返って笑った。
「……アースト」
 本当ならこの名前はもう口にすべきではないとアレイスティルは知っている。それでも、時折彼の名前をこうして呼ぶのは彼にアーストであって欲しいという願いがあるのかもしれない。それが、許されないことであると知っていても。アレイスティルはテーブルクロスをセットし、ランチョンマットを敷いて、グラスを取るために、棚に向かった。

「今日は久しぶりに一緒に眠ってもいい?」
「……ああ」

あの頃のような、二人きりの夜は今日もきっと続いていくのだろう。

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