暗闇のに見えたもの


 目が見えないことを憐れまれることはよくある。それは聖域でも、外界でも同じだ。目が見えないということは見える人間にとっては想像もつかない世界なのだろう。暗闇ばかりが広がり、光すら捉えられない瞳――かくゆう紫雲自身こそ、幼いころはそうだった。
 師匠である蒼月の元へ紫雲がやってきた時、目が見えないという師匠の言葉はよくわからない。見えないからこそ見えるものがある、と語った彼女の柔らかな表情。それも、今であればこそわかる。


(……随分と苛立っている)
 紫雲が聖衣の手入れの途中で顔を上げたのはその苛立つ足音を遠くに聞いたからだ。足音――小宇宙でそれが誰なのか、そしてどういう感情なのかわかるようになったのは目が見えなくなってからだった。それまでは小宇宙で誰だとは理解できても、その状態まで理解するのは時間がかかったのもだ。
 ゆっくりと椅子から立ち上がり、聖衣石をテーブルへ置くと、紫雲はその人物がドアの前にやってくる前にドアを開けた。ちょうど彼からは紫雲が先んじてドアを開けたのは出かけるかと思ったのだろうか、一瞬彼――ハービンジャーの足が止まり、驚いているのがわかった。
「お入りなさいな」
「……おう」
 しばしの沈黙の後ようやっと返事をしたハービンジャーは先にくるりと振り返り部屋の中へ入っていた紫雲を追うようにして部屋の中に入るとドアを閉めた。紫雲はすでにテーブルへと戻り聖衣石を手に取り、小宇宙を注いでいる。
「何してんだ?」
「聖衣の修復だ。先日の戦いで傷がついた」
 ぴくり、とハービンジャーの肩が動いたのがわかった。なんだ、いらだちの理由はそこか、と紫雲が気づくのに時間はかからなかった。正直、紫雲にとってはどうでもいい話だが、ハービンジャーの癪には触ったらしい。納得の行かないところに癇癪を起こしているようなものか、と紫雲は解釈すると、はぁと溜息を付いた。
「それで?」
「あ?」
「何をしに来たの」
 聖衣石に小宇宙を注ぎ終えると、テーブルへそっと戻した。
「……」
 ハービンジャーは応えない。ただ沈黙したまま、紫雲の元へ歩いてくる。紫雲もまたそれ以上に質問をするつもりも、近づいてくるのを静止するつもりもなかった。彼は無言で近づいてくると、紫雲の仮面へ手をのばした。丁寧に、ハービンジャーの大きな手には似つかわしくない程、丁寧に、壊れ物でも扱うかのように外すと、仮面をあっさりとテーブルへ投げ捨てた。自分で置かないと、探すのが大変なのだが、というのは常々言っているのに彼がその話を聞いたのは一度もない。今更、それについて怒るのもめんどくさい気がしてきた。
「……ハービンジャー?」
 ハービンジャーの指がそっと傷をなぞった。――火傷の痕。顔の半分以上を覆い、右目は完全に潰れ、かろうじて残った左目すらも世界を写すことはなくなった虚ろな物。古傷に触られても神経が死にすでに痛みなどあるわけではないが、反射なのか、それとも傷の痛みの想起なのか、怯えともなんとも捉えられない震えを起こしてしまった。
「……おい、ハービンジャー、」
 ――聞いてるのか、と言う前に抱きしめられた。ああ、大きな体だな、と思うより先にあっさりと抱き上げられてしまい、紫雲は何も言えない。どうしたのか、と落ちないようにハービンジャーの首に腕を回す。そのままベッドへと落とされてハービンジャーが覆いかぶさってきた。そのまま、顔に触れるハービンジャーの唇。薄っすらと目を開けてみるが、別に見えるわけではない。目を開けた左目のまぶたにもハービンジャーの唇が触れた。




* * *





 紫雲はハービンジャーの髪をなでながらその頭を抱いた。互いにベッドの中では何もまとっておらず、ハービンジャーはぐっすりと紫雲の胸で眠っている。きっと愛らしい寝顔でもしているのだろう、と思ったのは恋の贔屓目が入っているに違いない。
「困ったなぁ」
「何がだよ」
 起きていたのか、と紫雲は笑った。
「――お前の顔を見てみたかったな、と思っただけ」
 紫雲はそう言いながら、ハービンジャーの額にキスを落とした。

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