貴方のための物語


 ハービンジャーがちょうど紫雲の部屋へやってきたとき、紫雲が表情を明るくして、ハービンジャーを手招いた。
「こっちこっち」
 彼女が腰掛けているのは古ぼけた木のベッドだ。彼女が幼い頃からこの部屋を使っているのだと聞いたのはこの部屋に何度訪れた頃だったか、とハービンジャーが思い出すのにも時間がかかったが、正直もうどうでもいい。小さな紫雲の隣に腰掛けた。まさか、彼女からベッドに誘われるとは、と思いながらその細い肩を抱き寄せて、顎を持ち上げ口づけしようとしたところで、自分と紫雲の間に何かを差し込まれた。
「あ?」
 せっかくの雰囲気を邪魔されたことへの不快感を隠すこともせずハービンジャーは声を上げた。紫雲はニコニコとしながら装丁のきれいな本を持っている。どうやら、自分と紫雲のわずか十pの隙間に押し込まれたのはこの本のようだ。
「なんだ、こりゃ」
「読んで?」
「はぁ?」
 ――子供じゃあるめぇし、とハービンジャーは本を無理やり押し付けられて手に取った。思ったとおり、絵本だ。少し古ぼけたように見える。にこにこ、にこにこ、楽しそうに、読むのを心待ちにしている紫雲に思いっきり不快そうな顔を浮かべるのだが、目の見えていない彼女は雰囲気から察することもあえてせず、自分からハービンジャーの膝の上に上がった。
「何だよ、急に」
「いいから、早く読んでくれ。ハービンジャーの言葉で、声で、この絵本を聞かせて?」
 ハービンジャーの太い両の腕を支えにして紫雲は背中を預け、ハービンジャーを見上げた。これではまるで、本当に子供に絵本を読み聞かせるような体勢ではないか、とも思ったがハービンジャー自身そういった幼少期がないので、ただの想像でしか無いのだが。そわそわと、膝の上で物語を待ちわびる紫雲に聞こえるように舌打ちをするとハービンジャーは絵本を開いた。




* * *






 絵本はハッピーエンドだ。
 皆が平和に終わる、素敵な物語。子供が読んでいて悲しくなったり、笑ったり、楽しんだり、何かについて考えるきっかけを与えるのが絵本だ、と紫雲は思っている。初めて聖域に来て、師匠であった蒼月が紫雲に与えたのはたくさんの絵本だった。人としての感性を養いなさい。この物語を読んで、貴方がどう思うのか、考えてご覧なさい。
 蒼月はいつでも紫雲にそういった。修行の合間にライガと二人で蒼月の傍らによって絵本を読んでもらった。この絵本はこんな話だった、とかライガと二人で話をする時間もとても楽しかった。ときには先代の牡牛座、アルデバランの膝の上に上がって、貴鬼と二人で聞いたこともあった。アルデバランは絵本の話を少し改変して、独自の物語を聞かせてくれたり、彼の戦いの話は絵本の物語のように貴鬼と紫雲の心を熱くさせてくれた。

 ふと、絵本からハービンジャーへ意識を移してみる。

 紫雲の目はすでに光を失って長い。精神的なものも大きい、と言われたが紫雲はこの目で良かったのではないかと思う。見えはしないが、彼の気配ははっきりと分かる。不器用なのか、それとも単純になれていないだけなのか、辿々しく、幸福な物語を紡いでいく彼の声に紫雲はホッとしたような気がした。

「――幸せに暮らしましたとさ、おしまい」

 あー、と終わったことに溜息をつくハービンジャーへ紫雲はニコニコと笑った。ありがとう、と言えば彼は苦虫を噛み潰したような顔で満足したか、と問うた。もちろん、と頷いてみせる紫雲をハービンジャーは抱きしめた。なんだか、ハービンジャーにはむず痒く感じるハッピーエンドの物語だ。愛なんて信じない、平和なんて見たことがない、と豪語するハービンジャーにとっては本当に絵物語の世界で、紫雲に読んで、と言われるまで縁のない世界だっただろう。
「おもしれぇのか?こんなもんが」
「正直、ハービンジャーの読み方が下手くそで面白くなかった」
「……」
 膝から落としてやろうか、と本気で思ったが、紫雲は先回りしたのかハービンジャーの両腕をしっかりと掴んでいる。顔だけ上げてハービンジャーを見上げてくる紫雲の顔には仮面などなく、痛々しいやけどがはっきりと見えた。その顔で楽しそうに笑うのだ。
「でも、すごく心地が良かった」
 紫雲の言葉にはいつも嘘がない。
 ハービンジャーは紫雲のそういうところを気に入っている。嫌いなことは嫌い、好きなことは好き――まるで子供のような自己中心的な考え方のようで、実は紫雲は多くの人間に気を使っている。気を使うからこそ、はっきりと自分の意見を、意思を周りに提示する。人に向けられる紫雲の言葉を冷たいというものもいるだろうが――ハービンジャーにとっては紫雲の言葉は心地いい。裏表のない、はっきりとした紫雲の物言いは確実にハービンジャーを甘やかしているからだ。嘘のない、言葉で。
 紫雲がそっと自身の目に手で触れた。
「私はもうこの目だから、自分でこの本を読むことはできない。文字をみることも、絵を見ることもできないから」
 少しさみしげに紫雲はいう。普段は事無さげに目が見えていなくても生活しているが、そうだ、目が見えないということは彼女にとってはこういう弊害があるのか、とハービンジャーは気づいた。
「だから、よく、貴鬼が気を利かせて、本を読んでくれた。絵本も、小説も。大変なのにな」
「……そうかよ」
 ――わかってはいるが機嫌が悪くなる。
 貴鬼――牡羊座の修復師、貴鬼は紫雲にとっては幼馴染であり、同い年であり、大切な人間であり、そういう恋愛的な思慕を含まない関係だと、はっきりさせたが、ハービンジャーにとって彼女の口からまるで愛おしいもののように貴鬼の名前が出されるのは嫌だった。それを察したのか、紫雲の手が優しく腕を撫でる。暴れ牛を落ち着かせようと、宥めるように。

「好きな人に、何かしてもらうことはとても嬉しいことなんだよ、ハービンジャー」

 例えそれが下手くそでも。
 うまくなくとも。
 紫雲はそっと微笑んで、ハービンジャーの頬に口付けた。
「私はこの絵本が大好きだった。でも、もう見えないから……それを大好きなハービンジャーに読んでもらう、なんて幸福なことだろう」
 貴方の膝の上に乗り、貴方の腕の中で、大好きな物語を聞く。
 紫雲はたまらなく嬉しそうに笑ってハービンジャーに抱きついた。それを壊さないようにとそっと抱きしめ返して、ハービンジャーは紫雲の方へと顔を寄せた。甘い、紫雲の香りだ。
「お前が、私のわがままに付き合って、私のためだけに絵本を読み聞かせてくれる。すごく楽しかったし、すごく嬉しかった。本当は嫌だっただろうにな」
 ありがとう。
 ハービンジャーの鼓膜を揺らす紫雲の柔らかな声に何だが心がむず痒い気分になる。物語を読んでいる時以上のむず痒さに、ハービンジャーはたまらなく恥ずかしい気分になった。
 そもそもハービンジャーは女など信頼していなかった。生来の生活のせいか、母親は思慕の対象にならないような女であったし、女の細さは骨を折りたいという目的を持った彼には全くそぐわない。愛など信じない彼には女など必要としてないところがあった。ただ、気持ちが通わずとも抱き合えば心地よい、そういう快楽欲しさに女を抱いたことなどそれこそ星の数ほどある。――だが、紫雲は。
(紫雲はあったけぇ)
 細いし、小さい。紫雲の肩口に顔をうずめると、ふわふわとしたハービンジャーの癖っ毛が首をなぞったのか、くすぐったいぞ、と笑う声が聞こえてくる。アテナの全人的な愛も感じたことはある。あれはあれですごいとハービンジャーは思ったが、それ以上に心地よいと思うのは――紫雲の声だった。

「なぁ」
「ん?」
「もう一冊、なんか、読んでやるか?」

 顔を上げてそういえば少し驚いた顔をした紫雲がたちまち花が咲いたような笑顔をする。
 緩やかな、ただ、漠然としたつながりだと思った。ハービンジャーの膝の上から降りた紫雲が次はどれにしよう、と並んだ絵本を、見えもしないのに探しているのを眺めるのがたまらなく平和なような気がしてハービンジャーは破顔した。

ALICE+