それは幸福を形にしたような心


 金牛宮の自室へと戻った時、ハスガードは自分自身以外の気配を感じ取って一瞬身構え、それも必要のないことだったとすぐに構えを解いた。金牛宮へ置いたままとしていた聖衣の近く、マントの中にうずくまって眠っている小柄な人間には心当たりがあったから。

「こら、紅葉、このような場所で眠ってはならん、と何度言ったらわかる」

 マントの中がもぞと動く。数度それを繰り返して漸く夕日を落としたような紅の髪の毛がひょこりと出てきて、ハスガードは破顔した。マントごと彼女を抱きしめるとあら、と紅葉はようやっと覚醒しだしたような声を上げてハスガードに支えを求めて手を伸ばした。
「あらまあ、ハスガード様、いつお戻りに?」
「たった今だ。お前こそ、いつからここに」
 ハスガードの腕の中に居心地の良いところを見つけたのか、紅葉はニコリと笑う。
「先ほどですわ。そうしたら、マントがほつれているのを見つけて――直そうと思っているうちに」
 少し恥ずかしげに顔を伏せた紅葉にそうか、と答えて金牛宮の床は腰掛けた。腕の中から膝の上へ移して、紅葉を後ろから抱くと、紅葉はにこにこと楽しそうに笑い、先ほどと同じように居心地の良いところを見つけて穏やかに微睡んだ。
「昨晩は遅かったのか?」
「――昨晩は、エオス様のお勤めのお手伝いをいたしまして」
 そうか、それは眠いだろう。
「少し眠っていてもよいのだぞ」
「しかし……う〜、ハスガード様、背中を撫でるのやめてくださいませ」
 眠れるようにと規則正しく背中を撫でると眠るのをぐずる子供のように紅葉は身悶えしたが、次第に大人しくなってくる。極めつけに、と先程まで紅葉がくるまっていたマントをかけてやると、ハスガード様の意地悪、と呟きながら紅葉はあっさりと眠りについた。きっとひどく疲れていたのだろう、とハスガードは紅葉の額に唇で触れて優しく抱きしめた。
 紅葉は眠っているだけはあって心地よい暖かさだ。じんわりと服を通して伝わってくる暖かさにハスガードもじわじわと眠気がこみ上げてきた。
(……アテナの聖闘士がこれでは、いかんな)
 まだ聖戦が起きていないから、よいようなもので、と自分を叱咤するもまるで誘われるようにしてハスガードもまぶたをゆるゆると閉じていった。



* * *





 紅葉が目を開けるとすでにオレンジ色の光を感じる。目は見えなくなって久しいが、紅葉はどことなく今の時間がいかほどか感じ取っていた。ああ、もう夕方なのか、と春も終わりを告げる、初夏の暖かで、緑の匂いを含んだ風を感じてゆっくりと身体を起こそうとして、辞めた。
(ああ、眠っておられるのですね、ハスガード様)
 そっと息を潜めて、気配を潜めてハスガードの頬へ手を伸ばした。暖かな確かな熱がたしかにそこにある。それを感じ取る度に紅葉は幸福で、なんて恵まれているのだろうと思う。こんな相手にはきっと二度と会えないだろう。
 ――だからこそ、彼を失うことに恐怖を感じることもある。
 アテナの聖闘士として、そして、黄金聖闘士として戦う彼の身にはこれからも、今までとは比ではないほどの苦難や苦痛が降りかかるのだろうと思ったら、紅葉の小さな胸にある心は今にも押しつぶされそうなくらいに苦しかった。
 優しくて、大らかで、気のいい彼が、自分の守りたいもののために自身の名前を捨て、巨星と名乗り、強く、誰よりも強くあろうとしている。彼の決意を邪魔などしたくなかった。
 そっと紅葉はハスガードの頬に自分の頬を寄せた。
「ん……? おお、紅葉、すまん、寝てしまっていたらしい」
「起きられたのですね、ハスガード様、おはようございます」
 紅葉はにこりと笑った。
 この心配は彼の決意の侮辱にあたると知っていたからだ。口に出してはいけない思いなどたくさんある。わかっているのだ、自分は彼とは共に行きて行けないと。
「紅葉」
「……はい?」
 考えていることを察せられたかのようにハスガードに紅葉は抱きしめられた。何も言葉はなかった、ただ、抱きしめられただけ。なのに、紅葉はホッとしたように胸をなでおろし、ハスガードに頭をあずけた。
(……お慕い申し上げております、ハスガード様)
 それは絶対に口に出さないと決めた言葉。
 二人しか居ない金牛宮の中に押し込んだ、小さな秘め事。

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