夜明けには貴方がいる
ポセイドンの海底神殿には少しずつ同士が集まりつつある。神すらたぶらかしたその男は静かにほくそ笑み、海龍の鱗衣を脱いで、深く椅子に腰掛けた。静まり返る海底には今、光のささない時間だった。――夜だ。
「……そろそろ、か」
カノンは小さく呟いた。漸く椅子に腰掛けたばかりだというのに、服を取り替えると一度だけ鏡の前に立ち止まり、すぐに視線をそらして歩き出した。自室を抜け、神殿を通り抜ければ辺りは異様な静けさだ。同士たちも今はここには折らず、各々が行動を取っている時期、カノンは高く飛び上がると、まるで空のようにある海の中へ飛び込んだ。
夜の海は深く、暗い。何も見えなくなる日も当然存在する。だが、それでも毎日のようにカノンはこの時間になれば海面を目指して泳いだ。一心不乱に海面を目指して泳ぎきれば、カノンは顔を上げて大きく息を吸い込んだ。ここ数年は肺活量も鍛えられているのではないか、と冗談めいて笑う。小宇宙を高めて水の上に足をつけて、東の空をそっと見つめた。
暗い、暗い紺色の空が、薄っすらと白くなり、水色へなり、黄金のような、赤い色を放つその瞬間の少し前。空が僅かに紫がかってくると、カノンの全身の感覚器官が彼女の存在を感じ取った。
「だーれだっ」
後ろから伸びてきた腕。
明るい、温かな声。
「アスナ、だろう? 何度も同じ手を食らうと思うなよ?」
ひょい、と躱してみると、わわ、と慌てた声で水の上に立った一人の女。純白の花嫁のような衣装に暁のような赤い爪、黄金の装飾、まるで暁のような、変わった髪の色。だが、その体は少しだけ透けている。
「第一、お前以外、こんな海上まで来る物好きはいない」
「むー……」
アスナは体勢を立て直すと少し膨れた頬を治して、柔らかく微笑んでみせた。まさしく、女神の微笑み。カノンはその微笑みを見ながら、まるで従者が主に向かってするようにうやうやしくひざまずいてみせた。
「カノン?」
「いや、何、お遊びだ。――私の、女神」
私"だけ"の女神。
カノンはそっと透けて触れられないはずの手へ手を伸ばす。ゆっくりと持ち上げるようにして動かせば、アスナが手の動きを合わせてくれる。重みは感じない。当然だ、彼女は"ここ"には存在していない。
触れるだけのキス。
手の甲へキスをするとアスナが目を見開いて、その白い頬を赤く染める。
「本当のキスは」
そっと触れられない唇へ指をなぞらせる。
ふっくりとした、小さな唇。
「お前に会ったときに」
――必ず、お前に会いにゆく。
真っ白な光が二人を照らし出し、アスナは――消えた。