雨が降れば、の隣


「ほら、カノン、早く!」
 はしゃぐ声が聞こえてカノンは肩をすくめた。楽しそうで何より、と思いながらもこのまま人混みに紛れて消えてしまいそうな恋人――アスナを捕まえるために少しだけ歩を早めた。平日の夕方とは言え、遊園地にはたくさんの人がいて、ちょっとでも見失ったら探すのは大変そうだ、とカノンはアスナの手を捕まえて苦笑した。
「勝手に行くな。見失う」
「えへへ、だって、カノンとデート久しぶりだから」
 手を握ったままニコニコと笑うアスナは本当に今日を楽しみにしていた。本当は休日にゆっくりと来ても良かったのではないか、とカノンは思っているが、アスナがどうしてもこの日がいい、とこだわるので今日にしたのだ。
「カノン、クレープたべよっ」
「わかった。そうはしゃぐな、転ぶぞ?」
「転ばないもんっ」
 両手で自分の手を引いてくるアスナについ破顔をして、カノンは小走りになった。



 あーん、と大きな口を開けてクレープを頬張るアスナの口の端にはクリームがついている。
「アスナ、動くなよ?」
「ん?」
 カノンは顔をアスナに近づけて、ちゅ、と口の端を吸った。ぺろり、とクリームを舐めとって、カノンは笑う。離れなくてもわかるくらいアスナの顔が一気に熱を持って紅くなっていて、ああ、可愛らしいな、と目を細めた。
「……あ、あり、がと」
「ああ。気をつけて食べろよ?」
「……ん」
 照れて少し静かになったアスナの耳まで紅い。そこまで照れなくても、と思いながらほら、と自分のクレープの差し出した。少し顔を赤くしながらも、クレープにかじりついてきたアスナの姿はやっぱり、付き合っているという贔屓目も当然込でかわいい。可愛らしい。
「ねえ、カノン」
「ん? どうかしたか?」
 ――もう一口か?と聞いてみるがアスナは首を横に振る。
「楽しい?」
 アスナの金色の瞳が夕暮れを映して、カノンをじっと見つめている。昔からこういう時のアスナには何か、全て見透かされているような気分になって――大好きなアスナの中の少しだけ苦手な部分だ。だが、それも含めてアスナだと、カノンは知っている。
 夕焼けに照らされるカノンをアスナはじっと眺めた。かつて――かつて、彼を想っていた頃と同じように。彼が何も覚えてなくてもいい、ただ、今、自分は彼と手をつなぎ、彼と話し、彼に愛され、彼と共にあれる。それだけで、心が満たされる。アスナはたまらなく破顔してカノンを見つめた。
「ああ――楽しいさ。お前が、隣りにいるんだ」
 そう、言ってくれることだけが、今のアスナの幸福だ。



* * *





 ジャットコースターにコーヒーカップ、メリーゴーランドに――最後のお化け屋敷でアスナが全力で怖がって叫びそうになっていてカノンはつい笑いそうになったが、怖い怖いと自分にすがってくるアスナは嫌ではなかったので十分満足している。
「次はね、観覧車いきたい」
「そうだな。そろそろ――」
 締めに、と想ったところで、カノンは不意に空を見上げた。
 ぽた、と降り注ぎ初めたのは大粒の雫。いつの間にか、夕焼けが見えなくなるくらいの曇天が広がっていて、次第に雫が落ちてくる量も速さも段違いになっていく。
「……ついてないな、アスナ、走るぞ」
「むー」
 カノンがアスナの手を引いて、走り出す。雨から逃げるようにと思っても、だんだんと雨脚をまして、コンクリートを打ち付ける雨にカノンとアスナは顔をしかめながら、近くの屋根の下に入った。今日は晴れていたから、きっと多くの客が傘を持ってきていなかったのだろう、あちらこちらの軒下には濡れた客たちが居て、カノンたちも同じだ。
「すっごい雨」
 アスナがそう呟きながら、軒下から空を見上げるようにした。制服の水を払おうとしても、すでにしっかりとシャツには水が染み込んでいてずっすりとする重さを感じる。ピッタリとくっつくのがあまりにも不快でアスナは顔をしかめた。カノンも同じように顔をしかめていたが、ふと、アスナの方へ視線をやって、慌てて目をそらした。
(……しまった)
 何か上にかけるものでもあればよかったと思った。制服の白いシャツは水を吸って透けていて、黒いレースの下着をはっきりと映し出している。見てしまった――みるつもりはなかった、と誰に言い訳しているのかわからないことを思ってしまっているが、アスナがカノンの様子の違和感を感じて、顔をカノンへ向けた。
「カノン?」
「……い、いや。……アスナ、とりあえず、タオル貸すから肩からかけてろ」
 たまたま持ち歩いていたタオルをアスナの肩へかける。無いよりはマシなはずだ、と思うがアスナはなぜそれをかけられたか気づいてないらしい。ただ、ぽかんとしていて、カノンが少し言い出しにくそうに顔をそらした。
「……透けている」
「……へ?」
「…………」
「あ……っ!」
 漸く気づいたらしいアスナが顔をまた赤くして慌ててタオルで抑えた。互いにものすごく気まずい空気が流れてしまったが、ごほん、とカノンは先払いをして、佇まいを治す。そして、アスナの肩を抱き寄せて、耳元に話しかけた。
「……どうする?」
「……っ」
「うちに来るだろう?」
 ちゅう、と耳たぶを吸えば、びくりと、肩が震えたのが見えた。顔を真赤にしながら見上げてくるアスナから手を離すとアスナは雨の下へ走っていってしまう。まだ、顔は赤くて、少し走ってカノンの方へ振り返る。

「今日は、カノンの誕生日なんだから、カノンの好きにして、いいんだからっ!」

 そして、また走り出してしまう。
 迷子にならないか、という心配も去ることながら、言い逃げするなんてなんてずるい。カノンはくつくつと笑って、これは家に帰ったら二人共サガの説教コースだな、などとくだらないことを考えながら、アスナを追いかけて雨の下へ走り出す。

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