静かなる平穏


 パラス――サタンとの聖戦が終わりを告げて一年ほどが過ぎただろうか。聖域も、世界もすっかりと力を取り戻して平和な日々が続いている。ハービンジャーも教皇となり、日々の仕事に明け暮れながらも牡牛座の後継者が見つかるまでは自身が黄金聖衣を所持しているという状態が続いているが、聖域では新しい聖闘士たちの芽が確かに育ってきている。そうして平和になればなるほど、ハービンジャーの仕事は戦うことではなくて、苦手な書類仕事ばかりになってくるのであって、今日も今日とて彼は机にかじりついて書類整理だ。
「あーーーー」
「うるさいぞ、ハービンジャー」
 もはやお目付け役とかしている聖衣の修復師――牡羊座の貴鬼はあっさりとハービンジャーの呻きをうるさい、と断じた。これに取り合っていては仕事は進まない、とここ一年の経験で嫌というほど知っている。今日は乙女座のフドウ、双子座のインテグラも別件で出ていて、教皇の間でハービンジャーをサポートしているのは貴鬼しか居ないということもあってか、まったく容赦がない。
「んで、こんな毎日毎日書類ばっかり……」
「これもれっきとした教皇の仕事だ。ほら、愚痴をこぼす暇があったら――」

「ハービンジャー、貴鬼」
 聞こえてきた声に二人は入り口の方へ顔を向けた。ハービンジャーにとっては安息がやってきた、と言わんばかりにかじりついていた顔を勢い良く上げた。入ってきたのは紫雲だ。落ち着いた紺色のカットソーにロングスカート姿の彼女の手には茶器とお菓子の並べられたお盆だ。
「そろそろ休憩にしない?」
「わかってんじゃねえか、紫雲!」
「……はぁ」
 紫雲にまったく悪気がないのは貴鬼もわかっている。だからこそ、貴鬼は強く何も言わず、応接用にと設えられているソファとテーブルのところまで紫雲を導いた。紫雲は手際よく茶器を並べると静かにお茶を注いで二人に差し出した。
「どうぞ」
 ――召し上がれ、というと貴鬼は静かにお茶を飲み、ハービンジャーはそれでも書類を片手に茶器を手に取った。紫雲は少し驚いたように眉を上げて、ふふ、と微笑んだ。
「少し休んだらいいのに」
「これが終わんねぇとうるせぇやつがいんだよ」
 ちらり、と茶を飲み、菓子を口にする貴鬼に視線を向けるが、貴鬼は何も動じた様子はなくそうだな、と短く答えるだけだ。そのやり取りも幾分か見慣れたものになって、紫雲はおかしそうに笑って、自分もソファに腰掛けた。自然とハービンジャーの隣に腰掛ける紫雲を見て、貴鬼はふぅ、とため息を付きながら、困ったように笑った。
 長い間傍に居た幼馴染の幸福を祝福しないわけではないのだが――些か複雑な気分になるのを許してほしい。もちろん、彼女が笑っているに越したことはないがその相手がハービンジャーとなれば考えさせられるというものだ。決して彼が悪人ではないことはこれまでの闘いでわかっているし、弱者の思いを汲み、その怒りから戦うことの出来る人物なのだと、紫雲が柔らかい表情で語ったことは記憶に新しいが――それでも。それでもだ。
「貴鬼?」
 今は仮面の裏側を知っている人物しか居ないからだろう、紫雲の顔には仮面がない。顔の右側を覆う大きなやけどと、閉じられた左目。彼女は失明してもう何年経っただろうか。それこそは最初は決して光の差すことのない暗闇に泣いて怯えて立ち上がることすら難しかった紫雲だが、小宇宙を使って日常動作どころか戦闘すら出来るようになった彼女の努力は計り知れない。
「いや、なんでもないよ。おいしいよ、紫雲」
「本当! 頑張って作ってみたの」
 紫雲が顔をほころばせると、その隣で書類を見ていたハービンジャーの手で思いっきり書類が握りつぶされる。明確に嫉妬しているのだろうが、君が口にして褒めればそれで済む話だろう、ということは一切口にしない。協力するつもりは一切ない。絶対にしない。すでに決めているのだ。
「ハービンジャー、甘いものは嫌いだった……?」
「……嫌いじゃねえけど、手が塞がってんだよ。一個取ってくれ」
「うん」
 不安げに見上げた紫雲に対してそういうハービンジャーの顔はわずかに照れている。照れるくらいなら言わなければいいのにと思ったが、口にしなかっただけ自分はおとなになりましたね、ムウ様、と今は亡き師に向かって貴鬼は思った。
 紫雲は素直に一つ菓子をとるとあまりハービンジャーに近づけないところで止めた。いくら、小宇宙を使っても口元まで正確に運ぶのは難しいのだろう。ハービンジャーもそれがわかっているのか自分で顔を動かして菓子を口に入れると、紫雲の指まで食んだ。
「っ! ハービンジャーっ」
「あんだ?」
 ぺろり、と紫雲の指まで舐めたハービンジャーにさすがの紫雲も顔を赤くしている。じとり、と貴鬼がハービンジャーを睨むがお構いなしだ。再び指先にキスして、もう一つ、と紫雲に強請った。指まで食まれた紫雲はもう、と少し怒ったように声を上げて、プイとハービンジャーから顔を背けた。
「自分でおとりになったらよろしいわ、教皇!」
 それが面白かったのか、くく、と笑ったハービンジャーは書類を置いて、紫雲の肩を抱いた。
「ごほんっ」
 貴鬼が大きく咳払いをするとハービンジャーの右目と貴鬼がばっちり目が合う。あ、えっとね、とただ一人慌てて弁明しようとする紫雲だけの声が教皇の間に聞こえていた。

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