いい子、いい子、わるい子。




 ワイングラスの底を眺めながら、スティーブンは赤い海の底を泳ぐ泡の気泡を見つめた。弾けては声を殺すようにして静まり返るしゅわしゅわとした炭酸の音だけが静寂の波を縫って泳いでいく。それはまるで泡沫の存在にいる、虚構の上に立つクラウスのようだと、スティーブンは思った。
 寝室のベッドに寝そべるクラウスは、未だ夢の中を彷徨っていた。だから、なんだ。スティーブンには、ひとつだって関係なかった。楽しんだ時間は十二分にさきほどまで存在していたのだから、気にするようなものでも無いのも事実だった。
 ベッドの傍に椅子を置いて背もたれを前にスティーブンは座り込み、ワイングラスを見つめクラウスをみつめてゆらゆらすることでしばらく経った。不意に、眠り込んでいたクラウスが寝返りを打ち、こちらを向いた。寝付きの良い男なのでそうして動くのはどこか不思議な感じがして、思わずグラスを持つ指先に力がこもった。起きるのかも知れない。でもそうじゃないのかも知れない。期待と、それから未だこの深淵を楽しみたいという気持ちが葛藤して、スティーブンは臍を噛んだ。
 布団の中に包まるクラウスはまるで幼子のような顔をしてくぅくぅと寝息をたてている。覗いた肩口には最中に噛みついた歯型が残り香みたいにしぶとく付いていた。そんなに強く噛んだっけ、スティーブンはとっぷりとグラスを傾けた。
 喉の奥を滑り落ちるスパークリング。炭酸の気泡が口内で弾け却って耳を五月蠅くする。とっぷりと喉奥で味わってから、それからスティーブンは暗がりの、橙色のムードライトを頼りにクラウスの頬許に座った。沈み込んだスプリングに、ギイ、と安物っぽい音がして、買い換え時だろうかと考える。
 いいか、クラウス。
 昼間にぽつんと呟いた言葉が、脳内で反芻した。
 まるで、説教だ。いや、どちらかと言えば、子供をあやすそれに似ているのかも知れない。鼻先につく甘ったるい香りを平然と身体に付けて、クラウスはにんまりと笑っていた。性質の悪い娼婦のようだ。ネオンの光る安い娼館ではなく会員制のクラブにいるような出来のいい女の顔をして。
 口許に生える彼の白磁の牙に、指先をほのめかせながら、やんわりとスティーブンは吸いついた。甘い味のする、口内はスイーツ好きの彼らしくほんの少し、乳臭い少女とのキスのようにも思えて、顔をしかめた。
 いいか、クラウス。僕との約束を守ってきたかい?
 その言葉に、事務所の中はとんと厳格な雰囲気を失って、楽園の果てにいた誘惑の蛇がそこらじゅうでクラウスを堕落させる。元々性悪の女の気質を持っているのだから、今更のような気もした。約束ごとを破る気も無いクラウスは笑みを浮かべ、すこしばかり高揚した赤い頬を染めて、スティーブンの腕を取った。
 仮眠室へと誘われ、鍵はかけられる。賽は投げいれられた。憐れな子羊の顔をしたブラックシープは、スティーブンを見つめて甘い吐息を零した。

「いい子に、してきたので」

 事実その通り、彼の禁欲めいたスラックスの尻の窄まりに指先を近づけ、太ももへとなぞった。コードのようなものが伸びている。彼は、スティーブンとの約束を違えることもなく、高級な娼婦から店先で袖をひく安上がりになってみせたのだ。
 そのあとは言わずもがな、こんなみっともない男をほうっておけるわけもないだろう、淫売め。堕落したイブなど、僕のようなアダムしか引き取ってはくれないよ。そんな馬鹿げた、それこそまるでごっこ遊びのようにクラウスを詰った。
 そうして仕事なんてやめたとでもいうように、彼を昼間から仮眠室で犯して、そうして夜も激しく苛んだ。別にイラついていたわけではないけれど、彼を無茶苦茶にしてやりたい、そう思っただけだった。
 足許に置いたワインボトルを手に取り、スティーブンは眠っているクラウスの頬に唇をつけた。可愛いね、クラウス。
 そして唐突に、ワインの口をひっくり返し、クラウスの頭上にひっさげた。
 ぱちぱち、しゅわしゅわ。彼の髪や顔を赤く染めていく赤の水底。シーツも真っ赤になって、まるで殺害現場のようだった。
 けふり、とクラウスがワインに溺れ掛けて、赤いまつげをけぶらせて緑色の眼を開いた。
「すてぃーぶん……?」
 ねぼけた声が耳に響く。髪をキラキラと気泡が弾けてすべっていく。自分の現状を理解出来ていない緑の目玉がとろりと色を濁して、スティーブンを見ていた。
 だから僕は、にんまりと口角をあげてやる。「ハローダーリン」呟く言葉、ひときわあまく。
「ねェ、続きしよ?」
 寝惚けた彼の目玉をべろりと舌先げ味わって、首筋に吸い付く。シーツを剥いで、裸の身体をむき出しにしてやれば、あとはもうスティーブンのものだ。おんなの顔をして期待したクラウスが、夜を尊ぶように期待して舌先を伸ばしてきたのだった。

END