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「別れてくれ、クラウス」

 ――ああ! ついに! 言ってやった!
 スティーブンの心中は、喜びのた打ち回っていた。とうとう、あのクラウス・V・ラインヘルツを不幸の端に追いやったのだから。スティーブンの前で、さも茫然と立ち竦んでいる男は、スティーブンのその言葉になんと返せばいいのかひどく悩んでいるようだった。
「スティーブン」
 震えた声。しかし、スティーブンはそれに同情も果たして憐憫さも抱いてやることは不可能だった。今は、晴れ晴れしい気持ちしか、生憎持ち合わせていない。いや、そもそも最初からそのつもりであったのだから、当然だ。この状況に追い込むことが出来、相手が落ち込む姿こそ最上だった。
だから、常の鉄壁のポーカーフェイスは、今や形無しだった。きっと、ニコニコとした己が男の目には映っているに違い無い。
 さて、どうする。
 スティーブンは男の言葉を待った。きっと今頃、クラウスの胸中はズタボロであろう。しくしくと心臓から血を流しているのを懸命に耐えていることだ。そうだとしたら、実に最高の結末だった。スティーブンは今すぐにでもクラウス以外の全人類になら「愛してる!」と叫んで一人ずつに頬へキスをくれてやりたい心地にすらなっていた。あの度し難いクズであるSSですら例外ではない。
 クラウスはようやく、後の言葉を見つけたらしく、その重い口を開き、苦心して乾いた舌の根を動かしてみせた。
「……分かった。君が望むならば、そうしよう」
 ――ハレルヤ!
 スティーブンは心の底から信じてもいない神に感謝を捧げたのだった。


◆◇◆



 スティーブン・A・スターフェイズのその日は最低最悪だった。
 『当店限定!』という謳い文句でサブウェイ各店舗による限定具材の取扱いが始まり、スティーブンはHL限定の生ハムとスモークチキンを非常に、それはもうとにかく楽しみにしていた。
 ランチに相変わらず長ったらしい注文の御託をつらつら並べることにも、さして憂鬱さは見当たらず、午前中のスティーブンは、いくら書類の山がデスクにあろうとも、もっと持ってこいよ! というくらいの心意気はあったのだ。
 ――あったのだけれども。
ここは天下のHL。天変地異がいつ起こっても不思議ではない。そのうえ己は、それらを救う部隊に所属しているとくれば、本懐する街へ全力で駆け付けなければならない。当たり前のように、その日も事件は発生した。奇しくも、スティーブンが出向かった先のサブウェイの近くであった。
 ランチにありつこうとした時間において、同時多発放火魔の化け物に境遇するのは、何も不思議なことでは無い。無いのだが、残念なことにスティーブンは空腹であったし、やる気もなければ邪魔をされたことに、怒りの沸点はいつもよりずっと低かった。腹を空かせた男の苛々と言うものは、何者にも伏しがたい。
 その時のスティーブンの攻撃は遠慮もなにもあったものでも無い。強いて言えば八つ当たりのものをこれでもかと加え、ずいずいと敵を追い込んだ矢先である。
 スティーブンは、正直、かなり辟易した。
そのうえ、バカなんじゃないかと力一杯罵倒したくなったが、すべて飲み込み、赤い巨体が転がり込んできたのを横目に、それの前に踊り出た。カツン、と床をヒトツ踏み鳴らし、氷の壁を形勢した。――が、新調したネクタイは敵の炎に焼かれ、みすぼらしい結果を招いた。
「クラウス! 何をやってるんだ!」
 無防備にも飛び込んできた、我らがボス、我らがリーダー。件の人物であるクラウスを睨め付ける。すまない、と小さく謝罪した男の腕には幼い少女を抱いていた。ここまでくれば、もう言葉すらなかった。なにせ、自分を顧みず、世界を救うと宣う男の常であったからだ。
 舌打ちをひとつ。スティーブンは、前に飛び、自らの攻撃の併せ技で以て、クラウスと少女を守るように、身を転じる。何本もの氷柱が敵の急所を貫き、最後に氷棺に仕立てあげてみせた。一種のオブジェは、中身さえ違えばとても美しい。
 呆気なく片が付いたかに見えた現場を見渡し、スティーブンはその日いちばん落胆した。
 ランチへと洒落混むつもりであったサブウェイの店は巨大な赤の十字架で押し潰されていた。真ん中で嘲笑うかのような髑髏によりいっそ腹が立った。
 なんてことだ!
 それはもう、ものすごく楽しみにしていたランチメニューだった。十字の下には、生ハムとチキンが埋もれてしまっているに違いない。これは、もうそれら二つのための墓標にすら思えた。――アーメン。
 次いで言えば、スティーブンの災難は、これだけではなかった。
 放火魔の異人は、炎でスティーブンの新調したネクタイを燃やしただけに飽き足らず、クリーニングから返ってきたジャケットも同様の末路を辿ったのである。きっと今日は、そういう運命だったに違いない。紺のシャツが裾のみ焦げただけで済んだのは奇跡だった。ともすれば、半裸で街を歩く羽目になるのだけはごめんだった。
 スティーブンはもう一度舌打ちし、横目で本日の災難を連れてきたクラウスを見遣る。すっかり少女を母親の元に届けて、安心したようだったが、スティーブンはぎりぎりと歯を引き絞った。整った顔が台無しだったが、そんなことを気に留めている暇はない。
 ――これもぜんぶ、お前のせいだクラウス・V・ラインヘルツ!
 尻ポケットに入っていた煙草を吸おうとして握り潰した姿をレオナルドは見ており、ひぃ、っと短い悲鳴を上げていたが、そんなこともどうでもよかった。スティーブンに憎々しく見つめられているクラウスはてんで気づきもしなかった。
 腹立ちに任せ、「少年」と呼びつければ、地上から三〇センチほど飛び上がったレオナルドが、恐る恐るこちらに近付いてくる。
「は、はあ。なんでしょう、スティーブンさん」
「俺のランチタイムが残念ながら、無くなってしまってねェ。今から俺は事務所に帰って、始末書を作成しなきゃならない。少年、悪いんだけど、此処から一番近いサブウェイに行って、セサミにチーズローストチキンサーモンマスカルポーネツナたまごバジルソースで頼むよ。金は余ったら好きにしていい」
「え、ちょ、スティーブンさん!」
 慌てるレオナルドを後ろに、頼んだよ、と手を振る。恐らく覚えてなどいられないだろうし、確実に間違ったオーダーが来るだろうが、それも見越していた。いささかの憂さ晴らしにはなったからだ。
 ――アア、しかし。
 クラウスの巨体は嫌でも目に入り、スティーブンの気持ちを急落させていった。これで、更に何かをされれば今すぐにでも当り散らして、周囲一〇キロほどは凍らせる自信すらあった。
 目頭を押さえ、帰路に着く。朝に思ったことは今すぐにでも撤回してやりたかった。……






 ……レオナルドが買ってきたサブウェイのサンドイッチは、サーモンとツナくらいしか合ってはいなかったが、よしとした。釣りを返そうとしてきた律儀なさまに、皆にドーナツでも、と押しとどめて、更に買い物に出向かわせた。なのでライブラの事務所内には、スティーブンとクラウスしかいない。ギルベルトは、別室でアフタヌーンの支度をしているようだった。ランチを逃した主人を気遣ってのことであろう。彼は何も言わずとも察する優秀なバトラーだ。
 サブウェイに噛り付き、バジルではなくシーザーに代わっているソースの味に、まあまあだなア、などと思いながら目の前の書類の山を片付ける。
 修繕費用に、今回の異界人の特徴、投入された部隊数、単独犯か、組織犯か、エトセトラエトセトラ。兎角、スティーブンの仕事は多いのである。そういえば、今夜は女と会う約束があったはずだ。スケジュールを見て、はた、と思い返す。――そういえば今夜は、オーケストラを見に行く約束だったのではないだろうか、情報提供者の女と。
 約束のチケットはジャケットの中だった。
なんてことだ!
 スティーブンは思わず、頭を抱え書類の山に顔をうずめた。災難はどこまでもまとわりついてくるらしい。山の合間に見えるクラウスは相変わらずのほほんとしていて、優雅にペンを走らせている。余計に腹立たしく思えた。
「くそ、くそっ、本当にあの野郎……、どこまで邪魔して……、俺がどんなに徒労しているか本当に分かってない……ちくしょう」
 小さくぼやく呟きがクラウスに届くことはない。そもそも、そんなことを本人言えば、本人が良しとしても、周囲が黙ってはいない。罵詈雑言の数々をクラウスのことを信奉する、または愛しく思っている輩たちに四方八方から責め立てられるに違いなかった。
 心ともなく、涙がこぼれそうだった。
正直、スティーブンはもうひどく疲れていたし、そのうえランチは台無しである。そもそも、毎日のように苛立ちを与えるクラウスの存在に辟易していたこともあった。家に帰り、施設部隊の男に、愚痴をこぼして慰められた夜もある。――しばし、困惑させオロオロとさせたのは余談であるが、最終的にベッドの傍でずっと話を根気よく聞いていてくれた。
 なぜ、こんなにも我慢を強いて仕事をしているのだろうか。ワーカーホリックは人生計画の予定には入っていなかったはずなのだが。
 草臥れた心を立て直す気力は、今は無く、行儀悪くデスクに頭を預けたまま書類の字面を追う。流れ作業に身を任すものの内容は頭の隅を通り過ぎていくばかりだ。
「スティーブン」
 不意にクラウスが、心配げな声で呼びかけた。低く耳に心地のいい声だ。子守唄には最適だろうが、スティーブンは今すぐナイフを投げつけたかった。
「どこか体調が悪いのだろうか……? 君はいつも無理をするだろう」
 クラウスの言葉に、また一つストレスが増える。お前のせいだ、と声を大にして叫んでやりたかったが、そんなこと出来るはずもなく、手で顔を覆い、出来るだけ表情を隠した。
「いや……、大丈夫さ。さっきの奴のせいで、ジャケットもネクタイも駄目になって、ちょっとだけグロッキーになっているだけだよ」
「そうか……。それは、スティーブン残念なことだ。……そうだ、スティーブンよければ、その、ネクタイとジャケットを、私のほうで新調させてはくれないだろうか」
 もじもじと頬を赤らめ、提案する姿にぽかんと口を開ける。なんだその反応は。というか、そんな首輪を寄越されるような真似は死んでもしたくない。いやいっそ、アルマーニのオーダーメイドでも注文してやろうか。しかし、クラウスのことだ。それでいいのかね、とかなんとか言ってピアーナあたりにランクが上がりそうだった。
 「君が気にすることじゃないさ」スティーブンはもっともらしいことを言って、断った。そうだ、クラウス、お前が気にすることじゃない。いや、そもそも、プレゼントなんて欲しくもない。
 しゅんとしたクラウスを見て、スティーブンはつい、口を滑らす。
「なんだ、君、僕によっぽど服を送りたかったのかい? 僕のこと大好きなんだなー」
 なんて。思わず鳥肌が立つ台詞を吐いた。見てみろ、いま背中には寒気がはしりまくっている。揶揄は時として自分にも降りかかるので、紙一重だ。にへらと笑いながら、クラウスを見遣れば、スティーブンはぎょっとした。
 しかして、その時の、目の前の男の様子は見物であった。顔がこれでもか、というほどに凶悪になり耳まで真っ赤にして、体中から湯気が立ち込める。あ、やばい。地雷踏んだ。などと、スティーブンが思う頃、この日一番の災厄は到来したところであった。
「あ、そ、そのスティーブン、私は」
 出来ればその続きは思い描いているものとは違うものであってほしい。しかし、こういうときほど当たるものだ。
「私は、きみのことが好き、だから」
 アア、ジーザス!
 スティーブンは、天を仰がなかったことを褒め称えたい。よりにもよって、告白された。あのクラウスに、だ。顔を真っ赤にして、まるで乙女かというほどに俯いて。昨今の生娘だってこんな反応を見せることは無いだろう。一体いつの時代の人間なんだ、君は。
 好意を向けられて嫌な人間はいないかもしれない。好きだ、と言われたことに対し、スティーブンの貞操観念については、ザップに負けじと劣らずだ。だから、「そうかい、それじゃあホテルに行こう」なんてことも出来る。けれど、そう、スティーブンはこの男からのそれに応えられるはずもなかった。なにせ、スティーブンは、クラウス・V・ラインヘルツのことが。
 ――大嫌いだったからだ。
 スティーブンが、嫌悪感にあんぐりと口を開き呆けていれば、クラウスは慌てたように「すまない」と動揺を隠しもせず、謝罪した。
「すまない、スティーブン。このような、巨体の男に告白など気味が悪いはずだ……。つい、君の言葉に軽率に言葉を滑らしてしまった」
 泣きそうな声が、耳に届く。しかし、スティーブンはそれを可哀想だとはちっとも思わなかった。むしろ「アア、そうだな。その通りだ」と思ったが口にはしなかった。いや、そもそも気味が悪いだとか同性愛だとか、そう言った類に黙っていたわけでは無い。クラウスの容姿も体躯も気にする話ではないのだ。
 根本的な問題は、スティーブンがクラウスという存在が嫌いだということなのである。そんな告白を受けたところで、ほら見てみろ。自分の言葉ですら、鳥肌がすごかったのに、今は発熱すら催しているじゃないか。これはいよいよ以て、ぶっ倒れそうだった。いろんな意味で。
 クラウスの表情は見えなかった。果たして、どうしようかとスティーブンは、思案する。穏便に済ますならば間違いなく、やんわりと否定をすることだ。優しく、真綿で包むような柔らかさで、非常にオブラートに。
 しかし、そう、この日、スティーブンは最高に機嫌がハイだった。今すぐ氷の城でも立てて閉じこもってしまいたいくらいには、よろしくない具合だったのである。クラウスの告白を受けた時、腹がくちていたのは唯一の救いか。
 だからスティーブンは、このだんまりの時間、早急に男を突き放す方法を考えたのだ。飴と鞭、天国と地獄。たとえるならそんな気分にさせてやりたい、と。
 女に評判の真面目な表情を作り、ス、と立ち上がる。クラウスの目の前に躍り出て、ごつい手を取った。驚きに、今にもおっこちそうな翠の目がスティーブンを映す。
「す、スティーブン」
「悪い、クラウス。あまりにも喜ばしいことだったから、目を開けたまま気を遣ったみたいだ。僕も君とできれば恋人になりたいんだが、僕のこの気持ちも気味が悪いと思うかい?」
 主演男優賞、オスカー賞、なんでもいい。今すぐにでも己は、ハリウッドデビューを飾れるほどの台詞と演技力だ。ここでにっこりとほほ笑んでやれば、完璧。女なら喜んで股を開いて、あんあんと知りたい情報をくれるものだが、目の前にいるのは男だった。いや、男でもわりと容易に口を割り始める。とはいえ、クラウスという男は別次元であった。さて、どう出るのか。
 男の言葉をじっと待っていると、わなわなと奮えだす肩、どうすればいいのか分からないというように視線を彷徨わせ、たっぷり数分を要して、ようやくクラウスは、言葉を口にした。

「……うれしい」

 それは、たった一言であった。常なる男の言葉にしては、あまりに単純明快のそれ。柔らかに目を細め、緩やかに上げられた口角。漏らした声音は幸せにあふれていた。破顔した男の表情をスティーブンは、その時に初めて見た。この何十年、連れ合った中で。
 見たことも無い表情に、一瞬言葉を失う。――そんな顔も出来たのか。軽口は出てこず、少しばかり何も考えられなかった。何も答えることの出来ない時間を、スティーブンは次の返事を考えるような素振りでごまかし、クラウスと同じ言葉を繰り返した。
「――君がうれしいと僕もうれしいよ、クラウス」
 ぞわりと、肌を寒気がはしる。
 頬を染め、にこにことしているクラウスに、同じように微笑み返しながら、スティーブンは暗澹とした思いで、クラウスを見つめる。表情が見えないのなら思い切り睨めつけていたことだろう。
(――さあ、覚悟しろ。クラウス・V・ラインヘルツ。お前のどん底の顔を拝んでやる。)
 スティーブンの決意など知ることのないクラウスは、まさに幸せの絶頂で握られた手をゆるく握り返したのだった。
 かくして、この滑稽な恋人劇の日々は幕を開けたのである。



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