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 ――華麗なる幕開けの舞台は、中身まで華麗なわけでは無かった。

「もう、無理だ!」
 スティーブンは泣きながら、ベッドに飛び込んだ。私設部隊のひとりが部屋の前でおろおろとしている。スティーブンは、誰に言うでもなく、くぐもった声で愚痴を吐いた。
「なんなんだ、あいつ……。一体どこまで俺を振り回せば気が済むんだ、ちくしょう……くそ、胃が痛い……」
 そんな嘆きに、胃薬と水が運ばれてきた。本当に優秀すぎて、涙が余計に溢れ、わっ、とシーツに顔を埋めた。三十路の男にしてはあまりに面白い姿になっていたが、今のスティーブンには気にする相手もいなかった。私設部隊の男は、静かに寝室の扉を閉めて去って行った。出来るやつだ。
 クラウスを陥れようと計画し、付き合いだして四日と三時間。加えて、血管が切れそうになった回数、二十数回。罵倒しようとした回数、両手両足の指以上。スティーブンの胃がしくしくと痛んだ回数……此処まで考えて、スティーブンは余計に頭痛がした。
どうして、こんなに頑張っているのだ、自分は。
馬鹿なんじゃないか、そう思いたくもなるが、これもすべてクラウスを不幸にしてやる、という決意のもとであった。
 そもそも、嫌いな相手と共に過ごし、そのうえ気を遣うというのは尋常じゃないほどに、胃がねじ切れる思いだった。何度か、血反吐をまき散らしていたかも知れない。いや確実に、何度か喉をせりあがってきていた。なぜなら口の中は鉄の味がしていたからだ。
 ――それの原因としては、苛立ちに何度も唇を噛み締めていたこともある。おかげで、現在、口の中はひどい有様だった。口内炎で死んだらクラウスのせいだ。
 果たして、スティーブンが過労で死ぬのが早いのか、クラウスに不幸を押し付けるのが早いのか。出来れば後者でありたいが、現状がスティーブンの方が死にかけていた。
 そもそも、だ。
 クラウスとデートをしようということになった。赤面で迫られた時には、どうにか吐き気を我慢して、「オフコース」を唱えることに苦心したスティーブンの気持ちなど誰にも分かりはしない。
どうせならば、クラウスの不慣れな場所にでも連れまわし、「スティーブン、君はひどい男だったんだな……」と言わしめさせるか、はたまたクラウスの駄目な様を見て己が幻滅したフリでもして「君には愛想が尽きたよ!」とか適当な台詞を並べ立て、こっぴどく振るという展開も望んでみたが、結果は惨敗だった。
 とにかく、クラウスは無知だ。そのうえ、素直だった。子供だったならば、教師に好かれるタイプの子供だっただろうが、果たしてそれが現在に通じるかと言えば、答えはノーだ。
 スティーブンは、兎角なんとかしようとした。デートコースには最低で最悪な場所を選んだ。
 まず、彼が全く行くことも無いだろう裏路地に誘う。「美味しいご飯屋があるんだ。少し治安が悪いけど、君なら大丈夫だろ?」とウインク混じりに飛ばせば、仰々しく「うむ」と頷かれ、そのうえ「君とならば、危ない目も楽しいだろう」ときたものだ。恋は盲目か! このやろう! と訳のわからない言葉で詰りそうになったのをぐっとこらえ、そうだな、と笑えたことに、自分の口角括約筋に感謝した。作り笑いの練習は、こういった時に絶大に有効である。
 かくして、デートは決行されることと相成った。とはいえ、裏路地は金銭から臓器のカツアゲまでオンパレードで迫りくる。勿論、娼婦や物乞いも蔓延っている底辺の肥溜めのような場所であるため、一般人には縁遠い、ましてやお貴族様など死んでも踏み入れないような場所でもあった。
 平素ならば、スティーブンとて通ることもなければ、万が一通っても相手にもしない。勿論売られた喧嘩は、倍にして返すくらいはやってのけていた。
しかし、今回はクラウスと、デートという名目。そして計画もあったため、スティーブンはさほど動くつもりもなかった。
 案の定、クラウスは予想の斜め上の行動をしてくれた。それはもう面白いほどだ。娼婦が駆け寄ってくれば「そのような事であなたの価値を決めてはならない」と言っては、女の涙をぬぐい、物乞いがくれば「幸せはあなたの手で掴むべきだ」とがっちりと手を取り、こんこんと幸せの定義を唱え始めた。もうここまでくれば、茶番だった。
 そうして、どんどんクラウスという神に信仰を募るものが裏路地に増えるのをスティーブンはただ見ていた。
 いや、内心は嘔吐でまみれていた。
 ――なんだこれは。
 事実、よく出来た宗教映画の教祖を見ている気分だったし、スティーブンの今の様子を如実に伝えるならば、間違いなく「なんだこれ」だった。付け加えるならば「ばかじゃないの」もある。
 とどのつまり、スティーブンの作戦は見事に失敗した。
正直、慌てふためくクラウスを見て、盛大に笑ってやろうと思ったのだ。が、慌てるどころか、ひとつの宗教を立ち上げてしまった。恐らくあの裏路地の人間は、クラウスが通るたびに跪いて地面に額をこすりつけるだろうし、壁に簡易のマリアでも彫るんじゃないかとすら思っている。事実、ダニエルが「最近、妙な新興宗教でもやってるのか? 店の壁に教会建てられたって言うクレームが来てんだけどよォ」なんて。
胃に穴が空くかと思った。
恐るべし、ラインヘルツ。いや、これはクラウスの成せる業なのか。世界を愛し、神に一番近しい男は、全人類救済計画を望んで止まない、そしてそれを実行に移そうと日夜戦っている。スティーブンはその横で胃痛と頭痛と睡眠不足に悩まされているが。
兎にも角にも、クラウスの横にいるのは大概だった。なんなら、ザップに押し付けて逃げ出したいくらいには、四日でガタがきた。
今までは仕事が終われば、なんとか逃げ帰るようにしていた。仕事以外の電話も連絡も取ることもしていない。なにせ、苛々が増幅するだけだと知っていたし、寝ることが一番の防衛だったからだ。
けれども、こうなってしまっては一日中相手を務めることになった。スティーブンはとにかく、天国と地獄を見せてやる、という心意気の元で、クラウスの相手をすることに全力投球した結果。それはもう、すべてピッチャー返しの上、デッドボールと相成った。日常生活のあれやこれ、おはようからおやすみまで、嘘みたいな歯の浮く気の利いた台詞をクラウスに返す必要性!
結論から言おう。
スティーブンは、死んだ。
いや、肉体的には死んではいないが、精神的にはだいぶ来たした。五日目の徹夜明けの状況とよく似た状態に陥った。世界が白く、頭は鉛のように重い。女になら、嘘のひとつやふたつ容易だ。が、それは、女には価値があったからだ。スティーブンにとって、それが必要不可欠な代償だったから、一時の幸せくらいなら差し出せる。それに柔い肌を撫でる感触が好きだった。
しかし、今はクラウスだ。そして、嫌いな相手。しかも、男! そのうえ価値など万に一つも発生しない。むしろ自分の命が危うくなるばかりだった。
どうしたって無理が生じた。
「あの野郎……俺が死んだら、絶対に呪ってやるからな……末代まで覚悟してろよ……くそ、なんで俺はこんなことしてるんだ……。そもそもあんなデートでもなんでも無いような場所に連れて行ったのに、頬なんて染めやがって……挙句『君とふたりでいるのは幸せだ』だって? ふざけるな、いい加減にしろ。俺は、お前を幸せになんてしてやらないからな……」
 憎々しげに、地を這うような声にドアの前では、か細い悲鳴が上がった。どうせ部隊の連中だ。
 スティーブンはベッドの下から酒瓶を取り出すと、一気に煽った。とりあえず、眠ることにしたのだ。なぜなら明日は間違いなくやって来る。そして、クラウスとの関係に対し格闘するためには、体力と精神力が必要だった。あとは、適度な鎮静剤と。
 ――しばらくして、スティーブンは気絶するようにベッドへ倒れこんだのだった。



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