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それからというもの、スティーブンはこれでもか、というほどクラウスを甘やかした。あまり多くも無い時間を使い、己の肉体的なはたまた精神的な痛覚など、二の次である。
それは痛々しく見えただろうか。それとも荒々しく見えただろうか。クラウスへ接する時に、上手に自らを保っている自信はさほどない。
「なんか」
 ライブラにおいて、クラウスは珍しくいなかった。でかでかとしたソファーには、トリオのうち二人が鎮座している。声を上げたのはザップであった。
「番頭、なんか変じゃないですか」
「なにが」
 スティーブンは敢えて、明確に答えてはやらない。だれがいようとも関係なく、クラウスを甘やかした。
 朝、必ず「あいしてる」と嘘を吐いた。今日一日を終えるその時も、「明日が待ち遠しい」と皮膚を撫でたものだ。それは、誰がみていようとも例外なく。
「……いや、なんつーか」
 ザップが言いよどみ、そわりとレオナルドが横で、俯き膝小僧で拳を握った。存外、二人は勘がいい。そして、何かを察することも出来る。だから、余計に、彼らの言いたいことは理解していた。
 それでもスティーブンは煮え切らない言葉でしか、返事などしてやらない。
「あ、の」
 レオナルドが、恐々と声を上げる。
「スティーブンさんは、クラウスさんとなにか、あったんです、か」
 あまりに、柔らかで抽象的な問いだった。レオナルドの稚拙さに思わず苦い笑みがこぼれた。それで、どんな返事を期待するのだろうか。記者を目指すならば、取材相手へのクエスチョンを上手に引き出すのも、また役目ではないか。これじゃあ、減点だ。
「なにも、ないさ。いまも、これからも」
 そう、なにも無い。
 ずっと、変わるはずもなくスティーブンはクラウスのことを嫌いのままでいるはずだ。ゆったりと笑みをむけてやれば、二人はそれきり黙ってしまった。レオナルドはまだ何か聞きたそうにして、ザップに静止を受けていた。
 存外、ああして賢い選択をするのはザップだ。……それと同等なほど頭の痛い選択をするのも、また。
 スティーブンは向かいの執務机を見遣る。クラウスのいない窓辺は煌々と明るく、何もかも見通せてしまうかと思えた。ついに、きたるべき日を迎えようとしている。
 思わず、おかしくなって声を立てれば二人は、恐ろしいものでも見るような顔を表情をしていた。失礼な奴らだ。
「何も、変わらないよ。僕は、ね」
 明日から、きっとスティーブンの世界は、幸福になることを期待して。
 徐ろに、ライブラの重い扉が開き、三者の視線はそこに向かう。クラウスがギルベルトを伴い、戻ってきたようだった。
「ただいま、諸君。――? どうか、したのかね?」
 若者二人の落ち着かない様子を訝しみ、尋ねるもレオナルドもザップも首を振るだけであった。それが懸命だ。
 スティーブンはクラウスが帰ってきたことで、執務机に座ったのを見届け、自らが動いた。今日は、そう、なんせ最後のデートの日だ。すべて終わらせてやろう。甘い日々は本日を以て幕引きである。
「おかえり、クラウス。早速で悪いんだが、約束の場所には行けそうかい?」
「ああ、もちろん。少しだけ一息いれてからでもいいだろうか?」
「かまわないよ。ごゆっくり」
 ひらひらと胸ポケットに入ったチケットを撫でる。本日二人で向かう場所は、最近できた植物園であった。どうしても行ってみたい、とクラウスが言うので、チケットを手に入れた。
 ――というのが建前だ。
 ここは、今から決行される演目に対する舞台でしかない。ステージは最上のものを。観客などいない。主演も観客も脚本も、すべて己だけが務めるのだ。
 暗い愉悦に喉を鳴らし、ぞっとするほどの笑みを浮かべた。レオナルドが、がたん、と音を鳴らしソファーから落ちる。おや、見えていたのか。流石、レオナルド。ウォッチ。
 彼は、何も言わなかった。ザップは何かを察したのだろう。レオナルドを伴い、ライブラを出て行く。部屋には途端、寂寥感のあるほど、広々とした空間にふたりがいた。
「クラウス、二人も出たし、僕らも行くかい?」
「うむ。そうしようか」
 ちょうど、ギルベルトが運んだ紅茶を飲みほしたところで、スティーブンはクラウスを誘った。車は、ギルベルトが運転を申し出たのをやんわりと断り、スティーブンの車で向かうこととしたのだった。……



 ……新しく出来た、植物園は内部にいながら四季に伴い時間を感じられ場所であった。霧の深いHLでは、もうさほどお目に見ることも珍しい人工太陽が備わっている。
 時間の経過により、朝昼夜を伝えてくれるのだ。今は、まだ昼間ということもあり、太陽の位置は少し西に傾き始めた頃だった。
「クラウス。それじゃあ、まわって行こう」
「うむ」
 わくわくとしたクラウスの横顔を見て、スティーブンもまた好奇心を押さえられなかった。アア、どんな顔をするのだろう。きっとよりよい未来が待っていることだ。
 スティーブンは、ただそれだけを考え、植物園を同行した。たまに興奮したクラウスに適当に相槌を打ち、会話を楽しむ。難しい植物の種類を見てははしゃぐ様を今日は和やかに見届けることが出来た。
 植物園の陽が、赤く染まり始め、スティーブンの舞台は、ついにやってきた。
「別れてくれ、クラウス」
 とうとう、スティーブンは言った。クラウスは、鳩が豆鉄砲を食らったようなおかしな顔をして、そうして顔色をなくした。いくらか逡巡して、震える声で言葉を紡いだ。
「君が、望むならば……」
 その瞬間、スティーブンは居もしない神に対し、天を仰いだ。
アア、ハレルヤ! 
最高の顔が見れた、と内心クラウスの不幸さ加減に笑いが止まらなかった。
 しばらくして、クラウスが手を伸ばしてスティーブンの袖を引こうとしたので、慌てて一歩下がる。またしてもクラウスは驚いた顔をして、次いで泣きそうに顔を歪めた。
「……そ、のスティーブン、なぜ、と問うても」
 宙に浮いた手をひっこめ、己の袖を握りしめて、クラウスが問いかけに対し、ようやくスティーブンはこの言葉を当人に向かって言えることに感激した。
 晴れやかな笑顔と高笑いで、まるで悪役のボスにでもなったような心地で吐いてやった。

「君のことが大嫌いだからさ、クラウス!」

 その時の! 彼の顔ときたら!
 スティーブンは思わず写真に撮って額縁に飾り、一生笑ってやりたい心地だった。それほど最高の顔をしていたのだ。絶望をひとしきり背負ったような顔をして、言葉にならないのか、ひどい母音ばかりを吐き出している。君はスキャットなんてガラじゃないだろうに。
「君は本当に馬鹿だなア! 俺はずっと、お前が嫌いだったんだよ。知らなかっただろう? 家の奴らに君の子守を任された日からずっとうんざりしていた。HLに変わりゆく日を覚えているか? 俺は一歩間違えれば死んでいたんだ。俺の人生を引っ掻き回して平穏を奪ったお前のことなんて、好きになどなるものか」
「ス、スティーブン、そ、その、君の、平穏も、家のものたちの物言いのことも……」
「アア! お前は知らなかっただろう、分かっていなかっただろう? 当然だ。俺と家の奴らがずっとだんまりを貫き通していたからさ。俺は、人類の希望たるお前が死なないようにずっと見ているようにと言われた。じゃないと、俺が殺されかねないからな! ずっと、ずっと脅されていたようなものだ」
 洗いざらい吐いてやった。スティーブンは勝ち誇ったように、心の中でガッツポーズを取った。クラウスが蒼白の顔をおろおろと所在なさげに動かし、スティーブンになんと返答すべきか悩んでいる様子だった。
 しかして、スティーブンはクラウスの返事も、今後の処遇についてもどうでもよかった。心から解放されたような心地がして最高の気分だったからだ。
 これで、胃痛ともさよならできる。頭痛の種もなくなった。ハレルヤ! そう、スティーブンは一方的にまき散らし、重荷を降ろして浮かれていたのである。
 だから、予想、していなかったのだ。
 まさか、自分が再度胃を痛める羽目になるなどと。
「……スティーブン、君の言い分は分かった。兄にでも連絡し、今の任を解いてもらうことにしよう。君に、いままでそのような負荷が掛かっていたことを申し訳なく思う。君の平穏のことは、すまない、今の私には、君ひとり平和に導くことも不可能だ。人類はまだまだ危険にさらされている。私ひとりで立ち向かえるかと言えば、それもまた困難だろう。だから、スティーブン、すまない。君にはまだ平穏でいてもらうわけにはいかないのだ。どうか、私と共に、戦場に立つことだけはしてほしい」
 思わず、呆けた。
 此奴、なに言ってるんだ、と。スティーブンの正直な感想だった。嫌いだと言ったではないか、お前といるのがうんざりだ、とも取れるようなことを言ったのに、クラウスはまだスティーブンに一緒にいろ、と言うのだ。
「君に、恐らく無茶な願いを強いているのは理解している。けれどもスティーブン。君が、嫌がっているのは、私ではなく今の現状だと感じたのだが、違うだろうか。もし、そうであるならば、まだ私にもチャンスはあるだろうか」
 あまりの理不尽な、いや、不明瞭なクラウスの願いに、スティーブンはついにおかしくなって、はは、と笑った。最初は、小さく、仕舞いには腹を抱えて大声で笑った。
「クラウス! チャンスだって? 俺にこれだけ言われて、まだお前は俺のことを好きだと言うのか?」
「その通りだ、スティーブン。私は、気も小さく、臆病ではあるが、諦めが悪いのだ。スティーブンの言い分からは、私にもまだチャンスがあると思ったので、問うてみたのだが、どうだろうか」
 馬鹿だと思った。正真正銘の馬鹿だ。スティーブンはこれほど出来の悪い男を見たことが無い。追いすがってくる女よりもたちが悪く、命乞いをする男たちよりもみっともない。
「はっ……、どうするっていうんだ。俺は今、君に嫌いだと言ったばかりだ。好きになるなんて有り得もしない未来だ。同性愛は否定も拒絶もしないが、君に関してだけは別だ。否定するし拒絶しよう。その信仰宗教者めいた説法をやめて、クラウスお前個人の言葉で言ってみろよ。世界を救うだのそんなごたごたした話を包めて俺を縛り付けたいと言うならば、俺は一生君の相手などごめんだ」
 戦場のパートナーとしてというならば、スティーブンはさっさと任を降りてやりたかった。書類整理なんて誰だって出来るだろうし、遠距離の戦法ならばエスメラルダでなくともどこかの流派がいるだろう。
 クラウス個人の言葉で、と言ったのは、クラウスが自分の気持ちを持たないからだ。好きだという感情とてそうだ。すべて、ぜんぶ、世界が基準なのだから。馬鹿にしているのか、と怒りたくもなる。
「どうした、クラウス。やはり、僕は戦場でしか君に好いてもらえないのか?」
 茶化し、おどけてみせると、クラウスは困ったような、泣きそうな笑みを向けた。どうしてそこで笑うのか、スティーブンには分からなかった。けれども、クラウスはひとつ、呼吸を整えて言ったのだ。
「君を、おいかけたい」
 擬似的な日没を描く太陽が、赤く染まり、クラウスもその中に溶けてしまいそうだった。


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