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 果たして、クラウスとどうなったか?
 宣言通り、スティーブンはクラウスによる猛アピールを受けた。あの世間知らずの坊ちゃんが、これでもか、と知り得る異性に対し行うような、稚拙すぎるアプローチ。
 花や、菓子に始まり、それこそジャケットやネクタイに至るまで。プレゼントや、スティーブンの素晴らしさを説かれた。うんざりだった。
「君は、本当に芸が無いなあ!」
 スティーブンは日夜、仕事の合間にくるクラウスのそれに嫌悪感を示す。女ではないのだから、プレゼントだけで揺らぐわけもない。言葉をいくら紡いだとて、クラウスのそれは実に、薄っぺらく聞こえた。
「君は、そもそも自分の言葉を持たないのか?」
 追いかけよう、そう言った時のクラウスは確かに彼自身の言葉だったのかも知れない。ただ、それ以外はどこかすべて受け売りのように表面をつるりと滑って行くばかりだ。
「いいかクラウス! これ以上俺の仕事の邪魔をするな! 君からの好意やプレゼントなど、いらないんだ! いいか、君が、俺とどうにかなりたいというならば、まず仕事の邪魔をしてくるな! それと、クラウス」
 本日のプレゼントは、スティーブンの目によく似た色をした宝石のあるタイピンだ。
 それを床を鳴らし、花を作り上げその花芯から箱を貫く氷柱がとびでた。
「こんなプレゼントなど、いらない。君の説法は、聞き飽きたんだよ」
 氷に冷やされ、脆くも箱ごと消えていく。彼の言動に頭が来ていたのは少なくとも事実であった。――それが、度を越していると気付くのは、後からだ。――キラキラしい氷の粒が、二人の間に降る。クラウスを見遣れば、何も言わなかった。
 カンカン、と大理石の床に音を立てて何かが跳ねた。――赤い石だ、小さな。
 それを大きな手で拾い上げ、クラウスはぎゅっと、拳に仕舞い込んだ。そうして、ひどく傷ついた顔をして。
「私は、君ほど世間を知らない。だから、どうすればいいのかも分からない。己の言葉や行動がどれほど君に響かないのか、きちんと理解できなかったようだ。……すまなかった。もう、君のとなり、を、歩むのは、やめよう」
 翠の目がひとつ瞬きをすると、ころん、と珠のような涙が頬を落ちていく。クラウスは踵を返し、去っていく。ひとり残された己は、その場に立ち竦んだ。
 なんだそれ。
 スティーブンはキリキリと胸が痛むのを覚える。罪悪感なのか、それとも違うものか。よく分からなかった。ただ、少なくとも今の己が幸福ではないことは理解できる。
 そもそも、あの日別れてくれ、と言った日とて、けして幸せにはならなかった。それは、突拍子もないクラウスのせいだったかも知れないが、少なくとも興奮は、あの瞬間だけ訪れたのだ。クラウスが傷付いた顔をして、それで。今までの何もかもが報われた、そういう気持ちがしたのだ。けれど、けして、そうではなかった。
「もう、隣に、いることは無いのか」
 口にして、笑えた。恐らくクラウスは、これを曲げることはない。途端に、足元が一気に不安定になるような心地がして、椅子に座りこんだ。なぜこんなに空虚なのか、理解できない。
 いや、本当は分かっている。
 彼が、スティーブンを責めることは一度として無かったからだ。想定していた幕引きの中、スティーブンのことを罵るクラウスがいた。けれど、彼はスティーブンを悪く言うことは無く、自分の非を認め、そうして再度立ち上がって見せたのだが。
 その信念もまた折ってしまった。
 明日になれば、彼は何事もないように復活しているのか、はたしてそれは分からないが、スティーブンはもしかしたらもう、このライブラの事務所に足を踏み入れることは出来ないかもしれない。
 なにせ、スティーブンがそう望み、クラウスが今さっき、叶えたからだ。
「は、最高じゃないか」
 もう恐れることもない。彼の信仰を見て、気味悪がることもない。彼の隣で、危機に晒されることも無いのだ。
 ――なのに。
「俺はなんで、泣いてるんだ」
 意味が分からない。
 スティーブンは、ずっと解放を望んでいた。嫌いな相手の隣になどいたくも無かった。その確固たる信念のクラウスの無謀さに辟易することも無いのに。
 ないはずなのに。
 スティーブンは、徐ろに立ち上がりクラウスが逃げた方向へと向かった。この先にあるのは、ライブラ内にあるクラウスの自室だけだ。何を言うべきなのか、思いつかない。けれど、このままでいるのはどうしても許されない、そう思った。
「クラウス」
 返事は無い。ただ、扉の向こうで大きな物音がしたので、いるのだろう。スティーブンはそのままでいい、と前置き、扉に手を掛けることもしなかったが、中の気配が動き、内側からノブが回る。それを静止するようにスティーブンはドアノブを持った。
「開けなくていい、きっとひどい顔をしてるだろ」
 ノブがぴたりと止まる。くぐもった、鼻声で力ない返事があった。
「クラウス、俺はお前が嫌いだ。なぜかと言えば、お前はお前自身の言葉を持たないだろう。世界を救うことを前提にしか、語ることすら出来ない。俺に対してもそうだ。ただ、共闘するパートナーとして好きなだけだ。それは恋でも愛でも無い。俺がいないと困るから、そういうことなんだろう」
 自分で言って、落ち込んだ。向こうでは嗚咽がいっそひどくなり、少しだけ悪い気がした。なにせ、傷口に塩を塗るようなものだ。クラウスは今いっそひどく傷ついているに違いないが、その点に関してはどうでもよかった。
「……なあ、クラウス。俺は君の言葉を聞いてみたい。恋人のように手を繋いで、だとかああいった類だ。まるで、子供のおねだりのような些細なものだけどね。でも、君は俺の好きなところを述べた時、けして君自身の言葉ではなかっただろう。だって、あれはすべて、世界が基準だ。一緒に戦ってくれる相手だから、君は好きなんだろう。きっと相性が悪ければ、きっと君は、俺のことなど好きにならない」
 ドン!
 と、力強くドアが揺れた。内側で何で叩いたのか、十中八九、拳だとは思う。それは、クラウスの癇癪にとれた。
「わ、たしは、きみが、好きだ。きみが、いないと死にたくなってしまうほど、っ、すきだ。けれど、もう、きみに、なにを言えば、いいのか、わからないっ。きみが、わたしの、ことばを、必要と、してくれないならば、きみの、っ、ねがう通りに。すてぃ、ぶん、わたしは、いま、は君のかおを、見たくないっ」
 「……もう、この気持ちを、ひてい、しないで、くれ」クラウスの言葉に、ようやくスティーブンは、落ち着いた。己は、どうやら引き絞るようなそういった声が欲しかったようだ。
 胸の裡が梳く様な心地になって、ほっと溜息をつく。
 そして同時に、クラウスに思われない状況というのは、いっそ苦痛だという事実を知った。身勝手でワガママだ。自分の言葉を吐き出すクラウスはいっそ清々しかった。
 そうか、己はずっと、クラウスの本音を聞きたかっただけだったのか。あの、八歳の少年の、世界を救う確固たる自信の裏側を暴いてやりたかった。そのための、言い訳が欲しかった。
 そのためだけの。
「――言い訳が欲しかっただけなんだ」
 スティーブンは、扉一枚向こうで蹲っているだろうクラウスに静かに言った。
「僕は、君が嫌いなんだっていう言い訳が欲しかったんだ。だって、そうじゃないと、僕は、スターフェイズ家とラインヘルツ家の勝手な決まりに、ずっと人生を縛られたままになる。なんで、僕が。そう思ったら、どんどん君を嫌いになった。そのうえ、君は十八の僕も知らないような自信で満ちていた、八歳の君がだ。なんて傲慢だろう、なんて無知なんだろうと思った。それは、君がずっとずっと本音を隠していたんだろう。上手だね、俺なんかよりずっと。でも、中身は幼いまんまだ……。その上、君は嫌な奴じゃちっとも無かったから、君の粗探しをこれでもかってほど、探してやったんだ。そしたら、どんどん僕の気持ちなんて、どこかに行った。全部、ぜんぶいまさら、言い訳だよな、クラウス。僕の顔も見たくないっていうのなら、それでいいんだ。事務所に顔を出すなと言うのならば、僕は自宅で仕事をする。……共に働きたくないのだと言うのなら、僕でなくとも、副官の立場が務まるような人間を用意しよう。だから、クラウス、これだけは聞いてくれ。今更、戯言だと思うだろ。都合がいいことも分かっている。ふざけるな、と罵ってくれたっていいんだ。でも、身勝手な言葉を許してくれ。
――僕は、君の言葉を知りたかった」
 なんて、勝手なんだろうか。
 自分自身の言葉を嘲った。今まで散々嫌いだと罵り、クラウスを傷つけ、クラウスが冷たくなった途端にこれだ。しかし、スティーブンは、クラウスほど強くは無い。嫌いだと言われても、好かれる努力をしようとしたクラウスの決意など微塵も無かった。だから、少しでも己が傷つかないように、保身に走っている。みじめで、狡猾で、どうしようもない。しかし、それがスティーブンという男だった。
 開くことの無い扉の前に、額を付け、目の前が涙で滲むのを感じた。胃がキリキリとする。頭がいたい。
「……クラウス」
 ひどい、鼻声だった。クラウスからの返事はなく、もしかしたらもう既に部屋にはいないのかも知れない。なんせ、高層ビルからでも容易に飛び降りることが出来る男だ。それでもよかった。もぬけの殻になった部屋、懺悔のように紡ぐ滑稽な男。聞いてくれる相手などいなくてもいいのだ。
「俺は、最近まで、君が確かに嫌いだった。好きだと言われても、腹が立ったし、嫌悪した。恋人になってやった時だって、計画のための第一歩だと思っていた。手を繋いで寝るだなんて、あの時はあまりの滑稽さに腹を抱えて笑いたくもなった。――多分、俺は、その時ずいぶん混乱していたんだと思う。君のこの子供のような願いを俺が叶えてもいいのかって。……はは、これも言い訳だよな。でも、俺は、クラウス、俺は、きみが、追いかけよう、と言ってくれた時の言葉には、本当の意味を見出すことが出来た。――君の意志の強そうな翠の瞳が、じっと俺を見て、傷ついたように少し笑った顔が、俺にはたまらなかった。けれど、君はそのあと俺に薄っぺらい感情を押し付けるばかりだった。本音じゃない、世界のクラウス・V・ラインヘルツという人間の言葉だ。君自身の思いではクラウス、けっして無かったんだ。こんなに落胆することがあると思うか? いっそ、憤りすら湧いたよ。――けれど、俺は、君に死ぬほど思われていることが、心地いいことをは知らなかった。……いや、分かっていなかったんだ。今は、後悔しかない」
 廊下に響くのは自分の声だけだった。部屋の中からは物音ひとつしない。スティーブンは、もうそれでかまわなかった。ぼたぼたと床の上を滑る涙の痕を眺めながら、ぐっと、涙をぬぐう。
「悪かった、クラウス。僕の処断を待つよ」
 もう声はもとに戻っていただろうか。分厚い扉一枚向こうでは普通に聞こえていただろうか。それだけが心配だった。スティーブンは踵を返し、ゆっくりと廊下を戻り始めた。明日から、胃痛も頭痛も苛烈さに悩むことも無いのに、気分は浮上しなかった。
 何もかもすべて遅い。
 スティーブンは、自嘲だけが止まらなかった。どうしたって、クラウスはこんな男を好いたのだろうか。最低で最悪の男だ。駄目で、どうしようもない、ひどい、おとこだ。

「スティーブン」

 背後で声が響く。小さな声だったが、その音を逃すはずもなかった。スティーブンは振り返ろうとしたが、クラウスから静止の声が届く。
「スティーブン、どうか、どうかそのままで」
 ――アア、そうか。顔など見たくないよな。
 スティーブンは、ひとり納得し、振り返るのをやめた。背後で、彼の靴音が床を鳴らし近付いてくるのが分かった。ひたりと、肩口に何かが触れた。視線を少し下げれば、クラウスの頭が乗っている。顔は見えず、背後のシャツをぎゅっと彼が握ったのが分かった。
「スティーブン、君は、君が本心を話すときは、一人称が変わるのを知っているだろうか。さっきの君の言葉が嘘ではないのだと言うならば、私はどうしたらいいだろうか。――正直、私はもうあまり君を上手に信じることが出来ない。……君に好かれよう、近付けるように努力し、特別になりたいと願う心も折られてしまった。私は、君が思うほど、強い人間ではないし、ずっと怯えていたことを知っていただろうか。君が初めて恋人ごっこに付き合ってくれた時、私はこの世界を絶対に守らねばならないと、確信した。そのあと君に事実を突き付けられたが、無関心では無いということに安堵もした。だから、なんとか君に、近付けるように努めたのだが、スティーブン、君は嘲っただろう。そうして私は勝手に努めて、勝手に傷ついた。どうしようもなくなって、君に近付くのを恐れた」
 じわりと、シャツごしに生温かい感覚に、クラウスが泣いているのだと思った。『恋人ごっこ』という言葉が、自分で言い放ったにせよ、深く突き刺さり、こんな時でさえ自分の最低さ加減に、死にたくなった。足に力を入れなければ、今にも倒れこみそうなほど、目の前が熱くなる。ぐっと立ち竦み、すぐにでも振り返ってしまいそうな己を律した。
 クラウスの独白が、さきほどの返答だろう。どうなってしまうのか、果たしてスティーブンには分からなかった。采配は彼だけの心にゆだねられている。
「私は、君の言葉を上手く、もう正確に汲み取ることを恐れてしまっている。けれど、君が、その、私のそばを離れるのだけは許可出来ない。けれども、これ以上傷つきたくも無いのが、私の心の裡だ。――スティーブン、お願いだ、私を、わたしを、――どうか導いてくれ」
 そこで、空気が震えた。クラウスが笑ったのが分かった、あまりに稚拙な笑い声だった。泣き声のようにも思えた。
「……はっ、矛盾だと、思うだろう、私とて、荒唐無稽な願いだと思う。けれど、スティーブン。私には、もう、わたしは、どうすればいい。きみを、きみの言葉を、しんじたいと、思うのに……スティーブン……、どうしたら」
 シャツを掴む手が強くなり、よりいっそう低く小さな声がした。ともすれば、スティーブンにすら届かないようなそんな声だったのかも知れない。けれど、聞き逃すはずも無かった。聞き逃せるはずも、なかったのだ。クラウスの喘ぐように紡がれた声を。「たすけて」と、願った声を。
 振り向くな、と言われた。けれど、スティーブンはクラウスに向き直る。翠の目を涙に沈ませ、ぼろぼろと子供のように泣くクラウスの姿があった。目許を真っ赤に腫らして、可哀想なほどである。
「スティーブン……」
 しゃくりあげるような声で、名前を呼ばれると胸がぎゅうぎゅうと痛みを訴える。
 ――嫌いだ。
 そう言っていた口は、逃げていただけだったから意図も容易く告げられていたはずなのに、今はクラウスの名前を呼ぶことすら躊躇われた。
 スティーブンは、彼に何を言えばいいのか分からなかった。どうすればいいのかも。
 黙ったままのスティーブンに何を思ったのか、クラウスは薄く笑みを張り付け、「すまない」と謝罪した。顔をその大きな手で覆い、俯いてしまう。
「……すまない、君にこんな、ひどいかおを。ますます、きみに、っ、きらわれて、しまうな」
 嗚咽と、止まることの無い涙がきらきらと指の間から溶けていく。どうして君が謝るんだ。そう、罵れたらよかった。こんなもの、自覚する前ならば、苛立ちにぶつけて叫べたはずなのに。
 目の前の彼は、すまない、と何度も繰り返し、ついには床にうずくまってしまった。大の大人がふたり。一体なにをしているのだろう。傍から見れば滑稽に違いない。ひどいおとこと、神になりたくないおとこ。そんなふたりの恋愛劇がおかしくないわけがなかった。
 世界を愛す男は、ひとりの特別になりたいと嘆いている。
 止めたはずの涙が、目の中をごろりと回ってぼたぼたと落ちる。うずくまったクラウスの背を抱くように、覆いかぶさり、ゆっくりと背を撫でた。びくりと、震えた体が、スティーブンが行ってきた代償だと思った。
「クラウス」
 スティーブンの呼びかけに、翠の目が見上げた。とろとろと蠢く、深海の表面のようだった。
「クラウス、僕は、君を、助けることができる?」
 ひとつ、クラウスは頷いた。
「きみの、ことばを、こんどこそ、しんじたい」
 優しいクラウス。何度ひどい目を見たのかも分からないというのに、まだスティーブンを信じようとする。その信頼に応えられるだろうか、果たして自分は今度こそ、クラウスを好きになれるだろうか。
 なれたらいいと思う。うまくいく保証はないけれども。しかし、苛立っていた今までとて嘘ではない。それでも、うまく、いくのだろうか。
 スティーブンが流した涙が、クラウスの頬に落ち、混ざり合って落ちていく。赤い目の中にクラウスを映しこんで、何度も瞬きをした。言うべき言葉を、探していた。
「――クラウス、僕に、もういちど、チャンスを」
 それは、ありきたりなものだった。もっと気の利いた台詞を用意でもすればよかったのかも知れない。けれど、スティーブンはついには、これしか紡げなかった。
 クラウスは、ゆっくりと目を閉じスティーブンに判決を下した。


「きみを、ゆるそう」



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