E





 ――スティーブン・A・スターフェイズのその日は、最高の日であった。
 こんにちまで追いかけていた大捕り物が一斉に検挙され、グループを壊滅へと追い込むことが出来た。ついでに言えば、事件がそれ以外何も起こらなかったことも奇跡だ。
 だから、スティーブンは本日限定のオマールエビとローストビーフ、加えてイベリコ豚のソーセージである特製サブウェイサンドイッチにありつくことが出来たのである。ランチがこんなに静かなのは、ひどく久しぶりで、しあわせだと思えた。
HLは相変わらず騒がしい街ではあったが、呼び出しさえなければスティーブンにとっては平和も同然であった。帰りにライブラのメンバーのデザートを買うほどに最高に気分がよかった。少し奮発して、K・Kが騒いでいた五つ星ホテルのパティシエが作ったというケーキを。ギルベルトに紅茶の準備でもしてもらおうと、思案し帰路に着く。
 がぶり、とサンドイッチにかぶりつきながら、ここ数か月を思い返した。クラウスとは、未だよく分からない距離間で接している。とはいえ、以前よりはずっと近くにいるのは確かだった。
 恋人になろう、とそう明確な関係を提示もしていないので、キスやセックスの類などもってのほかだった。なにせ、まるで子供の児戯のような触れ合い方しかしていない。
ライブラの事務所で、誰もいない、二人きりの時に、やんわりと距離を縮め、指を絡める。指の間、手の甲の凹凸を爪先でなだらかに撫でて、こすって楽しんで。それくらいしかしていないのだ。
別にいまの関係も悪くは無い。ふたりの溝を思えばひどくない距離間だ。彼を傷つけずに済むならば、これでいいのかも知れないが、ふとした瞬間クラウスの顔が、もの欲しそうに歪むのをスティーブンは知っていた。
指遊びを楽しんだあと、そっと手を離そうとすると名残惜しそうに、つい、と指を伸ばされる。彼の無骨な手がスティーブンのひとさしゆびの第一関節を撫でながら、そっと離れるのだ。その時の、クラウスの顔は、おもちゃを取り上げられた子供のような切ない表情をしている。
そのあとも人が来ないようであれば、スティーブンはクラウスのそれを察して、再度手を伸ばし、甘やかすことがここ最近のやりとりであった。
 果たして、もう一歩踏み込んでもいいものだろうか。スティーブンは、タイミングを計りかねていた。
 優秀な頭は、ことクラウスに対しては発揮されないのだから、ほんとうにポンコツだ。
 考え、ライブラの事務所に着くと、そこにはレオナルドとザップ、そしてクラウスの姿があった。
「あ、スティーブンさん。おかえりなさい」
 レオナルドがにこやかに迎えてくれたのに気を良くして、思わず頭を撫でてやれば、「やめてください」と拒絶される。ひどいやつだ。ザップといえば、目敏くケーキの箱を見つけて、目を輝かせて尋ねてきた。
「番頭、それなんすか! っていうか、その箱あれですよね、今、一番うまいって評判の……」
「アア、近くを通ったもんだからな。土産に買ってきた。すべて違う種類のケーキを買ってきたから、行儀よく選んでくれよ?」
 言外に、喧嘩するなら殺す、と語っていた。ザップが青ざめた表情で「……へい」と了承を唱える。
 ケーキの箱をギルベルトに渡し、お茶の準備を始めにキッチンへと向かったのをレオナルドが手伝うと言って、追いかける。ザップもそのあとにケーキを選ぶため付いていった。
「スティーブン」
 二人になったフロアで、クラウスがそっと近寄ってくる。ジャケットを脱ぐ素振りをすると、クラウスがすかさず背後からそれを脱がせ、受け取ってくれた。
「ありがとう、クラウス。ただいま」
「おかえり、スティーブン。遅かったので、何かあったのかと思ったが、デザート買っていたのだな」
「うん。ちょっと並んでてね。……ふふ、そうだ。二人ともいなくなったし、いいかな。クラウス、ちょっと口あけて」
 頭の上にクエスチョンマークを飛ばしながらも、クラウスは素直に口を開いた。店でケーキと、その次に評判高いチョコレートを買ったので、包みを開き放り込んでやる。
「どう? 人気ナンバーワンらしいよ、そのチョコレート」
「ああ、すごくおいしい。こんなに小さなものなにホワイトチョコレートの味もしっかりとしていて……とても繊細なものだな」
「君のお眼鏡に適ってよかったよ」
 買った包みをクラウスにすべて渡し、デスクへと向かう。クラウスの幸せそうな顔を見ていればさっきの考えなど、どうでもよくなってしまった。そもそも、クラウスが望むことだけやればいいのだ。スティーブンが何かするべきではない。
 いまの関係は、あまりに脆く危険性を孕んでいたとしても、これで十分だった。
「……スティーブン」
「ん。なんだい、クラウス」
 はし、と手首を取られる。ついとそこから絡むようにして指が取られた。
「その、ふたり、だから」
「アア……。ふふ、君が存外、僕に触れたいんだな。知れてうれしいよ」
 赤面して、俯いてしまったクラウスは恥ずかしがってはいたが、それでも手は解かれることはなかった。三人が戻ってくるまでだ、と指遊びに興じ、クラウスの表情を伺う。
 照れながらも、どこか嬉しそうな顔をするので、よかった、とスティーブンは安堵した。両手を繋ぎ、二人で児童のままごとのように楽しんだ。ようようにして、クラウスが、こちらを伺うようにして尋ねた。
「スティーブン、その、私は、勿論、こうして君と触れ合うことが出来、大いに満足なのだが。その、我儘を言っていいだろうか」
「僕に叶えられそうなものなら」
 「もちろん」クラウスは、うっすらと目を細め、破顔する。告白された時にも見た覚えのある顔で、そういえば、部屋に行きたいと言った時もこんな顔をしていただろうか。
 ぼんやりと、クラウスの笑顔を見つめ、言葉を待った。たっぷりと時間を掛け、選んだのであろう彼の頬は染まっている。
「……私は、きみと、もう少し恋人のような関係を進めたいと思う。けれど、私には、どうすれば良いのか分からない。ここからどうするべきか、明確な答えを見つけられないのだ。正直に言えば、私はまだ君に拒絶されるのでは無いかと思っている部分がある。キスをしても、ハグをしても、果たして許されるのか。一般的な営みを望んでもいいのか、私にはもう、上手に判断が出来ないのだ。けれど、私は君が女性にするようなことを、私もしてみたい、されてみたいと思っている。――だから、お願いだ。スティーブン」
 ――導いて。
 あの日に、クラウスが乞うた台詞だった。
 今の意味を、彼は理解しているのだろうか。散々、あんなにひどい目にあわされたくせに、クラウスは、ぜんぶを自分に任せるのだと。スティーブンに任せるのだ、と。そう、言うのだ。
(……俺は、ひどい男だ。ずっとずっと、そうだった。いまもひどい男のままだというのに。それでも良いというのだろうか。)
 クラウスの翠の目がじっとこちらを見ている。神々の義眼はなんでも見通すというが、クラウスのこれとて、そんな能力など無いのになんでも暴きかねない。
 スティーブンは、ゆるく笑むと、クラウスの手の甲に唇を押し付けた。

「……そうだな。それじゃあ、手始めに今夜――僕の頬におやすみのキスをして、手を繋いで一緒に寝てくれないだろうか、クラウス」

 その日、スティーブン・A・スターフェイズにとって、今まで生きてきた中で史上最高の一日になることは確約されたのである。

 ――まさに、青天の霹靂だった。



end