035 まぼろしを抱きしめていた




「おーい!」
「ッ、なんだよ!結人、叩くなっ!」
「なんだよ、じゃないだろ。どうしたんだよ、一馬。今日調子悪いぞ!」
「…別に、なんでもない」
「…どうせ、栞ちゃんのことが心配なんでしょ。過保護だから」
「なっ!べ、べつにそんなんじゃ!」
「隠す必要ないでしょ。で?何が心配なの?」
「…大したことじゃ、ないけど…、もし、栞が一人で泣いてるなら。…誰かが傍に、栞の傍にいてくれればいいなって…」


 そう言って一馬は空を見上げる。
 さっきと何一つ変わらない空が、鬱陶しいくらい、青く澄み渡っていた。


★ ★ ★




 青い海を、子供たちはいかだに乗り突き進む。だが行けども海、大陸などこれっぽっちも見えてはこなかった。


「ほントに大丈夫なノ、栞?」
「…う、ん…」
「船酔いしちゃったんでしょうね…すこし横になってたら?」
「………」


 口元を抑え、泣きそうになる瞳をぐっと堪える。もやもやするものの、吐くまで至らないから余計に辛いのである。


「…何にも見えないなあ」
「あとどのくらいかかるんだろう…」
「まだ船出したばかりだぜ?」
「でも水も材料も切りつめても半月くらいしかもたないんだぞ」
「そん時は魚でも釣るさ!あとは天気が崩れないことを祈るだけだ」


 双眼鏡片手にそう言う太一だが、実際は船酔いをしている栞とミミ、それから光子郎のことが心配だった。顔色の悪い三人を休ませてあげたいが、ここは海の上。それも叶うことはない。なら早く大陸へとも思うのだが、波に任せて進むことしかできない。心の中で大きなため息を付いた。


「なんだ、この音…?」


 太一の耳に、ドドドッという微力な音が聞こえてきた。小さかった音はやがて大きな音へと変わっていく。栞は不安そうにイヴモンの身体をぎゅっと抱きしめた。
 その時だった。風が吹いているわけでもないのに、大きな波がいかだを襲った。


「な、なんだ!?」
「……ッ!」
「栞ッ、!キ、キャーッ!」


 栞がぐっとイヴモンを抱きしめ、目を瞑って、その苦しみから逃れようとする。空は急いで栞の方へ行こうとしたが、波によってその行動はかき消されてしまった。それから次いで波はすぐに収まった。


「どうしたんだ、急に…風がないのに、波が…」
「近くを船でも通ったんじゃないか?」
「船なんかいねェよ!……ん?なんだあれ…?…島か!?」


 太一の言う"島"はどんどん明るみになり、やがて、その大きな体が彼らの前に現れた。


「違うわ、これは…!」
「いやーッ!何よ、コレ!島じゃなーい!」
「ホエーモン…?」
「栞はんの言う通り、ホエーモンですわ!」


 "島"は、大きなくじら型のデジモンだった。その名をホエーモンという。
 ホエーモンは大きなしっぽで波を立て、船は再び大きく揺らぎ、浮かび上がった。


「キャーッ!」


 ザプンッという大きな音を立てて、船は再び波の上へと戻される。
 間一髪のところで、船は壊れずにすんだ。


「ホエーモンは獰猛なモンスターやけど、いつもは海の底にいるはずや!」
「じゃ、じゃあ、なんで…!」
「黒い、歯車、じゃなイ?」
「でもあれは俺たちが…!って、うわ、わあああ!」

「や、やだ!食べないでーッ!」


 ホエーモンは大きな口開け、子供たちは、その中に吸い込まれていった。


★ ★ ★




「ええ?何ですってぇ?」


 そのデジモンは飲んでいたコップを、優雅に机の上に置いた。


「そう、守人が来ているのね?」
「はい、選ばれし子供たちと共にファイル島を発ったようです」
「じゃあ熱烈な歓迎をプレゼントしてあげないとね。うふ、楽しみだわ!アチキのスペシャルライブも開いてあ、げ、る!」


 あの美しい漆黒の髪を思い浮かべ、そのデジモンは、にたりと笑った。

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