060 涙を殺して剣を抜け




 罪を隠すように、いつも笑っていた。そうしなければ、重圧に心が押しつぶされてしまう。罪の意識というものは、彼女の背後を這いずり回っていた。ズルズルと追い回されて、気づけば、彼女は黒い部屋の中に閉じ込められてしまう。そうして、己の世界に閉じこもるのだ。弱いゆえに。
 抱き上げてくれる手は、空気に触れた泥のように、カラカラと落ちていく。泣き叫びたくなるような静けさすらも残さず、彼女の世界は無情にも消え去った。
 ――カラン、と何かが鳴った。コロン、と何かが落ちた。

 そして。すべてが、失われた。


★ ★ ★




「太一。僕は戻るよ。僕はデジモンだから、ここにいちゃいけないんだ…」
「な、何言ってんだよ!コロモン!戻るなんて、なんでそんなこと…!」

「お兄ちゃんっ!」


 太一の耳に、今ここには居て欲しくない大切な妹の声が飛び込んできた。慌てて振りかえれば、パジャマ姿のままで大層に顔をゆがませたヒカリがそこにいた。


「ヒカリ!?なんでここにきたんだ!来るなっていっただろ!」
「でも…!」
「家に入ってろ!早く…!!」
「だって、おにいちゃ、…!」

(…っ太一、僕は…)


 苦しそうにそっぽを向くコロモンの目に飛び込んできたのは、デビモンの時に対峙した極悪デジモンのオーガモンの緑色の巨体だった。
 「太一!あれ見て!」思わず叫んだコロモンの声を聴いて、太一も焦る気持ちを抑えながら振り返る。ヒカリの肩をしっかりと掴んでいたらしく、ヒカリは少しだけ顔をゆがめる。彼女もまた、コロモンの切羽詰まった声に応じて振りかえった。


「!オーガモン!」


 信号は赤。横断歩道の前にはたくさんの人がいる。その中に交えてあの巨体が垣間見え、太一はヒカリから手を離した。
 ―どうすればいい。焦る気持ちに蓋をすることができず、太一の頬を汗が伝った。今、コロモンは戦うことができない。戦ったとて勝機はない。それだけならまだしも、オーガモンの目の前は人波で溢れている。彼等に害を与えてしまうのは避けなければならない。


「こんな人ごみにオーガモンなんて…!このままじゃ、」


 ヒカリを庇うように前に出て、唇を噛みしめる。右腕をヒカリに掴まれ、その個所から、震えが伝わる。


―――…守らなければいけない。この小さな手を。己の大切な妹を。


 更に歪む目の前を必死に確率させようと、太一は一回瞬きをした。信号が青に変わった。


「八神くん!!」
「うわっ!?」


 瞬時に横断歩道を突破してくるオーガモンと反対方向から力を込められ、腕を引っ張られる。がくん、と力が抜け、太一は驚いた瞳を空へと向けた。曇りのない真っ青な空に浮かんでいるのは、闇を彷彿させるような一房の漆黒の髪。
 視界の隅で、コロモンがその跳躍力を持って天高くジャンプしているのが分かった。直ぐ横をオーガモンの棍棒で叩きつけられ、身がすくむ思いだった。


「栞…」


 精一杯の声でその名を呼べば、彼女は、少しだけ安心したように頬を緩ませた。

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