062 対岸の虹




( おはよう )


 暖かな声が耳元を掠め、彼はそっと立ち上がる。それは、残酷な程優しい声だった。――彼女はどこにいるのだろう。彼はゆっくりと芽生え始めた感情をカバーするかの如く、辺りを見回した。たった一つの大切なもの。記憶の片隅に残っている一つの存在を、探し始めた。


( こっちだよ、 )


 粘着力のある土を踏めば、まっさらで白い彼の足はすぐに汚れた。変な感触に少しだけ戸惑うが、それでも、彼女の存在には勝てっこない。彼はもう一歩踏み出し、あの清やかな存在をひたすらに求めた。


★ ★ ★




―――…おや?どうしたのかな?


 甘ったるいくらいの猫なで声が、タケルとトコモンの耳に届いた。ゆっくりとトコモンの黒い瞳がその声の持ち主を捕える。コウモリのような小さなデジモンが、にこやかな笑みを浮かべて、二人に近づいてきているのが見える。


―――…こんにちは、僕、ピコデビモンです。


 誠実そうな言い方で、そのデジモンは、己をピコデビモンと呼んだ。


「…ピコ、デビモン」


 イヴモンの声はあまりにも透明すぎて、誰にも届かず、空気の中に消えて行った。まるで、恐れていた事態が始まった。そう言うように寄せられた眉は、怪訝さを露わにしていた。
 トコモンはやはり悲しそうな顔をして、話を続けた。


―――…ピコ、デビモン?


 名を呼べば、ピコデビモンはパサパサと翼をはばたかせた。無邪気そうに装うその姿に、トコモンは少しだけ眉を寄せた。


―――…あれ?あれれ?君たち、もしかしたらエテモンを退治した…?


 大げさとも言える羽根の動きに、タケルは涙を抑えて小さく頷いた。するとピコデビモンは更に笑顔を浮かべて「ありがとう!」とお礼を述べた。


―――…君たちのおかげでこの世界に平和が戻ったんだ!…あれ?でもどうして泣いてたのかな?


 優しい声色に、タケルの警戒心は薄れていた。涙でぬれた瞳で、ピコデビモンを見上げる。傷心し切ったタケルには、何故かこのピコデビモンが救世主のように思えた。


―――…お兄ちゃんが、帰ってこないの。
―――…ええ!?それは大変だ!…じゃあ僕が探してきてあげる!


 トコモンは困惑したようにタケルとピコデビモンを見比べたが、タケルの視線は依然とピコデビモンに向けられていて、トコモンの方を向いてはいなかった。
 タケルとしては、翼を持ったピコデビモンなら、ヤマトの様子を見て来てくれると踏んだのだろう。少しだけ、笑顔になった。少し切なくなる。自分では、タケルの心の曇りを晴らすことができなかったのに、風のように現れたピコデビモンは、そうすることができるのだ。


―――…お兄さんの名前は?
―――…『ヤマト』っていうの。
―――…そっか。ちょっと待っててね〜!


 にっこりとほほ笑んだピコデビモンは、来た時と同じように翼をはためかせ、ヤマトが向かった島の方へと向かって行った。
 先ほどまで泣き叫んでいたとは思えないくらい、タケルの表情は晴れやかだった。きっとピコデビモンがヤマトを見つけて、連れて来てくれる筈だ。何も分からず、手持無沙汰状態だったタケルに、光が差し込んだ。タケルの心に、ピコデビモンという存在が大きく輝いた。ちょっぴり悔しくはあるけれど、それでタケルが笑顔になってくれるのならそれが一番良い。トコモンも心から微笑んだ。

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