なんで、と呆然とつぶやく塔一郎の声が頭の中で半鐘する。決して重たさを匂わせない声色で、辞退すると告げた新開くんはいつものように飄々としていた。なんで、ともう一度塔一郎が呟いた。新開くんはやっぱり笑ったまま彼の方にぽんと手を置いてそのまま部室をあとにした。シン、と静まりかえった部室内が、再び喧騒に紛れたのは完全に彼が部室から消えたころだった。私はただ、彼が消えていった扉を見つめることしかできなかった。




「寿一に言われてきたのか?それとも靖友?尽八?」


核心をつかれてぎくりと肩を跳ねあがらせる。背中に目でもついているのだろうか。笑いを含んだ声は、やはりいつもと変わらなかった。


「その子…を…見なきゃいけないから…?」


背中越しに見えた段ボール、中には小さな子ウサギが入っていた。問いかけると、新開くんは振り向いて、やっぱり笑った。いつも何も考えているか分からない瞳は、深い悲しみの色を秘めていた。


「…こいつ、ウサ吉っていうんだ。可愛いだろ?」
「うん、かわいいね」
「……」


一瞬、視界を彷徨わせた新開くんの瞳は、まっすぐ私を見つめて、少しだけ、そうほんの少しだけ顔を歪めた。隣にしゃがみ込めば、新開くんが吐いた息がやけに耳についた。


「苗、俺さ」
「うん」
「俺」
「うん、」
「こいつの母親、殺しちまったんだ」


罪の告白をただ黙って聞くのは、案外苦しいものだった。それでも私はただ
頷くことしかできなくて、この日ほど口下手な自分を恨んだ日はなかった。トークの切れる東堂くんならうまく慰められるだろうし、荒北くんならなんだかんだで励ますことができる、そして同じ中学出身の福富くんも口下手だろうが言わずもがな。でも私は三人のようにはできないことが明白で、ただ戸惑うことしかできなかった。それでも新開くんはつづけた。


「レースの最中だった。避けきれなくて轢いちまった。でも俺はそれを時間のロスとしか考えられなかった。レースが終わって何気なくその道を通った。死んだウサギが一匹。傍らには子ウサギが寄り添っていた」


段々と語調が荒くなっていく新開くんの瞳から、ぽろり、と一粒の涙が零れ落ちた。見てはいけないものを見てしまった気がして、新開くんから目を反らし、ただまっすぐその子ウサギを見た。


「俺がもっと早くに気づいていれば、助けてやれたかもしれない。でも俺は、勝つことしか考えなかったんだ。俺の貪欲さが、こいつから母親を奪っちまった。俺は、」
「分かった。分かったよ、もう分かったから」


彼は油断したらそのまま崩れてしまいそうだった。あまりにも小さくて、あまりにも危うかった。だから戸惑う理由なんて、なかった。
自分のものよりも骨ばった、それでも多くくて厚い手に触れ、ぎゅ、と握りしめる。温かいはずの彼の体温が冷えていた。それほど追い詰められ、抱え込んでいたのだろう。目の奥が痛い、鼻がツンとする。私は、マネージャーなのに。彼の変化に気づいてあげられなかった。


「ごめん、ごめんね、新開くん」
「…なんで、苗が謝るんだ」
「気づいてあげられなくて本当にごめん。一人で抱え込むの、辛かったと思う。本当に、ごめん…」


彼はゆるゆると首を横にふる。お前が謝る必要はない、と、そう首を横にふった。


「過去はさ、変えられないよね」


暫くの沈黙のあと、私は小学校の時のすずめの亡骸を思い出し、ぽつりと呟いた。猫にやられたのかもしれない、他の鳥にやられたのかもしれない。きっと私の人生の中では取るに足らない些細な出来事だった。でもまた死を経験したことのなかった私にはとてもショックが大きく、ずっとあのすずめの姿が焼き付いて離れなかった。私にとっては人生の中でのコンマ1秒のことでも、あのすずめにとっては人生そのものなのだから。それでもあのすずめが生きた過去には戻れない。ゲームのようにリセットはできないから。過去にifが存在したとしても、もう戻ることができないなら意味はない。


「どうしてって悔やむこととかすごい大事だと思う。同じミスは犯しちゃいけないから」


確かに命を奪った新開くんは罪人かもしれない。


「でもだからといってずっとずっとその場に居続けるのはウサ吉のお母さんにも失礼だと思うな。悔やんでも戻れないなら前に進まなきゃ。残されたウサ吉のためにも、新開くんは進まなきゃ」


残酷なことを言っているのかもしれない。余計なお世話かもしれない。でもここでウロウロしてても何もはじまらない。失くした命は戻らない。
すう、と息を吸い込んだ。やっぱりこういうの向いてないし、うまく言えないや。涙を拭いて苦笑を見せた。


「今はゆっくり心を落ち着かせてさ。休んで、んでまた大丈夫になったら走ろう」


ウサ吉のふわふわの家に触れる。生きている。ここにいる。


「ほーら、泣き止んでよー!私がいじめたみたいになるじゃん!女子ファンに睨まれちゃうからさあ、あ、それにこんなん言うとあれだけど、やっぱり新開くんには笑っててほしいし。せっかくのイケメンがだいな――」


ふ、と肩に熱が集まる。温かい何かが触れた。それが彼の顔であると気づくのに数秒かかった。


「わりぃ、苗。少し、少し肩、貸してくれ。そしたらまた、いつもの俺に戻れるから」
「…分かった、少しだよ。高くつくからね」
「はは、あとが怖いな」


笑い声。そしてくぐもった音が聞こえた。つられて私もまた鼻の奥がツンとした。
それはよく晴れた日だった。

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