ぼくらだけの至福の時間




「あかりちゃん!?」


廊下で天祥院先輩と出くわした。挨拶をしようとしたら、それより先に先輩に呼ばれてしまった。しかもかなり慌てた様子で。


「こんにちは、天祥院先輩。えっと…いかがなさいましたか?」

「だって…僕が言うのもおかしな話だけど、顔色が良くないよ。どうしたんだい?体調、悪いのかい?」

「あ、いえ……」


悪くない、と言えば嘘になる。誤魔化すのは簡単だけど、心配そうにわたしを見る先輩にこのままなにも言わないのもどうなのか。先輩のお気遣いは素直に嬉しいし。


「情けない話なのですが…よろしいですか」

「いいよ。僕で良かったら話して」

「実は昨夜……悪夢を見まして…」

「どんな?」

「お仕事の現場に9時に約束しておきながら、起床時間が12時過ぎで…どう足掻いても遅刻確定…という最低な夢です」

「……うん…」

「それで焦って飛び起きたのが今朝の4時で、そこから二度寝して寝過ごすのが怖くなってしまって…ずっと起きていました。……すみません、単なる寝不足なんです」

「…夢で良かったね」

「本当に…」


夢で良かった。だけど予知夢でないことを祈るばかりだ。信用第一のこの世界で、遅刻なんて最低中の最低行為だ。まあ遅刻はどの世界でも最低なんだろうけど。特に椚先生には日頃から10分前行動を口酸っぱく言われている。今のところ、しんどいけどなんとか実行できている。一度でも失態を犯せば一気に信頼は崩れる。危機感は常に持っているはずなのに。もっとちゃんとしろ、と神様からの警告かな。


「…すみません、こんな話で。心配してくださったのに…」

「ううん。その程度でよかった。安心した。それよりあかりちゃん、今から少し時間あるかい?」

「あ、はい。大丈夫です」


返事をするや否や、先輩は優雅な振る舞いでわたしの手を取った。突然のことに心臓が跳び跳ねたけど、照れる間もなく先輩は歩き出したのでついていくことを余儀なくされた。何処へ向かっているのかな…



「さ、入って」

「えっと、あの…?」

「ちょっと待っててね。好きなところに座っていいよ」


案内された先は紅茶部の活動拠点だった。状況が飲み込めないわたしを残して、天祥院先輩は何処かへ行ってしまわれた。…なんか、気まずい。でも立ったままというのも変な感じなので、高級そうな椅子に、申し訳程度にちょこんと座る。こんな綺麗な室内にぽつんと残されるのは、いたたまれないなあ…早く戻ってきてくれないかな。


「ごめんね。お待たせ」


暫くして、これまたいかにも高級そうなティーセットを持って先輩は戻ってきた。ひとつひとつの道具や食器に見惚れている隙に、着々と作業を進めていく先輩。その振舞いは優雅で無駄がなく、本当に気品が溢れていて素敵だ。


「さあ、どうぞ」

「えっと、あの…」

「熱いから気を付けてね」


予想外だった。まさか、天下の皇帝さま直々に紅茶を淹れていただくことになるとは。しかしここで遠慮したら紅茶にも先輩にも失礼だ。それに…紅茶もお菓子も、美味しそうだ。「いただきます」と頭を下げて、カップを手にした。

口元に持ってくると、ふんわりといい香りがする。これは…なんだろう?素人が考えてもわからないか。なにごとも百聞は一見に如かず。早速、ひとくちいただいた。


「……美味しい…」

「ふふ、それはよかった」


あまりの美味しさに驚いた。紅茶って、こんなに美味しいものだったなんて知らなかった。今まで自分がどれだけ適当に淹れてきたのかがよくわかる。さすが、紅茶部の部長さん。


「カモミールにはリラックス効果があるんだよ」

「へえ、これがカモミールなんですね…」


名前は聞いたことがあるけど、飲んだことはなかった。改めて香りを楽しむ。甘いけど爽やかで、ふんわりしてて、なんだか気持ちが落ち着く。


「いい香りですね。わたし、この香り好きです」

「気に入ってもらえて嬉しいよ。…あかりちゃん、変な夢を見て緊張しているんじゃないかなって思ってね、今のきみにはこれが合うと思ったんだ」


落ち着きたいときは、僕もよく飲むんだよ。そう言って天祥院先輩は穏やかに笑う。ご自分が普段から使っているものを、わたしにも分けてくれたんだ。ていうかそれより、わたしのこと気遣ってくれたんだ。どうしよう、嬉しい。嬉しいなんてもんじゃない。ちょっと視界が歪んだけど、こんなときに泣くのはよくない。ちゃんと笑って、お礼を言わなければ。


「ありがとうございます。こんなに美味しいお紅茶、はじめてです」

「嬉しいこと言ってくれるね。さ、お菓子も食べて。おかわりも遠慮なく言って」

「恐れ入ります」


先程までの遠慮は何処へやら。お菓子もぱくぱく進んでしまう。行儀悪いなとは思うけど、食べ方は汚くない…はず。そこは厳しく躾されたから、大丈夫だという自信は、ある。


「本当は茶葉をこのままプレゼントしたいとこだけど…」

「先輩…?」

「そうしたら、もう僕がきみにお茶を淹れてあげる機会が無くなってしまう。それは惜しいな…」

「わたしが自分で淹れたって、こんなに美味しくできません」

「技法だけならコツを掴めば誰でも出来るよ。…でも、確かにこの味はあかりちゃんでは再現できないね」

「技法以外に、なにか必要なものがあるんですね」

「そう。気持ちだよ」

「気持ち…?」

「うん。あかりちゃんが少しでも元気になれるようにって、おまじないをかけたんだよ」


穏やかな笑顔でそう言ってくれた。天祥院先輩が言うと、どんな言葉も素敵に聞こえるから不思議だ。巷では皇帝なんて言われてるけど、今のわたしには王子様のように見えている。


「…ありがとうございます。最高の贅沢です」

「そうかい?じゃあ…また、僕があかりちゃんの為に用意してもいいかい?」

「わたしは有難い限りですが、手間をかけさせてしまいませんか?」

「その手間を、存分にかけさせて。僕が、そうしたいんだ。…ね、また来てくれるかい?」

「勿論です」


ふたりで顔を見合わせて笑った。これから先、もし疲れてしまったり、落ち込んだりしたとしても、大丈夫。天祥院先輩と、先輩が用意してくれるお茶とお菓子が、きっと元気にしてくれる。現にわたしは今、さっきまでの憂鬱な気持ちが嘘みたいに晴れている。天祥院先輩との、ふたりきりのお茶会。間違いなくわたしにとって、これからの原動力になる。


.

【back】