※本編より昔の話。
(時系列は降谷がまだバーボンでも安室透でもない頃。)
大通りを大きく外れた道にある、電柱によって看板が隠された小さなケーキ屋。
店員は美しい姿勢を崩さない品の良い老婦と、その孫だろうか、笑い方が少しだけ似ているおさげ姿の女性との二人だけだ。
しかし、焼き菓子とタルトケーキはどこの有名店の物よりも格別に美味しかった。
そんな隠れた名店のフルーツタルトを自身の婚約者──ということになっている少女は、とても気に入っている。
女性という生き物は何故こうも甘いものを愛しているのだろうか。女子高校生ともなれば余計なのだろうか。
……というか、何故当たり前のように女子高生にケーキを買い与えようとしているんだ、俺は。
クスリと笑い声が聞こえ顔を上げると、「あら、ごめんなさい。」と言いながらも微笑みを絶やさない老婦とカウンター越しに目があった。
「ずっとタルトばかり眺めているのに何だか随分悩んでいるみたいだったから、面白くって。
恋人にかしら?」
「ああ、いえ、……似たようなものなのかもしれませんが。」
何というか、返答に困ってしまう。
まさか相手が女子高校生であるなどと、この老婦は考えてもいないだろう。俺だって考えていなかった。なら今の現状はなんだ。
いや、普通に考えて上司の家にお邪魔するのに手土産の一つもないのはおかしいだろう。
まあ、こんな思考を働かすことになった原因は間違いなくその上司にあるんだが。
悶々と考え込んでいる内に、ちりん、と新たな来客を知らせるベルが鳴る。と、少しの驚きを含ませた最近馴染みのある声が「零さん?」と自身の名を呼んだ。
噂をすれば、というやつだろうか。
「こんにちは、千歳さん。学校帰りですか?」
「こんにちは。
そうですけれど、年下だから敬語はいいって前に申し上げたのに。」
「ああ、そうだったね。善処しますよ。」
「名前……。」
「何ですか?千歳さん。」
「……いえ。」
彼女の言いたいことが何なのか良く理解していたが、ここは笑顔で押し通させていただく。
以前彼女に言われた、年下だから敬語も敬称もいらないという言葉はしっかりと海馬に刻み込まれてはいるが、正直忘れたことにしておく方がかなり都合が良かった。
女子高生の名前を呼び捨てにする文化など自身の中には欠片も存在していない。
そこはかとなく漂う犯罪臭に耐えられる程図太いメンタルは未だ持ち合わせてはいなかった。
出来ればこのまま持ち合わせたくはない。
「でも、こんな所で零さんに会えると思いませんでした。どれになさるんですか?」
そう言って不思議そうにショーケースを覗き込む彼女は、たった今俺が選んでいるものが自分宛だとは欠片も思っていないらしい。
「ああ。どれがいいですか?」
「え?」
「おすすめは、季節のフルーツタルトだけどね。」
きょとりと瞬かせたまん丸の瞳に薄く笑みを浮かべ「要望があれば応えますよ。」などと伝えてみると、漸く彼女はこちらの意図に気付いたらしかった。
大きく見開かれていた目が細まって、上気した頬が嬉しそうに上がる。随分可愛らしい反応が返ってきたものだな。
微笑ましい気持ちで見ていたのに、その口から溢れ落ちた言葉は予想していたものとは些か違うものであった。
「わたしの好きなケーキ、覚えてくださっていたんですね。」
「え。」
「そんなこと、きっと、関心がないことだと思っていたから。嬉しいです。」
心から嬉しそうに笑うその顔が酷く純粋で胸が軋む。彼女は諦めていたのだ。
自身の婚約者となった人間が、自身に関心を抱いてくれることに。
そして、確かにそれは、身に覚えのあることではあった。
「何が好きなんだ?」
「え……、」
「フルーツタルト以外には、何が好きなんだ?」
元より、自身からは何も主張してこない子だった。好みのケーキを知っていたのは彼女の母親がそう言っているのを聞いたからだ。
不必要な情報とまでは思っていなかった。
何かにつけて情報を記憶する癖は身に付けていた。それだけだ。
それだけで十分だと、そう思っていた。
「口調……。」
「ああごめん、これは、」
「そっちの方が好きです。」
元より、自身からは何も主張してこない子だった。
「そ、うか。」
「はい。そっちの話し方の方が、素で話してもらえているみたいで、好きです。」
好みのケーキはフルーツタルト。
ただ見聞きする情報だけの距離。
それで十分?そんなわけがないだろう。
俺との縁談も、俺との歳の差も、この子が決めたことじゃない。
「善処するよ。」
「零さん、そればっかり。」
「それで?結局何にするか決まったのかな、千歳さん。」
「結局呼び方は変えてくれないんですね。」
「当たり前だろ。」
フッと笑みを溢すと相変わらず困ったように笑うだけで負の感情を見せてはこない。
けれど、言わないのならばこちらから聞けばいい。
「もう少し大人になったら考えてあげますよ。」
「……じゃあ、大人になるまで、っ何でもないです!」
「へえ?すみません、フルーツタルト一つとー、?」
「あ!えっと、わたし、フルーツタルトの次に、チーズタルトが……好きです……。」
「それと、チーズタルト一つ追加で。」
頬を染めて俯きがちにそれでもか細く主張する姿に、なるほど、確かに俺もこちらの方が好きかもしれないな、なんてことを思ったりはした。
「……わたし、呼び捨ての方が好きです。」
前言撤回といこう。