「本当にもう行ってしまうのか? もっとゆっくりしていってくれていいんだぞ」

 馬具を手にした玉兎に、公孫瓚が言う。その後ろで趙雲も頷いていた。
 彼女はあれから二日ほど眠り続け、三日目に動けるようになり、十日もすれば得物を振り回していた。追っ手がかかり、自身は三日三晩ほど飲まず食わず眠ることも出来ず、それで疲れていただけだという。
 体調が戻ると彼女はすぐにも旅立とうとした。自分を受け入れたことが分かれば迷惑をかけるかもしれないから、と。だが、憔悴した姿を見ている二人としては「はいそうですか」と送り出せるわけがない。しかも玉兎は袁術の治める寿春を抜けて長沙に戻るつもりだという。袁術、そしてその部下の紀霊は父・孫堅の仇だ。様子を窺いながら通り抜けるだけだと言っているが、もし機会があれば必ず仕掛けるだろう。

 あの手この手で引き止めて引き止めて一月。

 さすがにそろそろ明確な理由を付けねば、彼女を留めることが難しくなり始めていた。

「ありがとうございます。でも⋯⋯」
「あの子たちのことも気になるだろう?」

 公孫瓚の言葉に玉兎は少し黙り込んだ。
 確かに気にはなる。だが、この侠が良い所を見つけてやると言ったのだ。そして実際にそうしてくれた。一度様子を見に行ったとき、子供たちは笑顔で迎えてくれた。引き取ってくれた夫婦も、この侠が信用して任せたのだから心配はいらないと自信を持って言える。それで十分だった。

「あなたの治めるこの地にあれば何も心配はありませんから⋯⋯」
「だが⋯⋯」

 気遣わしげな口調の公孫瓚に、玉兎は首を傾けて空を仰いだ。抜けるような青に白い雲。吹く風には小鳥の囀り。のどかだった。

「⋯⋯ここは良い国です。平和で、人の心も穏やかで⋯⋯」
「それなら⋯⋯」
「だから⋯⋯もう行きます。あまり長居すると離れるのが辛くなりますから⋯⋯」

 玉兎は申し訳なさそうに言いながら、愛馬のいる馬房に寄った。
 二人はその背中をただ見つめた。彼女の旅への憂慮だけでなく、行かないでほしかった。だが引き止める理由が見つからない。

「おいで、桃花⋯⋯」

 愛馬を馬房から連れ出して鞍を着けようとしていた玉兎だったが、彼女が不意に動きを止めた。困惑したような表情になった彼女に、趙雲が声をかけた。

「⋯⋯どうかしたのか?」
「あ、いえ⋯⋯」

 玉兎は表情はそのままにしばらく考え込んだかと思うと、やおら公孫瓚に向き直った。

「あの⋯⋯心苦しいのですが、やはりもう少しお世話になっても構いませんか?」
「えっ? あっ、ああ! もちろんだとも! お前がここに残ってくれると皆も喜ぶし──俺も嬉しい」
「ありがとうございます⋯⋯」

 鞍を背から下ろした彼女は頭を下げて、

「わたしは牙。客将として迎えてくださると嬉しいです」
「えっ、ぁ⋯⋯いや⋯⋯だが⋯⋯」

 渋った公孫瓚に、視線を上げた玉兎はふたたび桃花に向き直り、鞍を着ける素振りを見せた。

「わたし、やっぱり⋯⋯」
「分かった! ──分かった、客将として迎える。だから⋯⋯」
「ありがとうございます」

 やわらかく微笑った彼女に、公孫瓚は頬を掻いた。強かというか、なんというか。

「ともかく⋯⋯改めて歓迎する、玉兎。早々にお前の気が変わらぬことを願っているぞ」
「はい⋯⋯。どうぞわたしを、あなたの思うまま、お使いくださいませ⋯⋯」

 深々と長揖した彼女の髪が、風に翻る。その様は、まるで豊かな枝葉がしなやかに揺れるよう──。

 こうして公孫瓚の治める幽州の地に留まることとなった玉兎は、二人の目から見ても実によく働いてくれた。国境警備や哨戒、兵の訓練に留まらず、馬丁の仕事を手伝い、民と共に畑を耕し、川では漁を、山では狩りを、村では子供らの相手をと、眼が回るのではないかというような忙しさの中に身を置いている。
 彼女の身を案じて引き止めた公孫瓚と趙雲としては、本人がいたって普通な顔をして過ごしていても、そのうち倒れるのではないかと気が気でない。
 さらに、気がかりなことがもう一つあった。

「玉兎は今日も?」
「はい⋯⋯愛馬に操を立てていると冗談めかして言っておりますが⋯⋯」

 彼女は桃花に乗ろうとせず、また他の馬に乗ることもやんわりとだが、しかし頑なに拒否していた。

「⋯⋯⋯⋯もしかして、⋯⋯尻か?」
「あの走りです。まずないでしょう」

 彼女の走りは伸びやかで、脚の回転も驚くほど速く大きい。もしも痔主があのような走り方をしたら尻が裂けるのではないか。二人は幸いにも想像するしかない立場だが、その心配は杞憂であろうと思っている。公孫瓚も一応口にしてみただけだったので、やはり首を捻るしかない。

「そうだよなあ⋯⋯。あいつのことだ、自分の脚を誇示したいわけでもないだろうし⋯⋯」
「やはり一度、話を聞きますか。兵の中にも、彼女だけが徒歩で哨戒に着いてくるのを気にしている者もおりますし⋯⋯」
「そうだな⋯⋯」

 趙雲の提案に一つ頷き、公孫瓚は玉兎を呼ぶよう彼に頼むと、とりあえず午前の仕事を終えるために机に向かった。村にでも足を伸ばしていたら少し掛かるだろうと思ったのだが、趙雲は半刻も経たず戻ってきた。出来る侠である。

「⋯⋯というわけで⋯⋯お前の脚の素晴らしさは皆分かっているが、哨戒のたびに徒歩で着いてこられると、やはり気にする者もいるんだ。なにか馬に乗らない──乗れない理由があるのなら、せめて教えてくれないか?」

 訊ねられた彼女はしばし黙り込んで、迷うように口を開いた。

「実は、⋯⋯桃花は子を宿しているようなのです」
「なに? 子を?」
「ええ。まだ確信があるわけではありません。でもなにか⋯⋯気にかかるんです」
「だが心当たりはあるんだろう?」
「それは⋯⋯まあ⋯⋯」

 公孫瓚の言葉に、彼女は困り顔でちらと趙雲に視線をやった。目が合った彼はわずかに首を傾げたものの──

「まさか⋯⋯」

 理解を示してさっと顔色を変えた侠に、玉兎は頷く。

「ええ、おそらく⋯⋯飛影閃かと」

 愛馬が自分の預かり知らぬ間に粗相をしていたことに、趙雲は思いっきり頭を抱えた。彼女がここへ来てもうすぐ二月になるが、いったいいつの間に手を出したのだろう。

「まことに⋯⋯まことに申し訳ない⋯⋯」
「いえ、それは構わないのです。あの子は気に入らない雄は近付けようともしませんから。ただ桃花は初産で、それが気がかりで⋯⋯」
「なるほど、そうだったか⋯⋯」

 いまだ肩を縮めている趙雲を一瞥しつつ、公孫瓚も頷いた。早々にこの地を離れようとしていた彼女の急な心変わりもそれで得心がいく。

「それで、あの⋯⋯桃花が子を産むまでこの地に留まっても構わないでしょうか? ご迷惑でしたら、」
「もちろん構わない」

 彼女が最後まで言う前に、公孫瓚は力強く首を縦に振った。

「むしろ──お前には悪いが、桃花が子を産むまではお前がこの地を離れる理由はないということだ。俺はそれが嬉しい」

 あまりに直球な彼に、玉兎はたじろいだ。言葉を探して口を何度か開閉させるが明瞭な音は出てこない。
 彼女のその様子に、公孫瓚は急に自分の言ったことが馬鹿馬鹿しく、そして情けなくなった。彼女は助けを求め、命を削る思いでこの地へやって来たのだ。だというのに、今の言葉はあまりに不誠実なのではないか。

「いや、すまん⋯⋯忘れてくれ」

 応えることもなく曖昧に瞬きした玉兎と、気まずげに咳払いした公孫瓚に、趙雲が間を持つように口を開いた。

「ともかく、桃花に乗らない理由は分かったが⋯⋯しかし、他の馬にも乗らない理由は何なのだ?」
「あの子⋯⋯わたしが他の馬に乗ると妬くんです」
「ああ、なるほど⋯⋯」

 趙雲は腑に落ちて頷いた。飛影閃も稀にそういうことがあるので分かる。彼女と愛馬も固い絆で結ばれているのだなと思うと、騎手としても良い腕を持っているのだろう。

「玉兎、わざわざ呼びつけてすまなかった。もういいぞ」
「いえ、あなたの命とあらばいつでも⋯⋯。では失礼します」

 彼女の背を見送り、小さく息をついている公孫瓚に、趙雲は視線をやった。

「ずいぶん彼女にご執心のようですね、公孫瓚将軍?」

 揶揄いの色を含んだ彼の口調に、公孫瓚は目をうろつかせた後、窺うように溢した。

「⋯⋯やっぱり露骨すぎたよな」

 趙雲もこの手のことはあまり得意ではない⋯⋯というかむしろ不得手だ。

「まあ⋯⋯意識させるくらいが丁度良いのでは?」

 が、他人事となるとそれなりの助言ができるものである。

「しかし居心地の悪い思いをさせることになったら⋯⋯」

 いまさら狼狽たえ始めた公孫瓚に、趙雲は微笑ましい気持ちで口角を持ち上げた。この侠はこういうところが好感なのだ。

「そのときは私もできる限りの助力はさせていただきますから、そうご心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「そ、そうか⋯⋯。いや⋯⋯すまんな⋯⋯このようなことで煩わせて」
「お気になさらず。⋯⋯公孫瓚将軍はいつものように堂々とされていればよいのです。普段の姿が一番素敵ですよ」
「⋯⋯なんだか口説かれているようだな」

 こういう気さくというかノリの軽いところは、さすが劉備の兄弟子だなあと趙雲は感じる。公孫瓚は我らが白馬将軍である。内にあっては軍議や政、外にあっては国境警備とむちゃくちゃ忙しいはずなのに、わずかな暇を縫っては民と一緒に畑を耕していたりする。責務にも真面目で誠実、しかし自分たち配下や民たちにもあまり距離を感じさせない。

 こういう根っこの部分が似ているのだなあと趙雲は思った。

 玉兎も厩でごそごそしているなと思ったら馬房の掃除や餌やりを手伝っていたりする。桃花を預かってもらっているという思いもあるのだろうが、しかし厩にいないときは畑や川で仕事に精を出している。鍛錬や警備にも参加していてやはり忙しいはずなのに、地の暮らしに寄り添って、客将という微妙な立場でありながら兵や民の心を掴みつつある。まだ二月も経たずしてこれなのだから、普段接する機会の多い者達は彼女がこの地に留まってはくれないかと望み始めている。

 この二人はなんというか、もう成るべくして成るのではないかと趙雲は予感めいたものがある。

「まあともかく⋯⋯しばらく時間はありますし、彼女も公孫瓚将軍を悪く思っていないでしょうから、じっくりと口説いてみては?」
「くどっ、いや⋯⋯そんな⋯⋯」
「彼女がこの地に腰を据えれば民も喜びましょう。我らも嬉しいですし」

 公孫瓚は堅物なせいで、モテるのにいまだ嫁を迎えていない。しかも跡継ぎを考えねばならない歳を少々過ぎているくらいだ。ここらで嫁を娶って子を成し、この地の平和をさらに盤石なものにするべきだということは本人も理解しているはずである。
 そんな折にまこと相応しい人が現れた。堅物本人も気にかけているし、もはやこれは天命と言っても過言ではないだろう。

 むず痒そうに頬を掻いている公孫瓚に、趙雲は春風と共に訪れた花の匂いを嗅ぎ取っていた。それはもちろん、恋という花の。






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