星空の子守唄
背後で動いた気配に諸葛亮は振り返った。どうしても一緒に行くと言って聞かなかった玉兎が、覚束ない足取りで車から下りてきている。
「玉兎、動いちゃ駄目だ。大丈夫。僕に⋯⋯」
任せて、と諸葛亮は言い淀んだ。自分に出来るだろうか。──いや、やるしかないのだ。結果がどうなろうとも。
「僕に任せて。なんとかするから」
彼女はまるで聞こえていないように、傷を庇いながらゆっくりと崖際に向かっていく。
「ちょっと玉兎⋯⋯! 待て、どこへ行く気だ!!」
腕を掴んで引き留めたものの彼女の歩みは思いの外しっかりとしていて、諸葛亮はたたらを踏んだ。
「ごめんなさい。でも⋯⋯わたし、行くわ、諸葛亮」
「駄目だ、そんな傷で!!」
「わたし⋯⋯あの人を独りになんて、出来ない」
怪我人とは思えない力がその瞳にある。それは尽きるまで前へ進もうとする生命そのものの力か、あるいは別の何かなのか。
諸葛亮に分かるのは、もう止めても無駄だということだけだった。
「分かってるのか。そんな傷で、そんな身体で──行けば、⋯⋯死ぬぞ」
「諸葛亮、わたし、あの人が、⋯⋯⋯⋯」
彼女はうつむいて苦しげに言い淀み、それでも。
「あの人が⋯⋯どれだけのものを背負ってここまで来たか、知ってる。だから」
リーブラを、空を、垂れ込める絶望の暗雲を今一度見上げ、玉兎ははっきりと決意の色で告げた。
「玉兎──」
諸葛亮が尚も引き引き留めようとした瞬間、今まで以上の爆発的なエネルギーが上空で生じた。曹操と劉備──これほど離れていてもその存在が間近にあるような錯覚を起こす。力の奔流に天が驚いたか、暗雲はますます厚く。
「行かなくちゃ。わたしにまだ出来ることがあるうちに。風が吹くのを待っていたら手遅れになるかもしれない」
「玉兎、」
「ごめんなさい。ありがとう、諸葛亮。どうか⋯⋯どうか、あの人を、曹操さまを、⋯⋯助けてあげて⋯⋯」
涙を堪らえた声でなんとか言い切り、玉兎が崖から身を投げた。上昇気流に乗ったその姿は、瞬く間に小さくなっていく。
行ってしまった。武器すら持たずに。彼女は、もう⋯⋯戻る気はない。
伸ばしていた手をきつく握り、諸葛亮は唇を噛み締めて端末に向き直った。彼女の覚悟を無駄にするわけにはいかない。たとえ、起動させたオーパーツが彼女に止めを刺すことになったとしても。
身体を押し上げる風が痛い。巻かれた包帯の下で肌が泥濘むような感覚がする。軋む身体でそれでも高度を上げていく。リーブラを横目に、さらに上空へ──そのとき、振り上げられた剣が見えた。
「やめて!!!!」
玉兎は無意識に方向を変えて急降下していた。何に代えても護りたいものがある。この命を失ってもいい、その心を護れさえするのなら。
「──おまえ、⋯⋯」
胸に飛び込んできたやわらかい衝撃に、曹操は目を見開いていた。広がる翼の向こうに劉備の刃がある。彼女は武器どころか鎧すら着けていない。細い腰に、知らず知らずのうち触れていた。生き物の温かさ。
「⋯⋯玉兎⋯⋯」
何故。生きていたのか──どうしてこんなことをする? 私を庇ってお前になんのメリットがある。お前を斬り捨てた男を、私はお前を殺そうとしたんだぞ。
「劉備⋯⋯もう、いいだろう」
疑問ばかりが渦巻いて言葉にならなかった曹操は、玉兎と共に最後の一撃をとめた男に視線をやった。
「もう、遅い⋯⋯」
まるで悪い夢から覚めたようだった。曹操の声からは覇気が消え、ただ目の前の現実に絶望ばかりが押し寄せた。昏い──。どこまでも昏い。この国の行く末は。
「あれはもう、とめられないのだ⋯⋯」
玉兎は愕然と装置を見上げる彼らを、曹操を見て、優しく目を細めた。彼に、もう、こんな顔をしてほしくない。そのために出来ることがあるなら、なんだってする。この命が果てることになっても。
触れた唇は、どこまでも深い悲しみと絶望の味がした。
「曹操さま」
彼がどれほどのものを背負ってここまで来たか知っている。痛みを、苦悩を、絶望を、皆の期待を。全てを誰のせいにするでもなく、誰に弁明することもなく、その両の肩に背負って、彼はここまで来た。
身も心もぼろぼろにして、道に迷って途方に暮れた子どもみたいに、そんな風になってまで。
「大好きです」
──だから、わたしが連れて行く。あなたが、もうそんな顔をしなくていいように。
痛みも、苦悩も、絶望も、全て全てを、わたしがこの手で連れて行く。
あなたが、もう泣かなくていいように。