その日、公孫瓚は一大決心をした。いや、実を言うと前々から公務を少しずつ調整して時間を取れるようにしてきたのだが、その日の朝まで迷っていた。迷っていたが、いつもと同じに朝の挨拶を交わしたときの、薫風のような笑顔を見てようやく決心した。

 玉兎をデートに誘う。

 ⋯⋯言葉にすればそれだけのことであった。

「玉兎──その、⋯⋯よければ今から遠乗りに行かないか?」

 というわけで、公孫瓚はこうして厩で玉兎に声をかけている。
 桃花の様子を毎日欠かさず見に来ている彼女は、彼の誘いに少し首を傾げた。多忙を極める彼にそんな時間があるのだろうか、というかなんでさっき挨拶したときにでも言わなかったのか。別れた後に急に思い立ったのだとしたら公務は大丈夫なのか。そこまで考えたものの、この侠が仕事を放り出して遊び呆けるなんて想像できないし、変な方向を見つめて答えを待っているのがなんだか可愛かったし、ついでに言えば断る理由もないので、玉兎も二つ返事で頷いた。

「はい、かまいませんが」
「じゃあ馬の用意を──」

 餌をやっている馬丁に振り向いた公孫瓚に、玉兎は待ったをかけた。

「いえ⋯⋯わたしは自分の脚で」
「え? ああ、そうか⋯⋯」
「申し訳ありません。この子、わたしが他の馬に乗ると妬くから⋯⋯」

 馬房から顔を出している桃花の鼻先を撫でながら玉兎が困り顔で言うので、公孫瓚はその表情の愛おしさに小さく笑った。

「そうだったな。⋯⋯主人に似たのかな?」
「え? っさ、さあ⋯⋯」

 軽口に玉兎はますます困ってしまう。声をかけてきたときは照れていたくせに、変なところで大胆というか⋯⋯こういうところは劉備に似ている気がする。いや、劉備が彼に似ているのか。

「と、とにかく馬の用意を⋯⋯」

 とりあえず話は纏まったので、玉兎は話題を変えるためにも彼を促した。公孫瓚もそれであっさり話題から離れて馬丁に声をかけた。





「⋯⋯本当に乗らないのか?」

 遠乗りなのに馬に乗らないってどうなの⋯⋯というより、彼女を歩かせて自分だけ馬に乗っているというのはやはりどうも居心地が悪い。馬上でもごもごと言った公孫瓚だったが、玉兎のほうは薄く笑い、白馬の君を見上げた。

「走らないと鈍りますから、お気遣いなく⋯⋯さ、行きましょう。侮って遅れを取っても知りませんよ?」

 玉兎はくすくす笑って、軽やかに駆け出した。公孫瓚も馬の腹を蹴り、常歩から速歩へと変えた──途端に、玉兎が速度を上げた。公孫瓚も同じく速度を上げるが、玉兎の背中に届かない。速歩から駈歩へ、襲歩になってもその距離が縮まらないので、公孫瓚は彼女の脚を改めて目の当たりにして驚きを隠せなかった。





「お、お前⋯⋯本当にすごい脚をしているな⋯⋯」

 小川の傍で馬を休ませながら、公孫瓚は少々疲れた顔でしみじみと呟いていた。仕舞いには馬のほうがムキになって、背の荷物を振り落としてでも追い付こうとしていたのだが、けっきょく彼女はそのまま振り切ってここまで来てしまったのだ。

「ふふ⋯⋯お褒めに預かり光栄です」
「長沙の兎の名は伊達ではないな⋯⋯。一足で千里を駆けると噂されるのも納得だ」
「その噂は誇張されすぎなんですよ。いい迷惑です」

 玉兎はやれやれと呆れたように息をつき、汗を拭いて小川で手を洗うと川縁に腰を落ち着けた。その隣に馬が寄っていく。顔に顔をすり寄せ、なにやら刃で語り合った後の侠二人といった雰囲気だった。公孫瓚も小川で手を洗いながら窺っていたが、どうも割って入れなさそうだ。仕方なく馬の背から昼飯の包みを降ろし、玉兎を挟んで馬と反対側に座り込んだ。

「⋯⋯さて⋯⋯人心地ついたし、飯にしようか」
「ありがとうございます。ほら、お前も少し休んでおいで⋯⋯」

 首を軽く叩きながら玉兎が言うと、馬は素直に従って近くの草を食みだした。公孫瓚は馬が離れてから包みを解いて彼女との間に置き、さっそく握り飯を手に取る。馬上で振り回されたおかげで腹が減った。

「いただきます」

 玉兎も手を合わせ、遠慮なく口に運ぶ。運動した後の食事は美味しい。隣に彼がいるから、なおさらに。
 平和で、のどかで、彼の隣に在って。こんな毎日がいつまでも続けばいいと願っている自分がいつからか存在していることに玉兎は気付いていた。そんなことは、長沙の兎、虎の牙の一本である自分自身が許さないことも分かっているのに。桃花が子を産んだら、この地を離れなければならない。そうしないと自分が辛くなるばかりだと、それも分かっていることだった。

 穏やかな時間には、こんな風に考え込むことが増えていた。

「玉兎? ⋯⋯どうかしたのか?」

 隣の気配が急に暗くなり、公孫瓚は目を向けた。

「いえ、⋯⋯なにも」

 答えたその笑顔は、無理しているなと分かるものだった。だが、次の言葉には驚きすぎて握り飯を落としそうになった。

「ところで、公孫瓚さまは、嫁を迎える気はないのですか?」
「えっ、ぉ、いや、あ、ああ、うん、ぉお、おれは⋯⋯いや⋯⋯えっと⋯⋯」

 彼女のほうから色めいた話を振ってきたことに期待やら妙な気恥ずかしさやらが湧いてきて、公孫瓚は盛大にどもった。玉兎は面白いくらい挙動不審になった自分を黙ったまま待っている。一つ大きく息をして、公孫瓚は話し出した。

「⋯⋯なんというか⋯⋯俺はどうも、タイミングの悪い侠らしくてな」

 言葉の意味を窺う目顔に、公孫瓚は続けた。

「女に興味がないとかそういうわけじゃないんだが⋯⋯現に人並みに恋をしたこともあるし。初恋は故郷の村の娘だった。村で一番歌が上手い娘でな。でも、好きなのかもしれないと気付いた頃に、盧植先生の下に弟子入りして⋯⋯」

 握り飯の最後の一欠けらを口に放り込み、咀嚼して飲み込むと彼は目を細めた。昔を思い出す目だ。

「⋯⋯先生が亡くなって故郷に帰ったときにはその娘はもう結婚してた。次の娘も、良いなあと思った頃が連合軍結成のための起兵前で、それで同じように戻ったら結婚してた。最後は父が亡くなる前だった。俺はその頃、まだ──いや、いまでもだが──未熟で、父の後を継ぐためになんとかやっている間に、その娘もやっぱり結婚してた」
「⋯⋯あなたが惚れるのですから、きっと皆良い娘だったのでしょうね」
「うーん⋯⋯俺が、というのは同意しかねるが、確かに皆、素敵な娘だったよ、」

 妙な沈黙を落とし、公孫瓚はそわそわと視線をうろつかせ、

「⋯⋯お前のように」

 小川のせせらぎにさえ掻き消されそうなほどか細い声で付け加えた。

「わたしには色恋は分からないのですが、辛くはなかったのですか?」

 玉兎は聞こえなかった振りをしておいた。答える術も知らないし、そんなこと言われたってお互いが困るだけだ。
 公孫瓚は少しガッカリした様子で、しかし気まずくなるのは避けたいのか、それ以上触れずに続けた。

「⋯⋯まあ⋯⋯辛くなかったといえば嘘になるな。でも、それどころじゃなかったというのもあるが、正直、そんなことでいちいち傷付いていたら身が持たないしな」
「そんなものですか」

 “そんなこと”で済ませられるのは、やはり背負うものが重いからなのだろう。自分はそうなれるだろうか。いや、ならなければいけないと分かっている。自分の気持ちを優先してしまうのは、確かに無責任なのだろう。それでも、いつもそうしてきた。虎の牙になったのも、戦場に出るのも、そうしたいと思って、それが少なくとも自分にとっては正しかったからだ。だが、自身の道理の中だけで筋を通すのは甘えでもある。

「⋯⋯父が亡くなったとき、」

 玉兎が食べ終わるのを見計らったように、ぽつ、とふたたび口を開いた公孫瓚に、水の流れをぼんやり眺めていた彼女は視線をやった。

「⋯⋯俺は、お前を思い出したよ」
「⋯⋯わたしを? ⋯⋯なぜです?」

 脈絡がなくてよく分からず、彼女は首を傾げた。

「郿宇城での決戦の後、お前が、泣く兵士の肩を抱いて慰めている姿を思い出したんだ。俺もあんな風になれるだろうかと、お前のように民や兵の心に真に寄り添い、支えになってやれるだろうかと⋯⋯」
「あなたは立派に務めておられますよ」

 公孫瓚は彼女の言葉に首を横に振った。

「自信がない。いまだ白馬陣ですら満足に操れないのに。
 ⋯⋯趙雲が俺の下に来てくれたのは俺にとって本当に幸運だった。皆を支えようとして、だが支えられているのはいつも俺のほうだ」
「ご自身をそんなに卑下なさらないで。あなたが皆のことを真に考えているからこそ、皆もあなたを支えようと思うのです。まことの君主は民と心を同じくし、民もまた君主のためなら死も恐れず──周瑜さまはよくそう仰っていました」

 黙り込んだ公孫瓚に、玉兎は朝と同じ困り顔になる。こんな風に弱い部分を曝け出してくれると思っていなかったし、それを不意に見せ付けられて胸が苦しい。何か、よく分からないが、何かを許されているような気になる。

「⋯⋯⋯⋯玉兎⋯⋯」

 弱々しく呼ばれ、縋る子供のようなその声色に、思わず手が伸びかける。膝の上できつく握り込まれた彼の拳がどうしてか痛い。

「玉兎⋯⋯俺の妻になってくれないか」
「──、⋯⋯⋯⋯えっ?」

 唐突過ぎて言葉の意味を理解するのに数秒かかり、玉兎は目を真ん丸くした。いや、色恋の話をしていたし唐突ではなかったのかもしれないが、常に相手を慮る彼がその台詞を言うなどとは予想だにしていなかった。

「俺は未熟だ。お前に辛い思いをさせることもあるかもしれない。そもそも分かっている、俺は身勝手な気持ちを押し付けようとしている。お前が虎の牙であることも理解していて──それでも、どうしてもお前に傍にいてほしいんだ」
「公孫瓚さま──」
「俺が嫌だというなら妻にならずとも構わない。だがどうか、この地に留まってくれないか」

 玉兎は溢れそうになる気持ちを抑え込み、努めて静かに返した。

「⋯⋯わたしが去ったところで、あなたにとっては“そんなこと”ですよ」
「いや、違う」

 彼は強く、普段の物腰の柔らかさからは想像もできないほど強く否定した。

「俺は、好いた女の結婚を祝福してきた。してくることができた。いままでは。だが、お前が誰か他の侠の物になると考えると⋯⋯俺は⋯⋯俺は、きっと、」
「でも、いま、妻にならずともと言ったではないですか」
「分かってる──分かっている。こんなの矛盾している。俺は⋯⋯怖い。こんな、自分を抑えられないなんて、お前一人のために何もかも捨ててでもと思う自分が怖くて堪らない」

 独白に、玉兎は言葉を探したが見つからなかった。項垂れ、顔を覆った侠の肩に触れられたなら。応えられたならどれほど楽なのだろう。

「お前も、俺の元を離れたら、もう二度と戻ってこないんだろう。あの娘達と同じように」

 いちいち傷付いてなんかいられない。だからといって痛みを感じていなかったわけではない。傷跡が今になって、塞がった肉の下で膿んでいることを知る。その膿みの中、昏い望みが鎌首を擡げている。

 彼女が自分以外の誰かの物になるくらいなら⋯⋯。

「玉兎──!」

 答えられずうつむいていた玉兎は、突然肩に掴みかかられ、踏ん張りが利かずに地面に押さえ込まれた。抵抗も出来ず⋯⋯そして、する気も起きなかった。泣きだしそうな侠の目を見ると、悲しくて苦しくて身体に力が入らなかった。

「頼む、ここにいてくれ。俺の傍にっ⋯⋯!」

 唇をぶつけてきた公孫瓚に、このまま手篭めにされるのかな、と茫然と思う。それでもいいかな、とも。
 そうして受け入れようとしていた玉兎だったが、公孫瓚は呼吸を求めて口を離すと、それ以上何もしなかった。腕を掴まれ、肩に顔を埋ずめられ、縋られる。忙しなく息を整える彼は声を押し殺して泣いていた。
 いつも優しくて誠実な彼の、胸の奥にある剥き出しの熱い何かに触れて、玉兎は自分の心がどうしようもなく溶け出すのを感じた。

「公孫瓚さま⋯⋯。わたしは⋯⋯周瑜さまの妾なんです」

 喪心した様子で彼は顔を上げた。濡れた頬を指で優しく拭い、玉兎はそっと囁いた。

「⋯⋯と言っても、名ばかりですが。
 あの戦いより以前、孫堅さまはわたしを正式に養女として迎えてくださいました。それで孫策さまも妹のわたしを妾にはできないと仰ってくださって、お二人の命で周瑜さまの妾となりました」

 何か言いたげに震えた彼の唇を指で制し、玉兎は苦笑した。

「言ったでしょう。名ばかりです。豪族の下へやらないために、誰かの物にならなくてはいけなかったんです。
 周瑜さまはわたしの体裁のために部屋に呼びつけても、手も触れませんでした。寝台をわたしに譲って、自分は椅子で寝ると仰るんです。でも部屋の主を布団から蹴り出して自分はのうのうと眠るなんてできないでしょう? しょうがないから、二人で朝までお話をしたり兵法を教わったり⋯⋯そんな風に過ごしていました」
「⋯⋯⋯⋯だが、名ばかりでも周瑜殿の妾なら、俺には最初からチャンスなんてなかったわけか」

 悄然と肩を落としてのろのろと身体を起こした公孫瓚は、あまりの情けなさにふたたび顔を覆った。だって、完全な一人相撲だったということだ。
 同じように身体を起こした玉兎は、まだ迷いながらも続けた。

「⋯⋯この旅に出る前に孫策さまは言われました。“もし旅の先でお前の心を動かす侠が現れたなら、好きにしろ”と。そして、“そのときには妾から引き下げる”とも」
「なら──」
「ですが⋯⋯わたしは虎の牙です。戦いのときには、必ず孫一族のお傍に。それでも良いのですか。あなたは、それを許してくださいますか」

 今度は公孫瓚が答えられず、黙り込む番だった。

「それに⋯⋯わたしは武の道しか知りません。詩も詠めず、音楽も知らず。舞の一つくらいならできますが、女としての作法も、妻としての心構えもありません。それでも、あなたは本当にかまわないのですか。
 あと、その、⋯⋯。⋯⋯房事の、こととか⋯⋯も、⋯⋯ほとんど⋯⋯。それに⋯⋯傷痕だって、あります。⋯⋯手だって、⋯⋯ね、見てください。侍女のほうがよほど綺麗です。わたしは女であって女でないんです。それでも、⋯⋯それでも、あなたは、本当に⋯⋯」

 訥々と言う彼女に、公孫瓚はまた目頭が熱くなった。彼女はこんなにも一生懸命に自分に向き合おうとしてくれている。
 膿んだ傷跡が、彼女の視線一つ、言葉一つ、その真心に癒やされていくのが分かる。

「俺は、⋯⋯後悔したくない。だが、お前にも後悔してほしくない。
 ⋯⋯いまは⋯⋯まだ約束できない──だが必ず、できれば、⋯⋯近いうちに。お前の望みに首を縦に振ってやりたいと思う」
「公孫瓚さま──」

 潤んだ瞳を向けられて、公孫瓚は堪らず彼女をきつく抱き締めていた。






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