身体を離してふたたび腰を落ち着けた二人は、ぽつぽつと会話をしていた。

「その⋯⋯初恋がどうのと妙な話を聞かせてすまなかったな」
「いえ⋯⋯」
「それに、乱暴してすまなかった」
「⋯⋯いえ、平気です」
「怪我はないか?」
「ええ。⋯⋯⋯⋯あなたは⋯⋯本当に優しい。手加減していたでしょう。わたしが本気で抵抗すれば逃げられるように」
「⋯⋯い、いや⋯⋯。まあ、俺が本気で押さえ込んだところで、数合とはいえあの呂布と斬り結んだお前をどうこう出来るとは思っていないがな⋯⋯」

 乱心した振りで迫ったことを見抜かれていたことに、公孫瓚は尻の座りの悪い思いで頬を掻く。いや、乱心していたのも確かなのだが、頭の芯は自分の愚かさと卑劣さに冷え冷えとしていた。穏やかな風に吹かれ、いまさらに良心が痛み出す。

「あれは⋯⋯本当に運が良かっただけです。わたしは頭に血が上っていて、呂布は本気ではなかった。もし奴が本気だったら、わたしは今頃生きてはいません」

 少々辟易した様子で玉兎は溜め息交じりに答えた。長沙を旅立つ前にも義兄や兵達から、呂布に斬りかかったことを同じように言われている。この地へ来る前に寄った許昌でもだ。
 どうも気まずい沈黙が落ち、この話を続けるのは得策ではなさそうだと踏んだ公孫瓚は話題を変えた。

「⋯⋯しかし、その⋯⋯なぜだ? お前が嫁云々と言い出したときは本当に驚いた──いままで、俺の気持ちを分かっていながら、ずっとはぐらかしてきただろう。なのに、なぜ急に俺に応える気になってくれたんだ?」
「い、え──そういうつもりだったわけでは⋯⋯」

 ばつが悪そうに視線を逸らした彼女は、歯切れ悪く口の中で言葉を転がした。

「⋯⋯わたしたちに望みはないのだと、そう、あなたの口から聞けたら⋯⋯諦められると、思って⋯⋯」

 そんな思惑を持って話を振ってきたのかと公孫瓚は驚いた。互いに打算の上であったことに、どっちもどっちだったのだなと思う。なんとなく罪悪感が払底されて、ならば遠慮することはないのではないかという気持ちが湧いた。

「⋯⋯そんなことを俺に言わせようとしていたのか。ひどいヤツだ」
「ひどい──そう、⋯⋯そう、ですね⋯⋯ごめんなさい」
「許せないな」
「えっ⋯⋯」

 玉兎は怯えて顔を上げた。ぐいと身を乗り出してきた公孫瓚に、身体を強張らせる。

「とても、許せない」

 言葉とは裏腹に、彼の笑みは優しかった。だが、少し幼い、いたずらっ子のような笑顔だった。

「仕返しだ」

 顎を取られ、そして目前に迫った瞳に、玉兎は思わずぎゅうと目を閉じた。眦にやわらかいものが触れ、ますます身体が硬直する。
 公孫瓚は彼女の様子を感じ取りつつも、唇を下に滑らせた。さきほどとは違う、身勝手にぶつけるのではない、彼女の気持ちを確かめるように、ゆっくりと。

「んっ⋯⋯」

 固まっていただけなのかもしれないが、玉兎は逃げなかった。拒否しなかった。それが嬉しくて、公孫瓚は先をねだって彼女の唇を不躾に舐めてみる。⋯⋯と、さすがに限界だったのか、それとも腰に手をやろうとしていたのを察知したのか、玉兎が素早く立ち上がった。

「も、っ⋯⋯そ、そろそろ、戻りましょうか⋯⋯!」

 そそくさと馬に寄っていく。手綱を掴んだ彼女のその背に圧し掛かるように捕らえ、公孫瓚は小さな耳に口付けた。

「まだ仕返しは終わってないぞ」
「っ⋯⋯!!」
「えっ? 玉兎!?」

 膝からへたり込みそうになった彼女の腰を慌てて抱き支える。玉兎はもう項まで赤くなっていた。

「⋯⋯すまん、⋯⋯大丈夫か?」

 とりあえず座らせてやる。やりすぎた、呆れられただろうか。というか、大丈夫だろうか。あまりに朱に染まった耳や項を見て二重の意味で心配する公孫瓚だったが、

「こ、っこし、が⋯⋯」
「⋯⋯もしかして、⋯⋯腰が抜けたのか⋯⋯?」

 微かに頷かれ、胸を撫で下ろしたと同時に、熱いものがふつふつと腹の底から生じた。安堵に落ち着いた胸中がざわざわして、興奮しているのにどうしてか笑いが込み上げた。

「ふ、っ⋯⋯く、くくっ⋯⋯」
「笑うなんてひどいです⋯⋯!」

 涙目で訴えてくる彼女に、公孫瓚は晴天の空と同じく晴れ晴れと、声を上げてひとしきり笑ってしまった。

「いや、すまん──お前があんまり可愛いものだから、つい」

 そう言われてしまうと、経験の浅い玉兎にはもう言い返す言葉が見つからない。うう、とうめき、せめてもの抵抗にそっぽを向いたが、軽々と抱き上げられてそれも無駄に終わってしまった。

「なっ、なにを⋯⋯!」
「なに、お前の言うように、そろそろ戻ろうかと」
「ある、歩けますから⋯⋯!」
「駄目だ──というより、嫌だ。離したくない」

 そんな台詞を吐きながらもあっけらかんとしている公孫瓚に、玉兎はぱくぱくと口を開閉させた。横抱きにされたまま馬の背に跨られ、今更じたばたしてみるがもう遅い。動きを封じるようにますますきつく抱き込まれると、侠の腕の力強さに胸が激しく燃え立った。全身がカッカと熱くなる。

「桃花が妬くかもしれないな⋯⋯。ああ、だが、馬じゃなくて俺の膝に乗ってるんだから大丈夫かな? なあ、どう思う?」

 向けられた笑顔は少し意地悪で、でも優しくて、眩しくて。

 自分はもしかしてとんでもない侠に惚れてしまったのではと、玉兎は光風のごとく巻き起こる喜びと共に戦慄いていた。






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