頬に指先が触れた。触れがたいものに触れるように、繊細に。
 頬に手の平が触れた。大切なものを護るように、大胆に。
 そして唇に唇が触れた。愛するものを愛するように。

「曹操さま」

 見上げた先に、笑みがある。降りかかるそれは優しかった。喜びも悲しみもなく、ただただひたすらに、底抜けに、途方も無く。

「大好きです」

 そうして彼女は行ってしまった。二度と戻らぬ星の海へ、手の届かない彼岸へと。

















 ふと、目が覚める。覚めなければ良かったのにと毎回思う。同じ数だけ、それは許されないと戒める。
 絶望の夜明けに、彼は──曹操は、立ち上がった。砂漠の夜は心底冷えたが、案外死なないものだなとぼんやり考えた。

 いま、死を望んでいる。生きていても仕方がないと感じる。過ちを犯してのうのうと生き長らえている。
 いま、生を望んでいる。生きねばならないと感じる。過ちを少しでも償うための死に場所を求めている。
 成すべきことを探している。そんなものはないと知りながら。

 あの日。あの夜。
 玉兎は、星になった。
 彼女は自分に口付け、飛び立ち、絶望という名の暗雲を払って──その先の行方は、知れない。

 望みはないと分かっている。諸葛亮も、彼女の星はすでに見えないと言った。深手の身で無茶をすれば当然の結末だった。
 彼女が誰がために命を懸けたかといえば、自分のためだった。自分のような男の、犯した過ちのために命を懸けた。愚かだと思う。彼女が、なによりも自分が。その愚かさに眩暈がするほどに。

 曹操は夜明けの砂漠を、まだ薄い影を引き連れて歩き始める。生き物の気配はない。それにどこか安堵した。

 ブルーウイングの中で、玉兎は唯一、自分に表立って反対した存在だった。彼女の性格から考えれば、間違いなくそうなるだろうと分かっていた。分かっていて計画を話した。どうせ実行前に知るところになることは明白だったからだ。そして自分を殺してでもとめられないことも分かっていた。部屋に幽閉しておけばそれで済む、そのはずだった。
 だが玉兎は自分に得物を向けた。その瞬間、目の前が真っ赤に染まった。それは怒りでも悲しみでもない。憎悪と、紛れもない殺意だった。
 感情を御する術も、その気もなく、憤怒のままに斬り捨てた。彼女は深手を負いながらも逃げ延びたが、自分がその身を案じることはなかった。司馬懿は追うかどうか訊ねてきた。手応えはあった、直に死ぬ、だから捨て置けとそう言った。

 彼女は諸葛亮の元に逃げ延び、命を拾った。そして拾った命をふたたび捨てた。こんな男のために。

 曹操は、徐々に高くなる陽を見上げ、忌々しげに目を細めた。
 あの夜から、昼間が嫌いになった。星が見えないからだ。星を見ると少しだけ気が安らいだ。あそこに彼女がいる。星の瞬きに、あのときの笑顔が降りかかるように感じられた。
 あの夜から、星が嫌いになった。あの中の一つが彼女だと知っているからだ。偲ぶことなど許されようはずもなく、懺悔することすら許されないと、星を見上げる度に痛感した。

 たぶん、自分も彼女が大好きだった。
 世界を憂う彼女の悲しみを少しでも癒やしてやれたならとも思っていた。汚い言い訳だと分かっているが、それは確かに、自分が凶行に及んだ理由の一つだった。
 傍にいて涙を拭ってやれたならと思っていた。その役目が常に自分であることを願っていた。
 笑顔でいてほしいと思っていた。それを与えるのも与えられるのも自分であればと望んでいた。
 共に生きたいと思っていた。どんな最期になるにせよ、その瞬間に隣に在れたらと思い描いていた。
 それを愛というなら、自分はきっと彼女を愛していた。そしておこがましくも、いまも愛している。

 あのとき斬り捨てたものは、正義の前では些末なものだった。それが最も大事なものだったのだと今なら分かる。
 何もかもが遅すぎるのだ。全てが終わったその後に、ようやく気付いて、手遅れだと知る。後悔とはそういうもので、人はそうして生きていく。

 彼女はいない。この世界のどこにも。

 だから価値を見出せない。あらゆることがどうでもいいし、どうなろうが構わない。彼女のいない世界に生きる意味など何もない。自分にとっての世界とは、彼女が在って初めて息づくのだと知った。だが今さら死んだところで彼女と同じ場所に行けるはずもなく、安易な死は逃げだということも分かっていた。だからこうして生きている。

 たった一つの理由。償い、ただそれだけのために。

 曹操は、行く宛もなく彷徨い続けている。虚無の世界の間に間に、漫ろ歩いて死に場所を切望し続けている。
 陽が頂点に差し掛かるにつれ濃くなる影は、まるで彼の心をそのまま現に映し出しているようだった。

 真っ黒な、光明の一筋もない闇の中。
 彼は、いま、死にながら生きている。






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